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『孔雀とナイフとヒエラルキー』第1幕

青春

1

 バスケットボールの試合、第三クォーターが残り1分に差し掛かり、私は意地を見せた。チームメイトの真希ちゃんからボールを貰って、相手のゴールへと進む。相手チームの防御をかわしてゴールへ近づき高く飛んだ。ボールは見事にゴールへと入り、地面に目掛けて落ちていく。着地した私の髪が少し揺れた。私の周りで歓声と拍手が起こる。それは体育館中に響く。観戦に来ていた何人かの引退した先輩たちが「よっ! 期待のエース!」なんて言って私のことを囃し立てていた。直後、休憩時間となった。第四クォーターを経て、最終的に試合は私たちのチームが勝利した。私たち一年生にとっての初陣であり、最初の勝利であった。

「今日は祝勝だ! えいえい」
 昼下がり。学校からの帰り道。同じチームの石崎友美が勝鬨を挙げる。私たちはそれに応えて手を掲げて「おー!」と一斉に言った。友美は私たちのリーダー的な人だった。彼女は普段からさまざまな場面で私たちを取り仕切っていた。友美の横顔を見つめる。私は友美の顔立ちは──私の基準ではあるが──そこそこに整っていて、それと共にこの‘世界’を立ち回るのが上手な人だと思っていた。

「それで、どこで祝うの?」
 仲間の真希ちゃんの素朴な疑問に全員がはっとした。私たちは慌てて祝勝会の会場を探した。宴の場所は二十分かけて探した末に安いファミリーレストランで開くことになった。私たちは高校生であるが故に十分なお金を持ち合わせていなかった。だから、普段はなるべく注文をしないようにしていたが、今日ばかりはお金遣いが荒くなった。
「すみません! ナポリタンください!」
「すみません! ティラミスください!」
 次々と注文する私たち。お酒は飲んでないのに次第に盛り上がって気づけばメンバーの何人かが大声で笑い転げていた。もちろん周りの客たちにはとんでもない迷惑になっていたと後になって気づいたが、そんなことが察せないほどに私たちの心は幼かった。

 宴での会話は次第に普段の学校のことにもなっていった。
「この前さ、二組の秋山を見たの。そしたら、秋山、他校の女子とデートしてた!」
「何それ、まじ!」
「ええ〜」 
 いつもそうなのだが、私は彼女たちの会話に次第についていけなくなっていた。だけど、彼女らの話は聞いていないと自分の地位が失われる。今もまた、秋山君という一人の男子のランクが彼女たちの中で低下した。
「キモいね」
「うん、キモい」

 私は彼女たちの言葉を聞くだけで、ただオレンジジュースを一口、また一口と飲んだ。私たちのいる‘小さな世界’には目に見えない大きなヒエラルキーが存在した。誰が作ったのかはわからない、おそらく自然にできた見えないピラミッド。私を含め全員がそのピラミッドにしがみついている。ある者は些細なことで誰かに蹴落とされ、ある者は容姿だけで上位に登っていく。そんな世界に私たちは身を置いていた。私はそれはこの国、この街では当たり前に起こっていることで、その世界に身をおいて過酷な競争を生き残っていくしかないのだと思っていた。目の前にいる彼女らとは同じシャツを着て共に試合を戦い抜いて引退して、卒業したら離れていくのだと心のどこかで考えていた。後から思えば私たちの世界はとても虚しいものだった。

「そうだ、由香里。同じクラスの倉持咲ってわかる?」
「うん。わかるけど、どうした?」
 ソーダを飲みながら友美が私に尋ねてくる。私はオレンジジュースを口に含みながら話を聞いた。
「いや、あいつ気をつけた方がいいかも……」
「というと」
「彼女、なんていうかよく分からなくない?」
「まあ、そうだけど」

 友美が話している私のクラスメイト、倉持咲は心に無限の闇のような物を抱えていた人だった。普段から髪は乱れていて、おしゃれに気を使っているようには見えず、何を考えているのかが私達には把握できなかった。そんな倉持咲のことを石崎友美は常にどこか警戒しているような素振りをしていた。
「よくわかんないから、関わらない方がいいと思うよ」
「そうかなあ。私はそんなに考えたことないけど」

 正直言って私には、倉持咲のことなどこの時はどうだってよかった。向こうが話しかけてきたらそれは話をするし、話しかけてこなかったらそれから何もしないくらいにはどうだってよかった人だった。だけど、友美の持っている感情は私のとはだいぶ違っていた。まるで、彼女は何かから逃げるように、隠すようにこの話を喋っている。そのことに私は少しの違和感が生じた。

「はっ?」
 私の返事に彼女はただ、そう言った。まるで、自分とは相容れない意見を聞いて激情するドラマの悪役のような口調だった。私は咄嗟にまずいと思った。今、彼女のいうことをただ聞かないと、私はピラミッドから蹴落とされてしまう。そうしたら、彼女らバスケ部の仲間たちとは一緒にいれなくなる。私は慌てて取り繕った。
「ごめん。ごめん。じゃあ、関わらないでおくよ」
「よかった! よろしくね」
 彼女は自分の意見が通ったことで上機嫌になった。グラスに入っていたソーダの残りを一気に飲み干して、すかさずに新しいソーダを注文した。それから私は残ったオレンジジュースをちびちびと飲んで宴が終わるのを待った。

