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『孔雀とナイフとヒエラルキー』第3幕

孔雀

1

 いよいよ一年が終わるという冬の空。昼の十三時、私は待ち合わせをしていた。相手は佐伯くんという同い年の男の子で、倉持さんの家の隣に住んでいた。程なくして、長身のすらっとした男の子が私の前に現れた。相手と私は幾らかお互いを見合ってから挨拶を交わした。
「佐野さんですよね? 佐伯です。よろしくお願いします」
「そうです。こちらこそよろしくお願いします」
「では、早速行きましょう」

 私と佐伯くんはゆっくりと歩き始めた。程なくして、彼の方から言葉が出た。
「佐野さんは、石崎さんの友達なんだよね。どうして、咲ちゃんのことを気にかけてるのかな?」
「おととい、友美と倉持さんが喧嘩しているところに出会したんです。それで、二人に仲直りしてもらいたく……」
「仲直り?」
 彼の歩みが止まり、声に強い不信感のような物を感じた。私の足も止まる。
「咲ちゃんは、仲直りなんか求めてないと思います」
「どうしてそんなこと言うんですか?」
 彼の顔にはますます怒りの気持ちが表れた。それから、一瞬何か言おうとして、考え直すように頭に手を当てた。
「それは、本人に直接聞いてほしい」

 それから私たちは無言のまま歩いた。その間、佐伯くんは一度もこちらを見ずにただ進んでいくだけだった。歩くことおおよそ十分。彼は足を止めて私の方を振り向いた。
「ここが咲ちゃんの家。ちょっと待っていてください」
 目を向けると、そこにはごく普通の一軒家が建っていた。目の前には格子状の柵がある。彼は柵を退けて玄関前まで行くと、インターホンを鳴らした。
「こんにちは、倉持さん。佐伯です。咲ちゃんはいらっしゃいますか?」

 少し待っていると、玄関が開いた。中から出てきたのは、五十代ほどに見える綺麗な女性だった。
「信介くんね。久しぶり」
「お久しぶりです」
「ところで、あちらにいるあの子は誰かしら?」
 私は慌てて、玄関前まで行って、女性にお辞儀をする。
「はじめまして。佐野由香里といいます。倉持さんの同級生です」
「まあ、そうなのね。咲の母です。よろしくね」
 倉持さんのお母さんがお辞儀をする。それから私たちは、家の中へと通された。

 家の中は質素だった。整然と並べられた本たち、ホコリ一つない床、どれを取っても綺麗という言葉が浮かんだ。ただ、私には一つ気がかりなことが有った。この家は綺麗過ぎた。その正体がなんであれ、私には何かを感じずにはいられなかった。
「お茶でも、どうぞ」
 そう言って、倉持さんのお母さんはコップにお茶を注いでくれた。

「咲は、今外に出てるから、帰るまでちょっと待っていてね」
「はい、ありがとうございます」
 私はありがたくお茶を頂いた。そうしていると、倉持さんのお母さんが物憂げな顔をした。
「咲がどうしたのですか? また、喧嘩でもしたのですか?」
 倉持さんのお母さんは、焦っているようにこう尋ねてきた。
「倉持さん……」
 佐伯くんが彼女の肩をさすった。彼女は胸に手を当てて苦しそうにしている。その光景が、私にはどこか変に感じられた。私の中で何か苦しい物が溜まった。それで、思わず、いつもより大きな声で、逆に聞いた。
「あの、倉持さんに、咲さんに、何が有ったんですか? なぜ、彼女はあんな行動を取っているんですか? 聞きたいのは、こっちの方です。それがわからないと、こちらは何もお答えできません」
「あんた、なんて失礼なことを!」
 佐伯くんは立ち上がって大声を上げた。すると、倉持さんのお母さんは彼の服の袖を何も言わずに引っ張って制止した。彼は苦い顔をして座り直した。

「咲のことを案じてわざわざ来てもらったのだから、まずはこちらから話すわ」
「良いのですか?」
 佐伯くんが怪訝そうな顔をしてこう言った。この様子だけを見ていると、まるで二人は主人と長年仕えている召使いみたいだった。
「構わないわ」
「ありがとうございます」
 私は深くお辞儀をした。

