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文筆家、人の話を鵜呑みにする

批評が出来る人間は格好が良い。

長い射程で世の中を見つめながら、ジャンクな言葉の海に捨てられた真理を掬い上げる。はじめて東浩紀や鷲田清一の文章を読んだ時に、心が解きほぐされれる感触があったが、この10分の1でも自分に知性があればいい。その知性を元手に、お金が複利で増えていくみたいに賢くなれるといいなと思っている。

 とりあえず自分の眼で世界を見て、色々な人の言葉を吸収して、そのためにニュースサイトも読んで……というこまごました地道な努力をしている内に、気づくことがあった。

 誰かと話していても、ネットの議論をどれだけ読んでも、「はい」「確かにそうかも」「そうとも言えるね」としか思えない

 つまり、大抵のことは僕は鵜呑みにしてしまう。議論になれば5秒で論破される。「地球は平面である」みたいな話でも、発言者の世界観に興味を持ってしまうのが先で、特に反論が思い浮かばない。「彼にとって地球が平面なら、そう思わせるだけの何かがこの世にあるんだろうな」と思う。そういう世界観の人であることじたいに批判や批評を加えても仕方ない、と思う。

 これは相手をバカにしているとかいうことではなくて(むしろアホは僕のほうなのだ)、ただ丸ごと話を呑みこんで、相手と歩調を合わせながら、お互いの視線が前に来るのを待っている、ということだと思う。大抵の人は日常では、お互いを詰めるような激しいディベートはしない。それと多分同じことだ。

 知人にケイさん(仮名です)というライターの方がいるのだが、この方も割と話を鵜呑みにする傾向の強い人だった。あっちに暮らしに困っている人がいれば同情し、こっちに怒っている人がいれば、どこかで紛争を妥結できないものかと自分が困っていた。

 僕と彼が違ったところは、政治的発言を進んでするか否かだった。僕はあまりしてないと思うけれど、ケイさんは舌鋒鋭い批評家でもあった。聞いていて耳が痛いことも多く、言葉の切れ味を自覚したほうがいいんじゃないかと思うところもある。でも、ケイさんの意見は妥当である。一本筋が通っていて、その筋の内ではどこまでも鋭利になれる。多様な人に感情移入できる、優しい人である。だから僕が反論するとしたら、「ケイさんの話すことはごもっともだけど、僕は(あるいは世の中の一定数の人は)その倫理を守れる立派な人間ではない」くらいだろうか。そう考えるととても悲しい。諫めることを試みるとしても「価値相対主義」や「DD論者」的なものになりそうで、それはそれで違う気がする。いつの間にかケイさんとは疎遠になった。

 思想の違いによって家族や友人、これから仲良くなれる人との関係が引き裂かれる。そんなのはあまりにも悲しく、馬鹿げたことだ。もしも今僕がケイさんと再会したら、もう一度彼の言葉を鵜呑みにできるだろうかと、自問自答している。「お互いにすれ違ってしまったけど、あなたの言っていることはなんとなくわかる」という風に。

 そう考えてみると、「鵜呑み」というものにも深さと浅さがあるのではないか。お互いがより深い「鵜呑み」ができる場を整備することが、批評になりうるのではないか。そういう気もする。

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