 宴が終わったのは日が暮れて夜になった頃だった。私はファミレスの前で仲間たちと別れて家へと直行する。歩いて帰るにはもう遅い時間だったので、近くにあるバス停でバスを待った。待っている間は暇だったのでスマホを眺めた。ネットを開くと、大好きなアイドルの次のコンサートのこととか、東京にあるおしゃれなスイーツ屋がこの近辺に出店したとかのニュースが流れている。私はそれを意味もなく眺めた。少し待っていたらバスがやって来たので、私は乗車した。バスは街にある小さなビルや商店街が一瞬のうちに通り過ぎてゆく。私たちが暮らしているのは近畿にある小さな街だった。どこにでもある普通の街で、治安はそこそこ、衣食住に不便はしないところだった。私や友美はこの小さな街にある高校の中の大きなヒエラルキーに支配されている。バスの中で改めてそのことを考えると、自分たちの生きる場所はちっぽけなのだなと思った。

 家の最寄りのバス停で私は降りた。家は三分とかからない場所にあったが、辺りが暗かったので少し道に迷った。少し迷ってから家のあるアパートの真下に着いて、郵便受けを見る。家は、建てられてからそこそこの年月が経っていると思われる四階建てのアパートの最上階だった。傾斜のきつい階段を、疲れた体には少し負担になる重さのリュックを背負って、試合終わりの疲れた足で上がりきり、鍵を取り出して扉を開けた。
「ただいま」
「おかえり」
 お母さんがリビングから出迎えてくれた。お母さんの顔を見ると、化粧っけがあった。おそらくさっきまで外に出ていたのだろう。リビングに入ると中を一杯に詰められた買い物袋がテーブルの上に置かれている。
「今、ご飯作るからちょっと待っててね」
 お母さんは忙しなさそうにそう言った。
「わかった」
 私はそう返して、自分の部屋へと入った。部屋に入って家着に着替えを済ませた私はお母さんの手伝いをすることにした。

「お母さん、手伝うよ。何すればいい?」
「ありがとう。じゃあ、お米研いでくれる」
「了解〜」
 お米を研いでいるとお母さんが野菜を切りながら聞いてきた。
「ねえ、今日の試合どうだった?」
「勝ったよ。 私のシュートが決まったからね」
「それはよかった」

 お母さんの野菜を切る音がリズム良く聞こえてくる。私が試合に勝ったと聞いて喜んでいるようだった。それだったら私も嬉しいと思った。私がお米を研ぐ音とお母さんが野菜を切る音が部屋中に響く。その音が私は心地よかった。研ぎ終えたお米を炊飯器に入れて炊き始めた。一方でお母さんも今度は肉を取り出して切り始めた。私はこの日の晩御飯は肉野菜炒めだとわかった。
「お米、炊き始めたよ」
「ありがとう由香里。もういいよ、自分のことでもやっておいて」
「うん」

 私は自室に入った。さっきそのままにした今日の荷物を片付けて、それから通学用のバックから勉強用具を取り出した。文房具とノート、問題集を机に広げる。そういていると、スマホに幾つかの通知が来ていることに気がついた。通知の内容はメッセージアプリのグループチャット、私が所属するバスケ部からの会話だった。
『今日はお疲れ様! また月曜日に!』
 そうメッセージを残していたのは友美だった。それに続いて他のメンバーが返信をする。
『お疲れ! また月曜に!』
『また来週!』
 これは返信しなくてはと思った私は即座にメッセージを打った。
『お疲れ〜 また月曜日に』
 メッセージを送信すると瞬く間に既読がついた。既読数はどんどん一つ、二つと増えてゆく。その様は誰か一人のリーダーに着いて行く群集だった。その群集たちに意思はない。ただ、誰かの言葉に付き従っているだけだ。それが私にとって当たり前のことではある。思うところは、無いと言えば嘘になる。嘘にはなるが、それを心の表に出したら全てを失うような気がしていた。そうだったから、何もできずにいた。

「ご飯だよ!」
 お母さんの声がしたので、私はリビングに戻った。テーブルには肉野菜炒めとご飯と味噌汁が二人分並べられていた。我が家はお父さんとお母さんと私の三人家族だった。この日、お父さんは休日出勤で夜遅くまで帰れないとのことだった。だから先に二人で食べることにした。
「いただきます」
「いただきます」

 お母さんが作る肉野菜炒めは美味しい。その味には昼間にみんなで食べたファミレスの料理たちよりも安心感があった。安心したので、今日あったことを話すことにした。
「今日さ〜」
「うん」
「試合初めて出たけど、勝てたよ。自分で掴んだ勝利だったから嬉しかった」
「それさっきも聞いたよ」
「ごめんごめん……」
 私は微笑んだ。それで、本当に言いたかったことである部活の仲間たちのことで感じる小さな違和感について何も言えずに心の中でつっかえたままになった。お母さんはそのことにに気づいたのか、こんなことを言った。
「まあ、もし部活が嫌になることがあったら、いつでも部活は辞めていいからね」
「う、うん」