「咲は、とてもいい子だった。いつも洗い物や洗濯を手伝ってくれたり、私の肩を揉んでくれたりしてね。優しい子だったわ」
 それから彼女は一つ息を吐いて、悲しい顔をして言葉を続けた。
「中学二年の頃、友美ちゃんから急に無視されるようになったって、言い出してね。それで私は、あなたがいけないことしたんじゃないかって少し強めに責めてしまって。そしたら、今度はびしょ濡れになって帰ってきた日があって、咲は大泣きしてた。その時になってはじめて気がついた。咲はいじめられているって。でも、私が責めてしまったせいで、それ以来何も口聞いてもらえなくなった。それっきり、咲は家のことを何もしなくなったし、部屋の掃除もしなくなった。あの時、ちゃんと気づいてればこんなことにはならなかった、の、かな……」
 倉持さんのお母さんはその場で泣き崩れてしまった。佐伯くんが水を持ってきたりして大丈夫、大丈夫と言っていた。彼と目が合った瞬間、私は彼の深い闇を垣間見た。

 これは私がいけなかったのか? ここで、この話を切り出した私が責められるべきなのか? 私は何もできずに、ただそのことを考えていた。後になって振り返れば、私は、正しいことをしたかった。倉持さんのことをなぜか助けたくなってしまった。こう思って行動を起こした時、私がずっと抱えていかなくてはならない罪が生まれたような気がしてならない。私はどうしようもない人間だ。

 私と佐伯くんと倉持さんのお母さんの間に静寂が訪れた。何を話せばいいのかわからなかった。すると、玄関の方から鍵を開ける音がして、荷物が落ちたような音がした。向こうの方から早足で誰かが来ることは理解できた。
「なんで、あなたがここにいるの!」
 ドアが勢いよく開いて、その向こうから倉持さんが現れた。彼女の服装は全身黒づくめでとても地味だった。そんな彼女は私の手を掴んで引っ張った。
「離して!」
 彼女はそれを無視して、玄関の方へと戻ろうとする。
「やめるんだ、咲ちゃん! そこまでする必要はないだろ!」
「そうよ! 離してあげなさい!」
 佐伯くんや母親の静止すらも振り切って、早足で私を家の外へと連れ出した。靴を履く余裕もなく、私たちは靴下のままで地面を歩いた。ただひたすら無言で歩いて、川辺の方へと連れ出された。
「倉持さん、離してよ!」
 すると彼女は私の手を振って引き離した。その勢いで私は川の中に飛び込んでしまった。服が一瞬で濡れた。

「私の家に何しに来たの!」
 声を荒らげて、彼女はこう言った。私はこの言葉を聞いて、彼女を、咲を助けなくちゃと思った。
「あなたを助けたいの!」

 これは私の心からの声だった。私はこの瞬間、久しぶりに心の声を叫べたような気がする。だが、彼女はそれを受け入れてくれなかった。私の頬に冷たい拳がぶつけられた。彼女の拳は何発もぶつけられた。私が立ち上がれなくなってなおも、咲は拳をぶつけ続けた。
「私のことなんて放っておいて!」
 そう言って、彼女は川岸に戻ろうとした。ここで折れたら、きっと後悔する。私は力の限り叫んだ。
「放っておけない! だって、助けを求めているのはあなたの方でしょ!」
「求めてない!」
「いや、聞こえるよ! あなたの心から『助けて』っていう声が!」

 その時、彼女は初めてうろたえた。後になって考えれば、それは彼女が無意識のうちに心の声に蓋をしていたから。この時になってようやくその事に気づいたからだったのかもしれない。
「……助けて」
 彼女は涙ぐんでいた。それから、私の方に手を差し出した。私はその手を掴んで立ち上がった。
「もちろん」
「前にも聞いたけど、友達になってくれる?」
 自信なさげなその声に、私は堂々と、
「うん」
 と返した。

 私と咲は川辺に戻って、原っぱで一緒に座った。日が徐々に傾き始め、遠くの方から子供たちの楽しそうな声が聞こえてきた。お互いの服は濡れたままで、私たちはなんとなく空を見つめた。
「ねえ、孔雀座って知ってる?」
 彼女がこう言った。

「知らない。初耳だよ」
「そう。なんかごめんね」
「いいよ。それで、どんな星座なの?」
「何年か前に知ったんだけど、射手座よりも南の方にある星座で、日本だと九州の方まで行けば、見れるんだってさ」
「へえ、そうなんだ」
「私、死んだら孔雀にでもなりたいな」

 咲の目には憂いがあった。私は彼女の目を見て、この憂いた目はただの気のせいだと思うことにした。してしまったのだ。
「綺麗だよね、孔雀って」
「そうでしょ。だからなりたいの」
「ねえ、今度さ、その孔雀座を見に行こうよ」
「いいね。約束してもいいかな?」
「うん、約束する」

