「成瀬は天下を取りにいく」を読む。200年の意味
200年という時間
戦後の歴史を調べている時に、知り合いの研究者が「現代人はせいぜい20年分ほどの時間軸しか持っていない」と愚痴を零していた。言われてみれば確かにその通りで、僕も15年分の時事ネタくらいしか、体感として記憶できていない。机の上を見渡してみても、網野義彦の本とか高校の歴史の参考書は、まだ血肉になった実感を与えてはこず、ただそこに転がった食べ終えたマクドナルドの箱とか、スマホの充電器とか、雑然とした暮らしの雑貨に紛れてしまっている。なるほど、僕は過去にも未来にも時間軸を持っていない。
ニュースを見ても一週間後には内容を忘れてしまう健忘症ぶりは、自分でも半ば諦めている。戦後や、あるいは戦前の日本人の暮らしぶりや彼らがそこで何を感じていたのかを知れば、歴史と自分のあいだに一本の軸なり線なりが通じると思う。そうすれば豊かに生きられるのではないかという思い込みがあった。それでも、今日も100円くらいのスポーツ飲料を薬局で買えれば、少し自分の機嫌をとれてハッピーになり「節約できた」と日誌に書いて1日が終わる。
話題書「成瀬は天下を取りにいく」を読んでいて、非常に興味深く思った。
主人公の成瀬あかりはとても長い時間軸をもっていたからだ。
物語のはじめ、幼い頃から成瀬の親友である島崎みゆきは、やや振り回されるかたちで成瀬と一緒に西武大津店の閉店イベントに通い続けることになる。地元局のテレビ番組である「ぐるりんワイド」で閉店日まで西武大津店を映すのだが、成瀬は最終日までそこに映りこむのを続ける。「いつだって変」だった成瀬の突拍子もない思いつきや行動を観察してきた島崎は、「成瀬あかり史」として彼女の行動の記録を反芻する。テストで500点満点をとることを目標にしたり、巨大なシャボン玉をつくることを極めてテレビに出演したり、けん玉を極めたりと、次々に関心事を移らせながらも可能性を拓いていくことを成瀬は辞めない。
これらの設定は最序盤に出てくるのだが、最初の数ページでこの主人公についていきたいと思わせる。
成瀬は200歳まで生きようとしている。
こういう思想(?)は真似できないが、もしかしたら成瀬は二百歳まで生きるという目標設定をしただけで、とても太く長い時間軸を獲得したのではないか?未来の200年を思えるくらいの人間ならば過去の200年も振り返れるのではないか。僕は歴史の研究について初学者だけれども、ひとつの時代を考えるのに前と後を同時に参照しなければいけないことくらいはわかる。
では成瀬のもった時間軸とは、彼女の鋭い眼光(表紙のイラストに描いてある通りの眼)が捉える世界観とは、どんなものなのか。
「すごい人」を遠くから眺めるしかない小説
もしも僕がこういった「とても大きな時間軸」をもった人物を小説で造形するならば、その時間軸を植え付けた先祖や師匠を設定するだろう。そこが恐らく凡庸かつ無難な着地点だ。登場人物のルーツを設定するために「この人の師匠は凄い思想家で、代々秘伝の書物に思想をしたため、弟子をすりこぎで引っ叩く特訓をしていて、その結果弟子はどんどん頭がおかしくなって……今に至る」というような説明を入れてしまいそうだ。
しかし、成瀬の両親は平凡な人間で、何故じぶんたちの娘が突然変異的に今の「成瀬あかり」になったのかさえわからない。もちろん読者もわからない。突然天才肌として生まれ、ちょっとした日常のなかを、背景として、時に主人公として彩りながら、周囲の人々の関心を掻っ攫っていく成瀬あかり。
それはもしかしたら、「すごい人」を描くにあたっては観察者である平凡な人物の視点を借りがちな、小説の書き方のセオリーが現れているかも知れない。
敢えて主語を大きくするが、エンタメ小説には、自分たちとは違う「すごい人」がたくさん出てくる。そして普通の人物の視点を借りながらも読者は「すごい人」の活躍する現場に立ち会う。この小説では、さまざまな人物の視点を借りながら「成瀬あかり」がこちら側と共に新しいことに挑戦して、結果的になんらかのギフトを贈ってくれるという構造をとっている。一緒に旅をした思い出とか、漫才をした思い出とかが、残った後になって「成瀬ってすごいんだな」と視点人物にも読者にも暖かく染み入ってくる。
成瀬あかりの視点に立つことは可能か?
話を200年設定に戻すが、「200歳まで生きる」という成瀬あかりがどんな風に世界を見ているのかは、読者としては想像で補うしかない。ただ、そのヒントになるシーンは随所にあると思う。滋賀から京都大学のオープンキャンパスに出向いた際に、どんな研究に注目するのかだとか、犯罪に対してどういう態度をとるのか、とか(具体的にはネタバレになるので描けません……)。個人的に気になるのは写真撮影のシーン。
成瀬のファンである女の子と写真を撮る際に、一切愛想笑いをしない成瀬。成瀬は基本的に写真に撮られる時はいつも真顔なのだが、この理由は具体的に開陳されない。写真が苦手であるとか、愛想がないという説明もない(むしろ成瀬は過剰なくらい気配りの人だと思う)。この真顔で正面からカメラと対峙するということが妙に引っかかったので、どこか同じようなシーンの書籍や出来事があっただろうかとうんうん唸って頭を絞るうちに、パッと電球に明かりがつくように思い返すことがあった。
中原中也の芸術論覚書には、笑うことに対する芸術家の態度が書いてある。本当に面白い時、人は笑わない。
成瀬の真顔は、世界のおもしろさに開かれている証なのかも知れないと思う。関心が次々に移り、拡大しているあいだは笑っている暇などないのかも知れない。
ここではたまたま芸術家の話になっているけれど、クリエイティブというのは態度であって職業ではない、とも言えるのだろう。けん玉を極めたり、ゴールデンレトリバーサイズのシャボン玉をつくったり、そういった行為ひとつひとつに世界を拓く可能性があるのだと思う。
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