 この時、私にはその言葉をすぐに、真っ直ぐに理解できなかった。あの世界だけが自分の全てで、そこから逸れたら何もかもが終わりだと思っていたから。
「ごちそうさま」
 私はご飯を食べ終えて、部屋に戻った。この日は少しだけ心がざわついた一日だった。私は無心になって勉強を始めた。

2

 試合から二日が過ぎて月曜日の朝、うつろな目でベット脇に置いてある置き時計を見ると遅刻ぎりぎりの時間だった。寝ぼけていた私は一瞬で目が覚めた。
「しまった!」
 慌てて必要な物を通学鞄にまとめる。服をパジャマから制服に着替え終えて、リビングに出ると寝巻き姿のお母さんが眠そうに椅子に座ってテレビを眺めていた。見ていたのは朝のニュース番組で、この時報じられていたのは全国で起こっているいじめ問題だった。私にはどうだっていいことだったので、お母さんに挨拶をしてからすぐに出ようと思った。

「おはよう、お母さん! なんで起こしてくれなかったの?」
「ああ、おはよう由香里。いやね、下手に起こしてもどうせ起きないでしょ」
「それは、そうだけど……」
「でしょ。あ、そうだ、あなた学校でいじめられたりしてないよね?」
「そんなこと…… 、ないよ」
「あ、そっ。それならいいけど」
「じゃあ、行ってきます!」
「行ってらっしゃい」

 私は誰かにいじめらているとは思わなかった。靴を履いて、玄関を出てからお母さんが言った言葉がなぜだか心に残った。階段を降りて駐輪場に置いてある自分お自転車に乗って漕ぎ出した。私の通う学校は街の真ん中に近い所にあり、私の家は真ん中から少し外れた場所だったので、少し遠かった。学校へはもう間に合わないことが確実だったのでゆっくりと走った。

 走っている中で自分の心に掛かっている靄の正体について考えた。考えたがまるで答えは出なかった。と言うよりもこの時、私の心の奥底で答えは出ていたが、もう一方の自分が答えを出したくなかったと言った方が正しいのかもしれない。走っていると何台もの車が私の横を通り過ぎてゆく。気づいていた。それは今までのことを通して気づいていた。澄み渡る空の下で私は横を通り過ぎてゆく車たちをただ眺めながら自転車を漕ぐしかできなかった。

 学校の校舎に入った時、すでに授業は始まっている時間だった。広い廊下を歩いていく。私の教室は正門から入って少し奥の方だった。奥の方へと進み終わると教室が見えた。恐る恐る扉を開けて教室へと入っていく。静かに教室へ入って自分の席に座ろうとすると、先生がそれに気づいた様子で私に向かって尋ねた。
「おい、佐野。なんで遅刻した?」
 私は一瞬答えに困ったがすぐに正直な理由を言うことにした。だが、恥ずかしくて上手く言えなかった。
「ね、寝坊、しました!」

 するとすぐに教室中で笑いが起こった。みんな大笑いしていて、中には椅子から転げ落ちている者もいた。それからなぜか先生まで腹を抱えて笑っていた。その様子を見て私まで笑えてきた。教室中が笑いに包まれていた。落ち着いたところで先生は、
「まあ、それなら仕方ない。今後は気をつけろよ」
 と言ってくれたので私は遠慮なく自分の机に座って文房具を広げた。それからの授業は真面目に受けた。真面目に受けないとこの先進学できないからだ。私の学校は特に理由がなければ大学に進学するような所だった。みんな進学するものだから、みんなの中には競争意識があるのだと先生や大人は言うが、私はそうは思えなかった。みんながみんなにこうであれと見えない圧力をかけていた。私たちには見えないしがらみが多い。だからこそ、私たちは自由でないのだ。大人たちは私たちのことを自由だとも言うが、そもそも、私たちに自由なんてあるのだろうか。

 私たち高校生が持てる自由ってなんだ。私たちは大人たちから与えられた三年間の時間と自由をもて余して、誰かを蹴落とし合っている。その果てに何があるんだ。私は心の奥底ではこう思っていた。でも、それを表に出して戦える程の力も勇気も持ち合わせていなかった。休み時間、そんなことを考え込んでいるとクラスメイトの一人、真由美ちゃんが私の席の前に立っていた。彼女は申し訳なさそうに、でもどこか見くびった感じでこう言った。
「由香里、ペン貸して〜」
 彼女は私にペンを貸してくれとねだった。私にはそれを断れるほどの勇気もないので、ためらいながらも筆入れから使わないペンを取り出した。ペンが使えるか確認してから私は彼女にペンを差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう〜」
 彼女はペンを受け取った。それからすぐに私の机から離れていった。ちなみにペンはその授業が終わった後で彼女が返してくれた。