 私は小指を彼女に差し出した。彼女もまた小指を差し出して、私たちは指切りをした。
「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます。指切った」

 私たちはこの時の約束を果たすために、この後にある罪を犯した。
 これが私たちの美しい友情の始まりであり、同時に終わりの始まりでもある。

 私たちはひとまず、咲の家に戻る事にした。

2

 咲の家に戻ると、心配そうな顔をして彼女の母と佐伯くんが待っていた。
「大丈夫なの?」
「大丈夫。さっきはごめんなさい」
 咲は母に向かって謝った。
「大丈夫なら良いけど、二人とも随分とびしょ濡れね。咲、佐野さんに服を貸してあげなさい」
「うん」
「じゃあ、二人とも着替えてらっしゃい」
 私は咲の服を借りてそれに着替えた。上下黒づくめで、サイズが少し合わなかったが着られたので問題はなかった。

 着替え終わると、ちょうど咲の方も着替え終わっていた。昼間の時とあまり変わらない服装だった。
「そういう服装が好きなの?」
「そうね。あまりこだわってはいないけれどこういう服装が好きなの」
「そうなんだ」
「由香里のその服装、似合ってる」
「えっ、本当に?」
「本当」
 私は驚いた。黒尽くめの服が似合うとは思っていなかったからだ。リビングに戻ると、彼女の母や佐伯くんからも似合っていると評されたので、本当に似合っているようだった。

 咲が部屋に戻ると、佐伯くんが近づいてきた。
「ねえ、咲ちゃんのことを考えてくれてありがとう」
 彼は少し恥ずかしそうに深くお辞儀をした。
「さっきまで喧嘩腰だったの急にどうしたんですか?」
「ここを飛び出してから、あなたはちゃんと戻ってきた。それはつまり佐野さんが咲ちゃんと仲良くやっていけるだろうって、さっき思った」
 彼は頭を掻きながら複雑そうな表情を浮かべた。

 時刻は夕方の五時となって、空はもう暗かった。私が家に帰ることにすると咲は私の家の近くまで一緒に歩きたいと言った。彼女が私よりも先に外に出て待ってくれた。私が咲の家を出ようとすると、彼女の母が肩を叩いた。私が振り向くと彼女は昼間に見た時よりも顔が明るかった。
「どうか、咲のことをよろしくね」
 私は特に深くも考えず、
「はい」
 とだけ返した。

 暗がりの道を進みながら私と咲は話し続けた。内容は他愛もないことだった。好きなアーティストのこと、本のこと。この頃の私にはそういう他愛もないことを話せる友達がいなかったし、話してもどこか場違いな感覚があったのだけれど、なぜだか咲とだけはそういう会話を平気ですることができた。これは私にとって久しぶりの感覚だった。
 会話や群れの中に潜む駆け引きとかを気にすることなく、彼女とは話すことができた。
 
 この時、私は初めて彼女の笑顔を見た。彼女の笑顔には何か大きな力があるように感じた。彼女が本来は愛されて育った良い人なのだと理解した。

 歩いていると、彼女が何かを思い出したかのように足を止めた。
「そういえば、私のナイフがどこに行ったか知ってる? どこかで失くしたみたい」
 私は友美の家での事を思い出した。咲のナイフは今、友美が持っている。
「そのナイフなら今、友美が持っていると思う。一昨日、咲が友美の家からいなくなった後で見つけたけど、友美に取られちゃった……」
「……そう」

「あれ、大事な物なんでしょ?」
「そう。あれを持っていると落ち着くの」
「そうなんだ。ごめん……」
「ナイフはまたどこかで買えば良いから、大丈夫だよ。あとさ、提案なんだけど、良いかな?」
「良いよ」
「今度遊びに行かない? せっかく友達になれそうだから」

 私にとってこれは意外な展開だった。まさか彼女の方から誘われるなんてと思った。それと嬉しかった。
「うん、良いよ。いつが良いかな?」
「じゃあ、連絡先を教えて。後でチャットで決めよう」
「そうだね」
 私たちはそれぞれスマホを取り出して連絡先を交換した。
「よろしくね」
 こう言った時の彼女の笑顔には曇り一つなかった。
「こちらこそ、よろしく」

