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春待つや萬葉、古今、新古今

こんにちわ、
毎日投稿2日目の唐崎夜雨です。2日も続くなんて驚きです。

とはいえこの先、投稿のネタに詰まるようなこともあるでしょう。何を書いてもいいと言われると、逆に戸惑って時間ばかりが過ぎてしまう。

そこで、そんな時は、先人たちの「お知恵」を拝借。
それはお題やテーマというわけではありませんが、和歌や俳句などから着想を得て、つれづれなるままに筆を走らせてみようというもの。

これは古典の詩歌を解説したり評論しようというわけではない。
またそれらを現代に生きる人々へいかに活用しようかというものでもない。

あくまでも先人たちの魅力的な文芸作品からヒントを得て、noteに文章を書くということ。大いなる妄想の航海への羅針盤にしよう。

考えてもみてくださいまし、万葉の昔からコンニチまで膨大な量の和歌や俳句があります。もう少し広げてもろもろの文芸作品に手を出してもいいでしょう。それらのテキストを活用させていただこう、勝手に、という魂胆です。

そもそも唐崎夜雨は古典や詩歌の専門家でも学者でもないので、気ままに文章を書いてもいいでしょう。素人発想の八艘飛びで勘違いや間違いもなんのその、偉い人でも我が田に水は引くもの。いわんや素人をやと心得る。

と、見栄を切ったところですぐに座礁するかもしれない。また、ネタはあっても諸般の事情で、たとえば仕事が多忙で帰ってきたら寝てしまい時間的に投稿できないこともあるでしょうが、その時はその時に思案するといたします。

さて表題に使わせていただいた俳句。前書きもある。

 おのず口にのぼりたる、四文字、三文字、五文字なり。
春待つや萬葉、古今、新古今

この句は久保田くぼた万太郎まんたろう(1889-1963)の作です。

久保田万太郎は、作家で俳人。演劇にも携わり、劇団文学座の創設者でもある。浅草の人で江戸の情緒をしのばせる作品が多い。
まことに失礼ながら尊敬の念をこめて勝手に「クボマン」と呼ばせてもらってます。

わたくしは俳句を、小説を書き、戯曲を書き、演出に関する仕事をするひまひまを縫ってつくります。従ってわたくしの俳句はわがままであります。必ずしも俳句の規格にしたがひません。しかしわたくしをはなれて……わたくしの生活識域をはなれてわたくしの俳句は存在しないのであります。

「久保田万太郎句集」後記

クボマンは句作を余技だという。それは俳句を本業とはしていないという意味だと思うが、日記のように俳句を作っている。
つまり俳句は表に出さない生活の一部であり、そこにはその時その時のクボマンの心境が吐露されているものが少なくない。孤独や寂寥感を感じさせる俳句に出会うことも多い。

表題の句にはそうゆう寂しさや陰影は感じられない。浅草のおじさんがほころびはじめた梅の花を眺めながら、古人の和歌をあれやこれやと口ずさんでいるような、ちょいとほのぼのとした風景が思い浮かぶ。

和歌や俳句に触れるのも作るのも、「たしなみ」のようなところがあっていい。市井の人の風流韻事でいい。
例えるなら、改まった余所行きの衣裳ではなく、普段着な感覚。そうはいっても先人たちの普段着だからキモノが似合いそう。

さて、今宵は東京も雪が降り始めて来た。そこそこ積もるらしい。
明日の朝が気になってしまう。
それまでは、ひとつ先人のお知恵を拝借しつつ、雪にちなんでなにか私も俳句か短歌を逡巡模索呻吟してみようか……zzzzzz

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