 昼休みになって、昼食のための弁当を持ってこなかったことに気づいた。私は昼食を購買で買うことにした。教室から購買までは少し距離があって、時間が少しかかる。歩いていると大勢の同学年や先輩とすれ違う。そうすると、通りかかった同級生の一人、苑子ちゃんが声をかけてきた。
「お、由香里おはよう!」
「おはよう。てかもう、こんにちはの時間だよ」
「そうか、ごめんごめん」
「いいよ。気にしないで」
「わかった。そういえばさ、今度友美ちゃんの家に呼ばれたのよね。私初めて行くから、どうしたらいいかな?」
「うーんとね、マカロンとか持っていけばいいと思うよ。彼女、マカロンが大好きだから」
「オッケー。ありがとう!」
「うん。それじゃあ私、ご飯買いに行かなきゃだから、じゃあね」
「じゃあね!」

 彼女を含めて同級生のみんなは私を見て、声をかけてくることが多かった。私は彼らへの違和感はあったが、人当たりを良くしようと頑張っていたり、バスケ部のリーダー的存在である友美に気に入られていたので、同級生たちは私には友好的に接してくれていた。大まかな理由はその二つであったが、そうしてくれたもう一つの訳があった。私と仲良くしておけば友美の機嫌を損ねないことに繋がるからだ。友美はバスケ部のリーダー的存在だった。それに加えて学年のネットワークをも取り仕切ろうとしていたので、彼女はバスケ部以外の多くの同級生たちとも繋がりを持っていた。同級生たちはそんな彼女の小さな欲望を恐れた。だからこそ、友美自身や私にいい顔をしようとしていたのだと思う。

 彼女らとの挨拶が終わったので、私は購買に急いだ。好きな親子丼が毎日すぐになくなってしまうからだ。購買にたどり着いた時、親子丼はまだ売っていた。購買には名物のおばさんがいた。私が見るに良い年齢の重ね方をしていた彼女はどうやら何十年も前からここで働いているそうだ。私は彼女を一目見てからこう言った。
「すみません、親子丼ください!」
「はい、五百円ね〜」
「ありがとうございます!」
「あなたさ、来るときはいつも親子丼頼むよね。好きなのかい?」
「ええ、そうですね」
「それは、嬉しいね。いつもありがとう」
「どういたしまして」

 私は見事に親子丼を手にした。私は急いで、教室へと戻って親子丼の容器の蓋を開けた。親子丼の匂いが鼻元にきた。鶏肉と卵を口に運ぶ。この学校の購買が売っている親子丼は美味しかった。なんの変哲も無い親子丼ではある。でも、五百円の価値はあると思えた。普段、同級生たちとの関わりに違和感を抱いていた私にとっては、昼ごはんを食べるときは無心でいられる時間だった。言い換えれば、それくらいしか、私には心が休まる時間が無かった。私が親子丼を食べている時、クラスのみんなはなぜか私に構わず他のことをしていた。やはり彼女らも本当のところは見えないヒエラルキーのために友達を持つことへの疲れを感じていたのかもしれない。後になってそう思う。

 親子丼を食べ終えて午後の授業を受ける。この日の五時限目は日本史だった。
「ええと、今日は鎌倉時代のことを話すね〜」
 日本史の先生は授業をこう始めた。今日は十世紀も前の話だった。先生は続ける。
「承久の乱の後に、鎌倉幕府は朝廷を監視するために六波羅探題を置いたのです」

 私には遠い遠い過去の事にしか思えず、ただ空虚な天井を眺めていた。遠い過去で何があったのかなんて私には興味は無い。ただ、今をやり過ごすことで精一杯だった。私がこれからする選択は未来に何を残すのだろうか。授業中、先生の話す事を聞いて、板書をノートにまとめながらいろんな考えが頭の中を駆け巡っていた。一方で他のクラスメイトたちは真面目に受けている者もいれば、隠れてスマホを眺めている者もいる。

 所詮世界はそんな物なのかもしれない。私にはこの先への希望がなかった。目線を変えて、窓の外を眺める。空は晴れている。私の気持ちなんて無視して。そうこうしているうちに授業が終わった。
「今日はここまで。この続きはまた次回」
「起立」
 日直の声に従って私たちは立ち上がる。
「礼。ありがとうございました」
「ありがとございました」

 授業が終わって休み時間、教室が瞬く間に騒がしくなった。今日の授業のノートを一通りまとめ終えてページを畳む。騒がしい教室に向かって少しだけため息を吐いた。すると、クラスメイトの一人である美里ちゃんが目の前にやってきた。
「ノート見せてもらえる?」
「いいけど」
「ありがとう!」
 私はさっきまとめ終えたノートを開いて美里ちゃんに見せた。彼女はすかさずにスマホをポケットから取り出して、私のノートの写真を撮った。
「じゃあ、見させてもらうね」
「うん」
 すぐに彼女は去っていった。