 咲と別れて家に入るとお母さんが私の格好を見てあれこれ聞いてきた。彼女に殴られたとは言えなかったので転んで川に落ちたと言った。すると、お母さんは少し微笑んだ。
「でも、良かった。なんか友達ができたみたいで」
「えっ」
「まあ、仲良くしなね」
 お母さんにはお見通しだったらしかった。私にはそれなりの付き合いである友達は何人もいたが、どこか求めている人とは違うような気がしていた。もちろん、その人たちのことも大事ではあるのだけど、これほどまでに大事にしようと思ったのは、咲が初めてだった。
 ご飯を食べた後で私は咲と連絡を取って、年が明けてからまた会うことにした。私はその日がとても楽しみに思えた。大晦日と正月、それから三が日にも楽しいことは沢山あったが、やはり私は咲と会う日のことが楽しみだった。

 年が明けて一月四日の朝。私は街の中心にある商業ビルの前で、咲のことを待っていた。到着してから五分くらい経ったところで、彼女がやってきた。相変わらず黒い格好だった。
「ごめん、待たせた?」
「いや、全然大丈夫だよ」
「じゃあ、行こうか」

 私たちはまずは映画を観ることにした。観たのは年末に公開されたばかりの話題のファンタジー映画だった。何年も続いているシリーズもので、内容はよくわからなかったが咲と一緒に観たということに意味があった。
「どうだった?」
 劇場を出ると咲から感想を聞かれた。私は正直に思ったことを伝えた。
「そうだね。内容はよくわからなかったけど、あなたと観れて楽しかったよ」
 この時、彼女は私の言葉を聞いてどう思ったのだろうか。彼女の本心は今となってはもうわからないのだが、この時の彼女はとても笑顔だった。

 それから私たちは買い物をすることにした。しばらく店を探していると咲がアクセサリーが欲しいと言って一緒に安いアクセサリーショップに行った。
 店に入るなり彼女はネックレスの置いてある方へと向かい、品定めを始めた。
「どれが良いかな」
「私も見るよ」

 私も一緒にネックレスを眺めた。とても綺麗な物が多くて、どれが良いのか悩んだ。目移りする中で、一際輝いて見える物が一つあった。
「ねえ、これ良くない?」
 私はそれを手に取った。それはオレンジ色をした小さな石が一つ嵌めらているネックレスだった。この時の私はこのネックレスは咲にピッタリなように感じられた。彼女はネックレスをまじまじと見つめた。
「うん、これで良いかも」
 咲は早速そのネックレスを買った。値段はそれなりだったらしいが、彼女はとても気に入ったようだった。

 アクセサリーショップを出た頃には時刻は昼前になっていたので、私たちはご飯を食べることにした。十分くらい探して近くで見つけた美味しそうなイタリアンに入って席を確保した。メニューを決めるのに二人揃って少し悩んでしまったが、その時間すらも私は楽しいと感じていた。

 注文した料理が届くと、私たちは無言で食べた。それがお互いにとって心地が良かったのだ。食べ終えてお店を出ると、咲が喜びを噛み締めるように呟いていたのが聞こえた。
「楽しい」
 彼女には心からの友達がこれまでいなかったのだ。いたとしても裏切られてしまったのだろう。だからこそ、言動やナイフで自分のことをずっと守ってきたのだ。心がこれ以上壊れないように。私は改めて、友美のことを考え直した。彼女はどうしてあれ程までに咲のことを妬んでいるのだろうか。そこにはきっと理由があるはずで、それを解せば、二人は仲直りができるのではないかと思った。だが後になって思い返せば、その考えが間違っていたのだ。悲しいことだが、友美を救おうとするべきではなかった。この時の私はあんな事になるなど思っていなかった。

 昼ご飯を食べた後、また少し買い物をしたところで、今日は解散することにした。
「じゃあ、次は学校で会おう」
 この時の咲は少し寂しそうだった。
「そうだね。じゃあ、学校で」
「待って、その前に」
「何?」
「一緒に写真を撮らない? 撮ってなかったから」
「そういえば、そうだね。撮ろう!」
 私たちはそれぞれのスマホを取り出して、ツーショットの自撮り写真を撮った。実は私にとってツーショットの自撮りを撮ることは初めてだった。普段はなかなかする気になれないのだけど、彼女とだけは撮ってもいいかなと思えた。
「顔が入らない」
「もう少し左に行けば入ると思う」
 お互い、自撮りには慣れていなかったので手探りでベストショットを探した。ちょうど良いかなというところで私たちはカメラのシャッターを切った。
「良いのが撮れたと思う。ありがとう!」
 撮れた写真はとても良かった。私と咲の笑顔が眩しいくらいに写っていた。

