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芭蕉稲荷神社(東京都江東区)に参る
こんにちわ 唐崎夜雨です
五月なかばに 東京都江東区常磐一丁目にある
芭蕉庵古跡 を訪れました
狭い敷地の中には古跡の石碑と
稲荷神社が建っています
そしてこの地で有名な 古池や の句が
作られたと伝えています
今回も句読点を使わずに書いてます
あらかじめご了承ください
![](https://assets.st-note.com/img/1717570141287-eLGNNXAMoU.png?width=800)
芭蕉稲荷神社へのみちのり
小名木川が隅田川と合流する地点の
北岸に 芭蕉庵古跡 ならびに 芭蕉稲荷神社 はある
地下鉄清澄白河駅から徒歩10分くらいかな
とても狭い敷地なので何人も中に入れない
もっとも訪れる人もほとんどいない
と思われる
![](https://assets.st-note.com/img/1717570582515-wYQLestrIl.jpg?width=800)
![](https://assets.st-note.com/img/1717570608901-2u30EVGHgV.jpg?width=800)
芭蕉庵旧蹟の由来
敷地内に 芭蕉遺蹟保存会 による案内版がある
それを抜粋して載せると
松尾芭蕉は杉山杉風に草庵の提供を受け
深川芭蕉庵と称し延宝八年から元禄七年に
大阪で病没するまで ここを本拠として
古池や蛙の句を作り
おくのほそ道などの紀行文を著した
ところが芭蕉没後
深川芭蕉庵は武家屋敷となり
幕末 明治にかけて滅失してしまう
大正六年津波来襲ののち
芭蕉愛好と伝わる石造蛙が発見されたことで
この地に芭蕉稲荷を祀り
大正十年には東京府がこの地を旧跡と指定
戦災で荒廃したものを
昭和三十年芭蕉遺蹟保存会により復旧
これによると敷地内の稲荷神社は
大正六年の創建ということで
比較的新しい神社になる
![](https://assets.st-note.com/img/1717571407103-cp1ZBxym8q.jpg?width=800)
![](https://assets.st-note.com/img/1717571427424-N03EZOGEWW.jpg?width=800)
江戸切絵図と比べてみると
![](https://assets.st-note.com/img/1717577553246-mwM1LVJEPp.jpg)
嘉永五年(1852)と記された江戸切絵図には
小名木川が隅田川と合流する北側に
松平遠江守の屋敷があり
庭中に芭蕉庵古跡とある
![](https://assets.st-note.com/img/1717577636218-pjpwWfMW7a.jpg?width=800)
「江戸名所図会」にも
芭蕉庵旧址 萬年橋の北詰 松平遠州候の庭中にありて 古池の形今猶存せりといふ とある
また杉山杉風は俗称を鯉屋藤左衛門といい
芭蕉庵は杉風が江戸小田原町の魚商だった頃の生簀屋敷で
のちに此の業をもせざりしかば
生洲に魚もなく
自ずから水面は水草が覆ひ
まさに古池の如くになりしゆえに 古池の口ずさみありしといへり
いまの芭蕉庵旧蹟は萬年橋北詰の西側に位置しているが
江戸時代の地図を見ても遠州候の屋敷は萬年橋北詰の東より
いくらか実際の地とズレているように思われる
芭蕉庵史跡展望庭園
芭蕉庵旧蹟の前の道を西へ進む
突き当りを右手にゆくと隅田川の川べりに出られる
また左手には芭蕉庵史跡展望庭園への段がある
![](https://assets.st-note.com/img/1717578164121-V9zokWn4dC.jpg?width=800)
庭園といっても狭い
されど小名木川と隅田川の合流地点で隅田川の景観を
眺められるので空は広い
ちょうど正面の青い橋が 清州橋
隅田川に架かる清州橋 永代橋 勝鬨橋は
国の重要文化財でもある
![](https://assets.st-note.com/img/1717578355081-PCaujlzoPv.jpg?width=800)
この庭園に芭蕉像がある
奥州へ思いを馳せているのだろうか
旅の夢が駆けめぐっていることだろう
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