 私は毎日、いろんな人からペンを貸して欲しい、ノート見せて欲しいなどのいろんな事が求められていた。それは一見するととても喜ばしいことではあるのだが、同時に疲れることでもあった。私は彼女らからいいように利用されているのではないか。逆にいえば私も彼女らをいいように利用しようとしているのではないか。そんな考えすら浮かんでしまうほどに私の心は貧しい。私の心の貧しさは、誰が引き起こしたのだろうか。それを誰かに問い詰めたくなるのだが、誰もそれに答えられる者など私の周りにはいなかった。みんな、心が貧しいのだ。この時代を生きる十代の我々はみんな、寂しいのだ。虚しいのだ。なぜそうなったかは誰のせいでもない。けど、私は私たちが寂しすぎる世代だということを頭の片隅で感じていた。閉塞感と絶望感がそこには存在していた。

3

 この日の全ての授業が終わった。私は荷物をまとめてから、更衣室へと急ぐ。息を切らして部屋の中へと入りジャージへと着替えて、また外に出た。体育館へと向かう。体育館にたどり着くまで時間はかかったが到着すると、そこに部員は真希ちゃん一人しかいなかった。
「真希ちゃん、今日の練習は?」
「あ、今日は先生が体調悪くてお休みみたいだよ。他に見てくれる先生が誰もいなかったらしいね」
「わかった。ありがとう」
「いえいえ」
「ところで、真希ちゃんはどうしてここにいるの?」
「それは、みんな休みだって知らないだろうからここに来たみんなに休みだって伝えるためだよ」
「ありがとう! とても助かる」
「どうってことないよ。ただ、ここに居たいだけってのもあるし」

 それから少しの間、真希ちゃんと他愛もないやりとりをする。私と真希ちゃんが揃って好きな流行りのアイドルや役者のこと、私が遅刻をした今日の出来事、彼女が次の土曜に少し遠くのテーマパークに出かけるということ。相槌を打ったり、打たれたり。一通り話したところで私はその場を離れることにした。
「じゃあ、今日は家に帰るね」
「わかった。気をつけてね」
「うん。じゃあね!」
「また明日」
 私は彼女と別れて、体育館の全体を一瞥した。周りには私たち以外の部活が活動をしている。シュートの練習をする男子バスケ部の部員たち、掛け声を出しながらトスの練習をするバレー部、窓の外からはグラウンドでサッカー部や野球部が頑張っている。ここの体育館は広いはずなのだが、部活動のために多くの人や物が密集しているせいで、この時は狭く感じた。
「広いはずなのにな」
 呟いて、私は体育館の外に出た。しばらく廊下を歩いていると、校内のいろいろな物が目についた。廊下の壁に貼られた何かの啓発ポスター。教室前の壁にあるいろいろな大学の偏差値表。教室の立て札。広場に置かれている少し大きいクリスマスツリー。
 
 私はふと呟いてみる。
「もうすぐ、クリスマスか」
 そのクリスマスツリーは頂点に大きな星飾り、全体に巻き付けられた電飾、メタリックカラーのボール、ツリーのサイズに対して少し大きいベルが取り付けられている。私はなんとなくツリーを眺めて、もうすぐ、冬休みに入って高校一年のこの年が終わるのだということを実感する。それが過ぎれば次の年が始まり、休みが明け、三年生たちはいよいよ受験本番で、二年生はいよいよ受験の準備を始める。来年、二年生になった私たちはみんな揃って修学旅行へと出かけて思い出を作り、受験に向けて動き始める。再来年、三年生になった私たちはそれぞれの進路に向けて受験をする。
 それが私のこれからであり、みんなの当たり前だと思っていた。それが、私たちが手にしている唯一の未来であり、価値観でもあった。この未来であり、価値観は決して崩れることのない絶対的な物だと考えていたし、ましてや、それを覆すことは誰にもできないのだと思っていた。だが、私が抱いていたその考えはこの日、この時間、この場所から次第に崩れて行くことになる。

 掲示物を眺めて歩いていると、私の正面に一人の女子が立っていることに気がついた。制服をきっちりと着ていて、スカートの丈はは膝下まである。髪はボサッとしていたが、なかなかに華奢で整った体型だったので思わず目を向けた。靴を見ると、私たちの学年が履く靴だったので、同級生だということを理解した。彼女はどこか不思議な雰囲気を全身に纏っていた。それで、私は彼女がクラスメイトの倉持咲であることに気がついた。彼女の雰囲気を感じて私は一瞬、どうして良いかがわからなくなった。動きを止める。すると、彼女の方から私に近づいてきた。顔をまじまじと見つめると化粧っ気は無かったが顔もなかなかに良かった。おそらく、身嗜みを整えれば、モデルの様な美しい人なのだろうとこの時の私は思った。空な目と私の目が合う。彼女は私の顔をじっくりと見つめてから何かに怯えるように、私の何かを見抜いたかのように小さく言葉を放った。
「……友達になってくれる?」