「じゃあ、また学校で!」
「じゃあね!」
 私たちはそれぞれの帰路に着いた。その直後、私は彼女から借りた服を返し忘れたことに気がついた。だが、まあ今度返せば良いかくらいに考えて、そのまま家に帰ることにした。悲しいことは刻一刻と迫っていた。

3

 年が明けて数日が経ち、学校が始まった。
 相変わらず、授業はつまらないが、一つだけ変わったことがあった。それは私に信じることのできる友達ができたことだ。

 私が一人で次の授業の準備をしていると真希ちゃんがやってきた。彼女と会うのは年末以来だった。
「倉持さんとはどうなったの?」
「仲良くなれたよ。その節はありがとう」
「良いの、このくらい。由香里ちゃんの顔、前よりも明るくなったと思うよ」
「ええ、そうかな?」
「そうだよ、絶対」
 この時の彼女の笑顔が私の目に今でも焼き付いている。

「良かった。由香里ちゃんが楽しそうで」
「えっ?」
「ううん、何でもないよ。じゃあ、次の授業の始まるから戻るね!」
「う、うん」
 私はうまく返事をすることができなかった。思えば、真希ちゃんは私に幸せでいて欲しかったのかもしれない。

 私と咲は学校ではあまり喋ったり一緒に行動するのは控えようと事前に決めた。それは友美やその周りの人を刺激しないためであったし、咲が学校ではうまく喋れないということだったからだ。
 そんな事もあって、この日の私は教室で一人昼ご飯を食べようとしていた。咲の方も違う場所に行ったみたいで教室にはいなかった。すると、同じ部活の渡さんが私も座席までやって来た。彼女は気まずそうにひそひそ声で話しかけてきた。
「由香里ちゃん、友美から逃げて。由香里ちゃんが倉持さんと仲良くしているところを見た人がいた。それで、友美が怒っちゃったの。カンカンよ。すぐに距離を置いた方がいい」
「どうして、そんな事私に言うの」
「あなたに幸せでいて欲しいから」
 すると、私さんの肩を誰かが叩いた。

 彼女が振り向くとそこには友美がいた。彼女の顔はとても怖かった。友美は私に囁いた。
「倉持と仲良くなったみたいじゃない。私はそれを許さない。だから、放課後どこか空いている教室で二人で話をしましょう」
 彼女は渡さんの肩をまた叩いた。
「あなた、何でここにいるの? まさか私のことを警告しにきたんじゃないよね」
 渡さんの顔が強張っていた。
「大丈夫よ。これで何も咎めるつもりはないから。だって、私は寛大だもの」
 私はこんな事をしている友美の一体どこが寛大なのだと思った。それでも、彼女と話をしなければならない気がした。

「わかった。後で話をしよう」
「そうこなくちゃ」
 友美の手が私の肩に触れた。
「じゃあ、放課後」
 彼女は私の肩から手を離すと、いつも通りの表情に戻って教室の出入り口の方へと去って行った。

 放課後、私はチャットで咲に事情を話してから、友美と会った。彼女もまた一人きりだった。
「では、行きましょう」
 私たちは誰もいない教室を見つけ、そこへと入った。日はすでに傾き始めている。
「話って何?」
 最初に喋ったのは私の方だった。
「何って、あなた、最近倉持咲と一緒に遊んだんでしょ? 私が聞きたいことはそれだけ」

「聞いてどうするつもり」
「もちろん、あなたの悪い噂を流して苦しめてやる」
「そんな物、私にはないけど」
「まあ、そこはなんとかでっち上げてあげる」
 友美の心は壊れていた。何もないところから根も歯もない噂を流して人を傷つけようとしている。なぜ、彼女はそこまでするのだろうか。私は彼女が咲に抱く感情は狂っているように思えた。この時、私は少し後退りをしてしまった。
「あら、怖いの?」

 怖くなかったといえば嘘になる。それでも私は友美と咲の関係を修復するため、それと咲のナイフを取り返すために友美と真正面から向き合うことにした。
「ねえ、友美。咲のナイフを持っているでしょ。あれ、彼女に返してあげたら?」
「絶対にやだ」
 この時の友美の言葉には彼女が固い意志を持っているように感じた。

「どうして?」
「あんなやつ死んでほしい」
「そんなこと言わないでよ」
「私はね自分の手であいつを殺してやりたいんだよ!」
 彼女の声が果てしない空に響き渡る。その言葉は虚無と悪意に満ちていた。

