なんの専門分野も持たない、子供が主人公の小説は「軽い」のか?
読み始めた小説が、例えばいきなり食事中の雑談から始まると
「これって、エンタメとしては禁じ手なんじゃ……」と思ってしまう。
光景として凡庸すぎるということだ。午後7時くらいに食卓を家族で囲む。お爺ちゃんが魚の煮つけの感想を言う。
「このエラの下のビロビロは食べれないんだよ」とか蘊蓄も言う。
母や姉が、「お前この時間までゲームしてたけど、もう宿題やったのか?」とか子供に聞きもする。
昭和の家族ドラマのような湿っぽい出だしだが、僕は「これから掴みがでてくるのかな……」と少し不安に思う。
子供は拗ねて口を利かない。子供が主人公なのだ。以降は子供の自意識の問題だとか、学校で悪い友達に絡まれてるとか、夕方になると小動物を追いかけまわしていじめているとかいう記述が続く。子供の日常がそれらしく綴られていく。
もしかして、専門知識がなくても書けるんじゃないか?ゼロベースで内容を考えて、子供がどう動くかだけに注意を向けて書く小説も可能なのではないか?
ワガママを言うと、冒頭にはインパクトが欲しい。掴みがあって、「何の話なのか」が鮮烈に理解される。そして中盤にかけて見たことのない世界が広がっていって転調を迎える。読者の一人としては、どうしても、新しく読む小説にはストレンジなものを求めてしまう。ページに向けている眼を釘付けにさせる「これはなんだろう?」というものが冒頭にないといけない、と僕は考えてきた。
そして、そんな小説を書くには膨大な知識や取材が必要だと思っている。見たことのない世界というのは、例えば縁もゆかりもない特殊な職業とか地域についての話である。専門分野の知識をしっかり応用した話のほうが、小説全体が立体的に映えてくるのではないか。
正直に白状すると、先に書いたような日常ベースで書かれた小説をどこか軽く見ている自分がいた。ましてや子供が主人公となると、誰しも最初は子供だったのだから、特に専門知識もなく書けるんじゃないかと不遜にも思っていた。最低限の設定と、繊細な描写があれば良い。少なくとも大がかりな小説ではないと思っていた。
それは浅はかな間違いだった、という懺悔の記事です。
サリンジャーの「ライ麦畑」も、道尾秀介の「月と蟹」も、カーヴァーの「サマースティールヘッド」も名作であり、同時に専門分野に偏った記述のない、世の中のことを何も知らない子供たちが主人公の小説である(僕も世の中のことわかんないけど)。なぜこれらが名作なのかは深く分け入っていかないとわからないが、名作である。
ただ一つ言えるのは、ここに登場する子供たちは悲しいほど周囲の大人の、あるいは環境の影響を受けているということだ。「ライ麦畑」の音楽的能弁さは、大人の世界を転倒させようとするホールデンなりの気持ちの昇華だ。そもそも寮生活や教師とのあいだに不和が溜まっているからこそ熱量が増すものだ。背景に仄見える「大人の事情」を子供なりに意訳して、茶化したり祈ったり抱き締めたりする。(そもそも僕が大人といえる人間ではないので偉そうな書き方はできないのだけど、とりあえず大人の事情と言う言葉を使います)
「月と蟹」は、神奈川県鎌倉の漁港近郊で暮らす小学生の慎一の、その時期にしか味わえないだろう葛藤を描いているが、この葛藤もみな大人たちや環境との不和に拠っている。夫を亡くした後の母親の性生活、学校での人間関係、同居している祖父が語る「山から逃げ出した」というトラウマティックな過去。子供なりに苦しみながら大人の事情を受け止めようとするけれど、器用にはできない。重苦しい圧が主人公の慎一を覆っていく。故に友達の春也と「ヤドカリを神様と見立てた儀式」に逃避し、儀式によって願いを叶え、不満を解消しようとする。子供は大人の生活の影響をもろに受ける。その表現なり昇華の仕方が子供独特ということは言えると思う。
「子供の心には宇宙がある」と言った心理学者がいたと思う。ここで描かれているのは大人の事情を子供なりに呑み込もうとして、うまくいかず暴発的な意訳をする「子供の宇宙」である。
そして、背景に滲むように浮かぶ大人の事情というものを、陰謀論やストーリーに組み込まずにそれとなく描くというのはとてつもなく難しいと僕は思う。「悪い大人がいるから倒そうぜ!」という安易な小説はほとんどない。大人と子供、どちらが勝つことも負けることもなく、折り合いをつけながら生きている。もし陰謀があったとしても、子供は子供なりに咀嚼して日常を生き抜いているのだと思う。
最初の話に戻ると、子供や日常を描いて面白くするためには多くの計算が必要で、とても軽くみられるものなんかじゃないのだと痛感した。ゼロから考えられるものではないし、簡単に書けるなんてものでは絶対にない。
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