 私はこの言葉を聞いて、どういうことか、頭の中にある言葉たちが一斉に消え去った。私はその一言がすぐには受け止められず、どう返したら良いのか分からなかった。廊下を歩いている途中で見えた時計が示していた時刻は午後の四時半。冬の夕暮れが私たちの顔に差し込む。まるで、何か見てはいけないものを見てしまったかのような気持ちになった。しばらく答えらずにいると彼女はまた小さな声で、
「どうしたの? 聞こえなかった?」
 と言った。私はやっとのことで、頭の中で消え去った言葉たちを見つけ出す。
「い、いや、そんなことない、けど……」
 私は自分で何を言っているのかがうまく掴めなかった。彼女は空な目で今度は私の全身を見つめた。

「あなた、バスケ部?」
「そう、だけど」
「バスケ部に石崎友美っているでしょ。私、彼女と昔からの付き合いなんだ」
「へえ…… 、そうなんだ」
 彼女がなぜ、友美の名前を出したのかがこの時の私にはわからなかった。この時の私はとても混乱していた。それは、もしかすると直感的に彼女の身に何かがあることに気づいたけらなのかもしれない。それは、今となっては確かめようもないのだが。

 彼女は、小さな声で話を続けた。
「ねえ、ところであなたの名前は?」
「え、ええと、佐野由香里」
「そう。私は倉持咲。よろしく」
「よろしくって、言われても、私、あなたと同じクラスのはずだけど」
「あ、そっか。同じクラスの佐野さんだとは気づかなったよ。ごめんごめん」
 私は咄嗟に友美が言っていた、倉持咲には気をつけた方がいいという言葉を思い出した。でも、なぜ友美はそう言ったのかの理由はわからなかったが、私の心に警戒の念が生まれた。だが、彼女はそれを見破るかのように口を開いた。
「ねえ、あなた今、私のことを警戒しているでしょ」
「そんなことないよ……」
「嘘。顔にもろその表情が出ている」
 私の頭の中はどんどんぐちゃぐちゃになってきた。ぐちゃとして、一体何のためにこんな会話をしているのだろうかと思えてきた。彼女はそんな私の事などお構いなしに言葉を続ける。
「どうせ、友美に私のことは気をつけた方がいいとでも言われたのでしょ。わかるよ。そんなことくらい」
「どうして、そんなこと言うの?」
「だって、彼女は私を妬んでいるから」
 私はそれを平然と言いのけた彼女が恐ろしいと思った。

「なんか、私のことが理解できない見たいね」
 彼女のこの言葉を聞いて、私は思わず、
「ええ、怖いよ。あなたの考えていることが」
 と返した。これは紛れもなく本音だった。
「そう。分かった。それならば、ごめんね」
 彼女はあっさりと謝った。私はますます気持ちが混乱した。
「あのさ、友達になってくれるってどういうこと?」
 彼女は少しだけ考えるような仕草をしてからこう答えた。
「私には友達がいない。だから友達が欲しくなったの。それだけ」
「それだけって……」
「そういえば、友美が毎年クリスマスにパーティーをしているのだけど、今年はあなたも来る?」
 友美がクリスマスパーティーを毎年開いていたというのは初めて聞いた。なぜ、彼女がパーティーを知っていたのかは、‘昔からの付き合い‘だからなのだろうか。私はまたしても何も言い切れなくなってしまう。
「行くって言っても、まだ誘われていないから何とも言えないよ」
「そうなのね」

 この時、彼女が私の言葉を聞いてさらに弱々しい声になったような気がした。どうしてそうなったのか、私はこの時、計りかねたのだけど、後になって思えば、これは彼女なりの救難信号だったのかもしれない。

 少しの間、私たちに静寂が訪れた。お互いにどうすることもできずにただ、時計の針だけが進んでいく。次第に彼女が近くの壁に掛けられている時計に目を向けた。それにつられて私も時計の方を見た。時刻は出会してからおおよそ十五分以上が過ぎていることを示していた。もうすぐで夕方の五時となる。
「じゃあ、今日は帰るね。私の友達になって欲しいこと、忘れないでね」
「う、うん」
「じゃあね」
 彼女は踵を返して、歩いて行った。私は彼女の「じゃあね」の言葉に返事をすることができなかった。突然訪れた嵐は突然に、静かに去っていった。私はしばらくそこで一人立ち尽くした。この嵐が去った時、私にはそうすることしかできなかった。この瞬間から心の中の何かが崩れ始める音が少しずつ、少しずつ響き始めた。ようやく動けるようになった頃にはもう日が暮れて、窓の外から見える街灯の光が道を照らし始めていた。私は家に帰らなくてはいけないことをこのタイミングで思い出す。駐輪場に向かって歩き始める。
 暗い暗い廊下を進むと、再び広場に出た。そこには電飾が綺麗に点灯したクリスマスツリーがあった。この時の私にはなんて場違いな物なのだろうかと思えた。そう思えたが、綺麗に光っているものだから、心が少しだけ元気になれた気がした。駐輪場に出た私は自転車に乗った。

 街灯に照らされた薄暗い道を一人で進んでいく。他のみんなはまだ部活を続けている。一人の帰り道で考えた。倉持咲は何をしたいのだろうか? どうして、友美は彼女を遠ざけているのか? 考えてはみようと思ったが、この日はどうしても結論は出そうになかった。途中で考えるのを止めて無心になって家路を走った。普段見る景色が暗く澱んで見えたような気がした。