「なんで、私ばかりこうなんだ! 本当の友達なんて誰もいないし、親だって私のことなんか構ってくれない! だからあの笑顔が憎たらしい! いかにも愛されて育ったようなあの笑顔が!」
 この瞬間、私は友美の中の果てしなく満たされることのない欲望の正体を垣間見た。いや、欲望と言い表すのは失礼だったかもしれない。彼女は本来満たされているべきものが満たされていないのだ。

「友美、あなたを心配してくれる人は本当にいないの?」
「いるよ! でも、いないって思ってた方が私は楽なの!」
「そんな……」
「だから本気で心配してくれたあいつが憎いんだ。許せないんだ!」
 私には彼女の理屈がわからなかった。いや、わかりたくなかった。これを理解したら私は決して、決して超えてはならない一線を超えてしまうような気がした。

 そう考えている間に、彼女はポケットに忍ばせていたナイフを取り出した。それはクリスマスパーティーで咲が落とした物だった。刃が私の方に向けられる。
「実はね、前々からあんたを見てると虫唾が走るの。いっつもいっつもヘラヘラして相手を煽ててさ。もう我慢の限界よ。死ね!」
 彼女は私の方に向かって走る。ナイフを振り上げて私の顔めがけて振り下ろした。私は慌てて左の前腕でガードした。その刹那、私の左前腕に恐ろしいほどの痛みが襲った。その場で倒れ込む。
「あああ!!」
 ナイフで切られたのだ。慌てて右手で左前腕を抑える。少し生温い液体が右の掌についた。抑えた所を見ると、そこには血が出ていた。それなりの量の血が地面にも付いた。

「もっと痛ぶってあげる。今度はそうね、目ね」
 そう言って彼女はまたナイフを振り上げた。だが、
「何事だ!」
 私の叫び声を聞いたのか、先生らしき人の声が聞こえた。それに加えて、何人もの人が階段を駆け上がる音が聞こえてきた。

「ああ、そんな……」
 友美は自分のしたことの重さをようやく理解したようだった。ナイフで人を殺そうとしたのだ。それに耐えきれなくなったのか、彼女は倒れ込んだままの私の顔を蹴った。
「この! お前のせいだ!」
 そう言い残して、彼女はナイフを持ったまま教室を出て行った。その顔にはやはり狂気があった。これ以降、私は友美の生きている姿を見ることは無かった。

 彼女が教室を出てから程なくして、数人の先生たちが入ってきた。先生の一人が慌てて電気をつけた。私の血で床が濡れていた。
「おい、佐野、大丈夫か!」
 担任の先生が側までやってきた。私の意識は少しずつ途切れていた。
「友美……」
 そこから、私の意識は一時間ほど途切れてしまった。意識が戻ってから聞いたことだが手を切られたことの心理的ショックと失血が原因だったらしい。

 保健室で休んでいると担任の先生がやってきた。
「具合はどうだ?」
「落ち着きました」
「それは良かった。で、一体何があったんだ?」
「……石崎さんと話していたら、突然向こうがナイフを出してきて斬りつけてきたんです。それで腕で庇ったらこんなことに」
 私は包帯の巻かれた左腕を見つめた。切られたあたりが痛い。

「それで、石崎さんは?」
「どこかに行ってしまった。刃物を持ったまま逃げているから街中大騒ぎだ。もう先生たちで探すのはやめて、警察の人たちが彼女を探している……」
「そんな……」
「まさか、彼女がこんな事をするなんて……」
 
 私は保健室の外を見た。すでに夜になっていて、学校の正門前は話を聞きつけたであろうマスコミの人たちでごった返していた。正門から帰るのは難しくなってしまったので、私は裏からこっそりと家に帰った。家に帰るとお母さんとお父さんが心配そうな顔をして待っていた。
「良かった、無事で良かった!」
 お母さんは私をきつく抱きしめた。それに続いてお父さんも私のことを抱きしめた。
 私は思わず泣いた。自分の不甲斐なさや友美への恐怖で泣いた。泣いていることが自然なことなのかおかしなことなのか、この狂ってしまった日常の中で私はわからなくなってしまった。
 友美のことはまだ取り返しがつく段階にあるとこの街の誰もが思っていた。元通りではないかもしれないが、それでもそれなりに戻すことができると信じていた。それは私もそうだし、咲も、真希ちゃんも、その他の全員もそう願っていた。そう願っていたのに。

