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イギリスに行く~フィドルに出会うまでの道のり

 私は2002年にイギリスでフィドルに出会いました。もし、イギリスに行かなかったら、今もフィドルのことを知らずにいたかもしれません。そのように振り返ればなにやら感慨深いですが、実は、いろいろと危うい中たどり着いたというお話をします。


イギリスの生活は入国拒否から始まった!?

 「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の女王陛下の名の下において、お前たちの入国を認めるわけにはいかない!ただちに帰国を命ずる!」

 イギリスに到着して、ヒースロー空港の入国審査官がいかめしい顔で私たちに向ってそう宣言しました。ターバンで頭をぐるぐる巻きにしたシーク教徒のイギリス人です。同じ飛行機から一緒に降り立った人たちはみんなもういなくなって、がらんとしたロビーに彼のがなり声が響き渡りました。イギリスで最初に出会った人からかけられる言葉として、これほど思いやりに欠けたものはなかったでしょう。

 私は一瞬間のうちにここに来るまでの道のりを思い出していました。赤ちゃんを抱えての13時間の機上では一睡もしておらず、出発する前の日は荷造りで徹夜しました。その前の3日間もずっと荷物の仕分け作業をしていてほとんど寝ていません。その前は・・・なのに今すぐに帰れとはどういう意味だろう。私はぼうっとする頭で、私たちに今すぐに帰れと命ずるイギリスの女王陛下はどんなお顔だったか一生懸命思い出していました。


結局観光ビザで入国することに

 そのときの私の恰好といえば、まだ歩かない11か月の赤ちゃんをだっこして、マザーズバッグを肩にかけ、空いた片方の手にヴァイオリンを抱えていて、小学1年生の子は3歳の子の手を引き、その子もまた1/16のヴァイオリンを背負っており、審査官の目には、何やら怪しい旅回り音楽一座のように見えたかもしれません。

 日本のCAさんが心配してたくさん集まってくれ、審査官にとりなしてくれましたが、彼は首を振り続けています。結局、空港に迎えに来ていた夫と審査官が電話で話をして、当初の予定である留学生の家族という滞在ビザでなく、観光ビザで入国することになりました。3か月間しか有効でないそのビザのために、2年半の在英中、家族で出入国を繰り返すことになり、結果的にアイルランドを含むヨーロッパにたくさん旅行ができました。

 書類はすべてそろっていたのに、入国拒否された問題はどこにあったのかというと、夫がたんねんに冊子に作りあげた自身のパスポートのコピー(必要書類)を審査官がお粗末な偽造パスポートだと早とちりしたことによるものでした。つまり、審査官のミスなのですが、偽造と間違われたパスポートのコピーというのがなんともお騒がせで、あとあとまで家族の笑いの種になりました。

 そのとき私は、イギリス生活のしょっぱながこれでは幸先が案じらるような気がしたのですが、実際、外国の生活につきものの何事もすんなりと運ばないその後の不便さは、この空港の出来事と似たり寄ったりなのでした。


そもそも私たち家族もイギリスに行けるかどうか危うかった

 イギリスに出発する1か月半ぐらい前に時間を戻してお話しますと、船便と航空便も出し準備を進めている頃、急に子供の具合が悪くなりました。2週間入院し、私は泊まり込みで病院に付き添いました。その間に夫はイギリスに先に出発し、他の2人の子供を夫の実家に預かってもらうことにしました。

 退院した時点で出発の3週間前でした。お医者さんとよく相談して、2週間後に診察を受けて良好であれば家族もイギリスに付いて行く、ということにしました。結果が悪ければイギリスには行かない、そう決めていました。


最後にヴァイオリンをどうするかが問題になった

 幸い診察の結果は良好でお医者さんから渡航GOのサインが出ました。さあ、引っ越しです。病み上がりの子供が私からくっついて離れなれず、だっこやおんぶをしながらの一人での荷造りは難儀しました。最後は懐かしい昔の友達が手伝いにきてくれて、二人で家の明け渡しの日まで頑張りました。彼女が来てくれなかったら、私一人で身動きが取れずどうなっていたかわかりません。

 いよいよ東京から引っ越しの日、私は赤ちゃんがいるので手がふさがって、どうしてもヴァイオリンケースを持つことができませんでした。それで引っ越しのお兄さんにヴァイオリンを託しました。お兄さんは親切に請け負ってそれを運転席の横に載せてくれましたが、大阪で受け取ってみると中のヴァイオリンが緑色のカビでおおわれていました。港で1泊したせいで湿気にあたったのでしょう。お兄さんは丁寧に扱ってくれたはずですが、楽器は肌身離さずがやはり基本です。

 ヴァイオリンを家に置いて行ってもらっても保管に困る、と両親に言われて、今はもう弾いていないヴァイオリンを持っていくことになりました。ヴァイオリンを自分の子に教える以外、特に何のアイディアもなく、イギリスに行ったらお菓子作りを習うか、テキスタイル(布地のデザイン)を学びたいなと漠然と考えていました。

 そういった訳で、私はほうほうのていでイギリスに到着したのでした。人生は自らの手で切り開いていくものとよく言われますが、確固たる意志とは関係なくイギリスに導かれるように行ったのでした。

 それから続くお話は、『もうひとつのバイオリン、フィドルとの出会い』を読んでください。


転載禁止 ©2020 Tamiko
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トップ画像:イギリスに入国して数日の写真。ロンドン自然史博物館にて。入国管理官を怒らせて判断を狂わせた、怪しい子連れ姿の著者。


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モンクスドライブ通り3番の家

 イギリスで住んだ三階建てのお家です。歴史景観保護区域のチューダー調(黒い木の梁と白い漆喰が特徴的なハーフティンバー様式)の古いセミデタッチ(隣と片側の壁を共有している一戸建て)の家です。左に映っているのは季節になると大きなピンク色の花を咲かせるバラの木です。裏庭にもミニバラの垣根があり、秋にはたわわに実のなるりんごの木も植わっています。オックスフォードサーカスなどのロンドン中心街へチューブで20分ほどで行ける距離にありながら、近所の家々の庭には色とりどりの花が咲き乱れる緑豊かな住宅街で、毎朝、まるでおとぎの国の森の中にいるかのようにクックロビンやブラックバードなどの野鳥のさえずりで目が覚めたものです。(ロンドンがどこもこのようにイギリスらしい美しい街とは限りません。地域によって街の雰囲気や治安は大きく異なります。)


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