 自転車を止めて、鍵をかける。階段を上がって家の玄関に着くと丁度お母さんも階段を上がってきた。
「あら、おかえり。早かったね」
「ただいま。今日は部活が無かったから」
「あらそう。じゃあ、さっきお菓子を買ってきたから食べない?」
「食べる、食べる」

 私は玄関の鍵を開けた。お母さんを先に通してから中に入った。家の中はとても暗かった。お母さんがすぐに明かりをつけたから、一瞬で暗闇は消えたが、この日の私にはどうしても、印象に残った。それから、私はこの日々に少しだけ亀裂が走ったことに気がついた。この亀裂は塞げるのだろうかと考えていると、母は私の中の少しの亀裂に気づいていたのか、わからないが、こう言った。
「何かあったでしょ?」
「え?」
「何かあったんでしょ? 学校で」

4

 私はどう答えたらいいのかわからず、言葉が詰まった。別に自分の身に何かがあったわけではないのに。それなのに、夕方の倉持咲とのことが気にかかっていた。リビングの中に静寂が訪れ、お母さんは何食わぬ顔で私のことを見つめる。自分の子供が何かに悩んだりしている時。その親というのはやはり、子供の異変に気づいているものなのだろうか。そんなことは私にはわからないが、私のお母さんはどうやら気づいたようだった。
「やっぱり、何かあったね」
「そんなこと、ないよ!」
 咄嗟に声を張り上げた。認めたくない。倉持咲が放つ異質な何かに心が揺れていることなど、この時の私は認めたくは、なかった。
「そんなこと、ないからさ…… 。ほら、お菓子食べようよ」
 お母さんは、私の顔を一瞬だけじろっと見た。

「まあ、何も言いたくないなら、言いたくなったら、その時は言ってよね。約束だよ」
「う、うん」
「それじゃあ、お菓子を食べよう」
 それから、お母さんはすぐに表情を明るくして、お菓子を袋から取り出した。私は少しだけお母さんの言葉に安心感を覚えた。後になって、お母さんは「あの時は何も言っても由香里の心がぐちゃぐちゃになるだけになるだろうから、あれ以上は言わないようにしたの」と話してくれた。私のお母さんには、とても大きな愛があったのだとつくづく思う。

「じゃあ、食べようか」
「うん」
 お母さんが買ってきたお菓子はパウンドケーキだった。二つの皿にそれぞれ一個ずつパウンドケーキが置かれている。
「いただきます」
 私はケーキを食べた。この日のケーキはとても美味しかった。続いてお母さんもケーキを口に運んだ。
「美味しいわね」
「美味しい」
「買ってきてよかったわ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 私は自然と笑っていた。お母さんも嬉しそうな顔をしていた。ある程度食べると、お母さんはこんなことを言った。
「お母さんはね。世の中に対してもう少し、悩んだり、傷ついたりすることがあったら、悩みが吹き飛んだり傷を乗り越えられたりするまで、思い切り休んでも良いんじゃないかなと思っているの」
 突然の言葉に私は話に追いつけなかった。
「急にどうしてそんなこと言うの?」
「いやね。あなたが少しばかり苦しそうだから」
「え、全然そんなことないよ」
「まあ、あなたがそう思うなら、それでいいけど」

 この会話はそこで途切れた。私はパウンドケーキを載せた皿をキッチンに移して、自分の部屋へと入った。すると、自分の荷物をリビングに置いてきてしまったことと、夕方から服を着替えてなかったことに気がついた。すぐにリビングに戻って荷物をとってから、部屋に戻って家着に着替えた。すると、お母さんに呼ばれて、いつも通り夕食作りの手伝いを頼まれた。お米を炊飯器に入れて、野菜をいくらか切って鍋に入れ込む。手伝いが終わって、部屋に戻った時、そういえば今日のご飯はなんだろうと思ったが、それ以上は深く考えずに、勉強用具を机の上に広げた。

 勉強をしていると、スマホにメッセージアプリからの通知が届いた。メッセージの送り主は友美。グループチャットにそのメッセージは届いていた。
『再来週のクリスマス。午後から私の家でパーティーをしない?』
 私は目を疑った。まさか、友美が倉持咲の言っていた通りにパーティーを開こうとしているとは。思わず、ごくりと唾を呑む。それから、立て続けにメンバーからの返事が届いた。
『オッケー、行く行く!』
『わかった〜』
『その日は北海道に旅行行くから無理〜 ごめんね』
『行けます!』
『行けそうにないよ。すまん!』