4

 テレビやSNSを見ると、既に話題は私と友美のことで持ちきりだった。
「……の高校で起こった切りつけ事件について、警察は少女の行方を捜索しており……」
 ニュースキャスターが淡々と喋る。チャンネルを変えると、コメンテーターがそれっぽいことを言っていた。一方でスマホを眺めているとSNSにはさまざまなコメントが流れていた。
「この事件起こしたの、コイツじゃないか?」
「少女と被害者の同級生はどういう関係だったんだ?」
「またこんな事件が……」
「すぐに少女が見つかることを願う」

 またテレビの方に目を向けるとキャスターが速報を読み上げていた。
「……の切りつけ事件について、少女の両親が取材に応じました」
 画面がテレビ局のセットから、この街の中ではないどこかの広いお屋敷へと変わる。そこには友美の両親らしき二人が映っていた。映っている家はおそらく石崎家が持っている家の一つなのだろうと思った。どちらも顔は映っていなかった。
「今回、このようなことで世間をお騒がせしてしまい大変申し訳ございません」
 父親らしき男性が深々と頭を下げた。それに続いて横にいた女性も頭を下げた。

 いくつものカメラのシャッターが明滅する。友美の両親は世間に対しては詫びた。だが、それは心の底から詫びているものなのか私には甚だ疑問だった。彼らが本当に詫びるべき相手は世間ではなく、友美なのではないか。彼らが彼女を蔑ろにした結果がこれなのではないか。これは彼女なりの復讐だったのではないか。彼らが友美に大事なものを与えなかったから彼女はナイフという武器に頼らざる得なくなったのではないか。本当にナイフを必要としていたのは、友美の方も同じだったのだ。私はいつか友美の両親に彼女がどうしてこうなったのか教えてやりたいと思った。だって、きっと彼らはわかっていないのだから。

 そうしている内に咲から電話があった。
「もしもし由香里。大丈夫? 平気?」
「うん、まあね」
「良かった、無事そうで」
「腕はまだ痛いけどね」
「そうか。すぐ良くなるといいね」
「だね」
 咲の声には安堵の気持ちが含まれているように感じた。 私は思っていたことを率直に伝えることにした。
「友美は、これまでずっと辛かったんじゃないかな。友美はたぶん、両親とうまくいってなかった。だから、自分が一番偉いんだって、ヒエラルキーの頂点なんだって、思ってたんだと思う。それしか、できなかったんじゃないかな。自分の本当の気持ちにも嘘をついて、周りにも見栄を張って、こんな、こんな悲しいことってあるの。そんなの冗談じゃない。って、さっき考えてた」
「由香里らしい考えだね」
「そうかな」
 私は思わず笑ってしまった。電話越しでは自分の顔なんて見えないのに。それでも、やはり伝わるものだったみたいで、向こうの笑い声が聞こえてきた。

「そうだよ。だって由香里ちゃんはずっと私と友美のことを考えてくれてたんだもの。そこまで私たちの考えてくれる人あなたが初めてだった。由香里は頭の中でずっと何か考えている人なんだろうなって、声をかける前からずっと思ってた。だからあの時声をかけてみた」
「私は期待通りの人だった?」
「期待以上の人だった」

 咲の言葉を聞いて私は嬉しかった。咲の心を助けることができたのだと思うととても嬉しかった。
「ありがとう」
 少しぎこちなくなってしまったが、最大限の言葉で嬉しさを伝えた。

「そういえば、学校どうなっちゃうんだろう」
「そうだね。明日私は病院に行くことになっちゃった。学校自体はあるだろうけど、大変そうだよね」
「うん。じゃあ明日は会えないね」
「だね……」
「気にしなくていいの。また明後日会えればいいんだし」
「ありがとう」

「じゃあ、もうすぐ切るね。無事そうで良かった!」
「わざわざ電話ありがとう。じゃあ、また学校で」
「じゃあね!」
 咲との通話が終わった。切りつけられた腕はまだ少し痛かった。

 その晩、私は一人でずっとニュースやSNSを眺めていた。友美に関する情報が次々に流れていた。この時でさえ私はまだ取り返しがつくと信じていた。取り返しがついて、彼女の両親にも話をして、それで何もかもがうまく行くと固く信じていた。それでも、ネット上で錯綜する情報を見ていて私は疲れてしまった。実際にそこにいないのによくそんなことが言えるなと思った情報さえあった。

 ふと気になって、部活のグループチャットを眺めてみた。今日の夕方以降、真希ちゃんと渡さんを除いて誰もトークをしていなかった。
「友美ちゃん、由香里ちゃん、何があったのですか? 落ち着いたら返事をください。待っています」
「二人とも、落ち着いたメッセージをください。待っているね」

