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紀行note:ふかぬ笛きく木下闇 須磨寺 敦盛塚

旅から帰ってきたら風邪でダウンの唐崎夜雨です。
健康のありがたみってこんなときにしみじみ感じいります。体調は回復してまいりましたのでこれから益々書き散らかしてまいる所存です、が
毎日投稿からは少し距離を取ろうかと考えております。
その分ひと記事ひと記事の濃密度を高めようという思惑ですが、さしたる技量もありませんからさていかに、です。

それでは須磨寺参詣の続きを。
兵庫県神戸市須磨区にある真言宗須磨寺派大本山の須磨寺。正式名称は上野山じょうやさん福祥寺ふくしょうじ。御本尊は聖観世音菩薩。新西国観音霊場の第24番札所。
源平合戦ゆかりの寺として古くから知られている。9月29日に参拝。

須磨寺の境内には敦盛塚がある。敦盛は平清盛の弟経盛の子。つまりは清盛の甥っ子。寿永三年(1184)に一ノ谷の合戦で亡くなったのが17歳とか16歳とか。笛の名手で無官の大夫などとも呼ばれる。敦盛の所持していた笛を『平家物語』は「小枝〔さえだ〕」とするが、一般的には「青葉の笛」という。

さて、須磨寺の本堂に向かって左手に進むと大師堂、稲荷社、三重塔があり、その先に敦盛塚がある。

須磨寺本堂
須磨寺敦盛塚

こちらの敦盛塚は首塚だという。胴のほうは少し離れた一の谷、討死した場所である今の須磨浦公園のほうに塚がある。

塚は壇上に覆舎があり、よくある露座の五輪塔に比べると大事にされているようだ。参詣する人も絶えないのでしょう。
私が訪れた時は、そうでもありませんでしたので、ゆっくり手を合わさせていただきました。

熊谷直実に切られら敦盛の首は須磨寺に持ち込まれた。ここには源氏の義経の陣があった。

大師堂の前に、義経腰掛の松があり、敦盛首洗池がある。
考えてみると義経もいづれ追われる身。なんの因果でしょうかね。

敦盛首洗池 スイレンかな

敦盛塚のそばに建てられている謡曲史跡保存会の案内札によると、直実は義経の首実検のあと許しを得て、敦盛の遺品である甲冑、弓矢、青葉の笛とともに戦死のありさまを書き添えて敦盛の父である経盛に送ったそうです。

直実は、敦盛がまだ若武者で逃がしてやろうと考えもしたが、迫りくる源氏の追手からおそらく逃れられることは出来ないだろう、ならばわが手で首を斬り菩提を弔うと誓った。

青葉の笛が経盛の元へ届けられたとすれば、須磨寺の宝物館にある青葉の笛は巡り巡ってまたこの地へきたのでしょうか。詳しくは知らず。

須磨寺敦盛塚

松尾芭蕉は須磨寺を訊ねている。
芭蕉が伊賀上野の惣七に充てた手紙には「すま寺の淋しさ口をとぢたる斗〔ばかり〕ニ候。蝉折・こま笛、料足十疋見る迄もなし」とある。この「こま笛」は青葉の笛か。とすると芭蕉も笛にお金を払ってまでは「見る迄もなし」なのだろう。
ちなみに唐崎夜雨は宝物館には立ち寄らなかった。

須磨寺 絵馬

須磨寺の境内には芭蕉の句碑がある。これは『笈の小文』にのる俳句。

 須磨寺やふかぬ笛きく木下闇

「木下闇〔こしたやみ〕」というのは、鬱蒼と茂る木立の下の暗がりのこと。夏場であれば日陰となって涼しくもあるが、日差しが強いと木陰が闇のようなというところ。

そこで笛の音が聞こえてくる。なんとも異界の入り口のようである。
先の投稿に載せた蕪村の句「笛の音に波もよりくる須磨の秋」以上にホラー色が出た。吹いていない笛の音を聞いてるんだから。

須磨寺 芭蕉句碑

さてこの後は、本堂の裏手の山の中腹に奥の院があるので登ってみた。
道は整備されているが奥の院は奥の院である。老躯には多少キツイ。

でも好きなんですよ、奥の院とか奥社とか。時間がありそうならば行きたくなる。若いうちは想定される所要時間より早く到着できたが、最近は心もとなくない。ヒザが弱ってきたので断念することが多いけれども調子良ければ登拝しようとする。

奥の院では残念ながら眺望は楽しめない。森の中に位置している。
おそらく現在の須磨寺からは海浜を望むのが難しい。むかしは望めたかも知れないが、いまは無理のようです。
ただ、本堂より高い位置にある駐車場から眺望を楽しむことができるが、車で訪れないならわざわざ行くこともあるまい。

須磨寺奥之院
須磨寺駐車場からの景色

最後にもうひとつ句碑をご紹介しよう。大師堂の前、敦盛首洗池のほとりに建つのが尾崎放哉ほうさいの句碑。

 こんなよい月をひとりで見て寝る

尾崎放哉の句碑

尾崎放哉は明治から大正の自由律俳句で知られる俳人。一時期、須磨寺の大師堂の堂守をしていた。

この月見はひとりでさびしい感じもするが、こんなというくらいいい月の清々しい感じもする。
やはり須磨は秋がいいのだろう。

それでは須磨寺をあとにして次へ参ります。


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