 流れるように、素早くチャットが進んでいく。その中で私は何もメッセージを送れずにいる。すると、友美がチャットに戻ってきたようで、メンバーの一人一人に返事と相槌のメッセージを送り始めた。
『真希ちゃん、了解! 待ってるね』
『加奈〜 首を長ーくして待っているよ』
『きらりちゃん! それは残念…。帰ってきたらお土産ばなし聞かせてね』
『くるみー! 良かった! 嬉しい!』
『まどかちゃん、また今度おいでね!』
 彼女の一人一人への返信が流れてゆく。画面を見つめる。私の勉強の手は完全に止まってしまった。どうしようと思っていた。理由はないが、ただなんとなく行くことが億劫だった。それと、倉持咲のことがどうしても引っ掛かっていた。悩む。悩んでいると、グループチャットに友美から私宛のメッセージが届いた。
『由香里はどうする? 来るんでしょ?』

 私は慌てて、返事のメッセージを打ち込もうとした。だが、すぐに言葉が出てこなかった。いつもなら深く考えずに行くと言えていた。言えていたのに、この時ばかりは言えなかった。私の心の奥の奥には、本当はイエスもノーもなかったはずなのに、できればノーを突きつけてやりたい気分になっていた。そうしている間に、他のメンバーからも同じことを聞かれ始めた。
『由香里ちゃんもおいで! 楽しそうだよ』
『そうそう、来なよ〜』
『あれ、由香里ちゃん今、メッセージ見てないかな?』
『どうだろう? わかんない』
『とにかく、楽しそうね』
『そうだね。だから、由香里もおいでね!』
 私は、本当は、この誘いを断ろうと、心のどこかで考えていた。だけど、だけど、私は、気づけば、脊髄反射で了承のメッセージを打ち込んで、送っていた。
『わかった。私も行くね!』
 ああ、何を言っているのだろうか。考え直してメッセージの送信を取り消そうと思ったが、もう遅かった。
『良かった! 楽しみにしててね』
 友美からだった。続いて、他のメンバーも了承の返事を送ってきた。

『おお、由香里も来てくれるようで良かった!』
『由香里も来るのね! 了解!』
『由香里、オッケー』
 こうして、仲間たちから喜ばれることは嬉しい。だけど、彼女たちから送られてくるメッセージに私は少し、疲れてしまっていたのかもしれない。思わず、ため息が出た。

 ご飯が出来上がったので、お母さんと一緒に食べる。今日の献立はシチューだった。無言で食べているとお母さんが何か気になるとでも言いたげな顔をしていた。
「どうしたの?」
「いや、また重たい顔をしてるなーと思って」
「大丈夫だよ」
 気にせずにシチューを口に運ぶ。お母さんはスプーンを皿の上に置いた。
「いや、大丈夫じゃない顔をしている」
「大丈夫だって」
「そうには、見えないんだけどな」

 部屋の中が無言になる。重たい空気が流れた。シチューを運ぶ手は完全に止まった。
「由香里は、心の奥の自分を封じ込めている。だから、とても心配なのだけど」
 全くもってその通りだった。私は自分の気持ちを封じ込めている。図星だったので何も言えずに表情だけが崩れたような感覚だった。
「だからさ、もう少し心の声に従って生きてみたら、どうなの?」
 お母さんの言葉は私の心の門に深く刺さった。だからこそもうこの場にいたくなくて、私は立ち上がった。シチューは半分くらい残っている。
「ごめん、今は、できない」
 逃げるように自分の部屋へと歩き出す。
「由香里、ちょっと……」
 お母さんのどこか引き止めたいようなそんな声が聞こえた。聞こえていたが、聞こえていないふりをして、部屋に戻り扉を閉じた。

 私は部屋に入るなりベットの上に突っ込んだ。「心を閉ざしている」そんなことを言われて反発しない人間などこの世には居ないのではないか。私は急に泣きたいと思って、目を潤ませようとするが、なかなか目から涙は流れなかった。
「ううう……」
 泣きたい気分なのに、泣けない。ベットの上に寝転がってそんなことを思った。
 私はどうしても心を開けない。どうしてそうなったのかにテレビでよく聞くような壮絶なものは無い。代わりに、長年の小さくて些細なことたちが徐々に私の心をそうさせたのだと思う。こんなことを考えている私は疲れているのだろう。そう思ったので、一通り勉強を済ませると、私は早々にお風呂に入った。気持ちは沈んでいる。体も徐々に沈ませていく。口を水中に入れたせいで、ぶくぶくと泡が立つ。

 お風呂を出て、髪を乾かす。歯を磨きながらテレビを眺める。偶然流れていたニュースは学校内で起こったいじめが原因の事件だった。私はただただ、その話題を話す、キャスターやコメンテータのことを見つめていた。彼らは「いじめをなくすには心のケアを……」とか、「学校がこうだからいじめは繰り返される」とか色々言っている。彼らは本当に私たちが置かれている状況をわかっているのだろうか。私たちですら、よく解っていないことなのに。
「なんだかなぁ」
 ベットの上で私はそう呟いた。この日、私の違和感は大きく膨らんだ。なぜかと言われると、それは、倉持咲のせいなのだろうか。

 私はまとまらない感情たちを押し込めて、毛布を被った。最初は眠れなかったが、十分以上すると眠りに落ちていた。

 この時の私の気持ちはとても、とても、ぐちゃぐちゃだった。


次回、幕間1


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