 それが二人からのメッセージだった。だが、なんとなくグループで返信するのは憚られた。なぜなら、真希ちゃん以外誰も何もメッセージを送ってないからだった。私は二人の個人チャットの方でそれぞれにメッセージを返しておいた。
「真希ちゃん、ありがとう! 私は今は大丈夫だよ。また後で連絡するね」
「渡さん、ありがとう! 私は大丈夫だから、安心してね。また落ち着いたら連絡します」

 私たちのヒエラルキーは友美が振りかざしたナイフによって簡単に壊れた。呆気ない崩壊だった。おそらくまた次のヒエラルキーが作られるのではあるが、そのヒエラルキーで彼女らは友美のことを捨て去るのだろうと思った。
「なんて薄情なんだろう」
 自分の部屋で一人思わず呟いた。それが私の本音だった。

 日付が変わろうとしている頃、リビングのソファに座ってテレビを見ているとお父さんが隣に座ってきた。
「何?」
「いや、今日は大変だったな」
「そうだね」
 お父さんはそう言って缶コーヒーの蓋を開けた。勢いよくコーヒーを飲んでから考え込むようにテレビの画面を見つめた。私も同じようにテレビの画面を眺める。
 
 こうしてお父さんとテレビを見たのはいつぶりだろうか。テレビでは相変わらず、友美のニュースが流れていた。画面を見つめながらお父さんは弱々しい声で呟いた。
「由香里が生きてて良かった」
 お父さんの目には少し涙が流れていた。お父さんは涙を手で拭うと私の方を向いた。
「その切りつけてきた友達とはどういう関係だったんだ?」

 私は少し考えた。私と友美は一体どういう関係だったのだろう。ただの友達だったのだろうか。深く考えれば考えるほど、答えは失われるような気がした。
「思うところもあったけど、やっぱり友達だって思ってた。だけどそうじゃなかったみたい……」
「そうか……」
「お父さんには友達って思える人いた?」

 お父さんは顔を天井の方に向けて何かを思い出すように大事な何かを伝えようと考えているみたいだった。
「いたよ。そう思ってた人。だけど、いつの頃からか疎遠になってしまった」
「そうなんだ……」
「そいつと疎遠になって思ったことは、実は人間なんてほとんどは自分に対して薄情なんだよってことかな」
「それは悲しすぎない?」
「悲しかったよ。とっても悲しい世界の事実だよ。でもね、もう一つ大事なことがある」

「それって何?」
 お父さんは真剣な眼差しで私の目を見つめた。
「たまに自分に対して薄情じゃない人もいるってことだよ。お父さんにとってはお母さんがそうだった。だから今がある。由香里はたぶん、世の中にたまにいる薄情じゃない人なのかもな。そこはお母さんに似たのかな」
 そう言ってお父さんは笑った。

「良い人になったな」
 私の顔を見つめながら、お父さんは私の成長を喜んでいるように思った。
「そうかな」
 私の方も思わず笑った。
「まあ、そのうち自分でも理解するさ」
 お父さんは私の肩を叩いて寝室の方へと戻っていった。私は未だにこの時のお父さんの言葉と眼差しを覚えている。

 私にはまだできることがあるだろうか。この晩、私はそのことをずっと考えた。考えて、考えて、考えることにした。整理のつかない気持ちを少しでも整えたかった。この頃になると少し前まで見ていたピラミッドが崩れていく夢は全く見なくなっていた。それは咲や友美と面と向かって向き合おうとしていたからだと思う。いつの間にかヒエラルキーのことなんて考えなくなっていた。

 この時、私は咲から借りた服をまたしても返し忘れたことに気がついた。今度こそ返そうと思って、このタイミングで借りた服一式を袋に詰めておいた。

 夜がどんどん過ぎていった。結局この日は自分の中で答えは出なかった。次第に眠くなったので、私は自分の部屋に戻って布団をかぶった。この日は沢山のことがあったはずなのに、すぐに深い眠りに入っていった。友美はどこにいるのだろうか。咲は何をしているのだろうか。他のみんなは何を思っているのか。そんなことを考えながら。

 この先もっと悲しいことが私や咲、友美を待ち受けていた。あまりにも辛い選択と行いと結末が待っている。この段階で最悪の出来事までの時間はもうあまりなかった。何があったのか語るべき時がもうすぐそこまで迫っている。


次回、幕間2


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