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オススメ映画「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」

映画の備忘録は、いつも「filmarks」というサイトに書いているのですが、これは色んな人に観て欲しい!と思ったので、こちらにも書かせていただきます!
難しそうに見えますが、平野啓一郎さんの三島由紀夫に関する解説もあるので、すこーしだけ分かった気になれます(笑)


三島由紀夫に魅了される時間

1969年。三島が自決する一年半前。
東大駒場キャンパスの900番教室で行われた歴史的討論会。
主催は東大全共闘。招かれたのは天皇主義者の三島由紀夫。
右と左。言うなれば敵地に乗り込いるのに、三島からはそんな気概は感じられず、護衛もなく、極めて自然にそこに立っていた。

討論としながらも、穏やかで丁寧な三島の語り口。
穏やかにしようと堪えてるのではなく、相手を理解しようとしているから、その上で自分の「言葉」を彼らに届けようとしているから、声を荒らげる必要は無いのだ。

壇上で三島が話している時に、横槍を入れようとした学生の声を、同じ全共闘の芥さんが右手を上げて無言で制したシーンがあった。
きちんと闘おうとしている人達の、敵への敬意…プライドかもしれない。自分は全て聞いた上でも反論できるという自信も。

どう表現して良いか分からないけど、あのシーンがこの討論会の象徴のように、私には思えた。とても印象的だった。

これが討論のあるべき姿なのでは

うるせーお前分かってねーな!ではなくて、なるほどそういう考え方か、と理解する。
例え相手の話が馬鹿馬鹿しいと思っていても、どこがどう馬鹿馬鹿しいのかちゃんと理解する。
互いに違う思想を持ちながらも、相手の言うとこを咀嚼して、共通言語を用いてしっかりと正面から反論するのだ。
今、あんな討論をできる人達がどれくらいいるだろうか。

テレビの討論を見ていても、誰もが言いたい事を一方的にぶつけ合うばかりだ。相手に敬意を払ってしっかり聞く人は少ない。なんなら頭に血が上って最後まで聞きもせずに相手の言葉を潰そうとする。

言霊


言葉は使う人によって価値が変わると私は思っている。
言葉に敬意を払えない人の発する言葉は、所詮その程度のものでしかない。

全共闘の学生たちは「天皇」という単語を口にするのを拒んでいた。それが討論会の終盤に変化をみせた。

言霊。言葉に羽が生えて900番教室を飛んだ
というような事を、映像の中で三島は言っていた。
言葉は叩きつけても武器にはならない。
考えの違う相手であれば尚更、きちんと相手に届けなければ。
三島はそれを届けた。

ただスクリーンを観ているだけなのに、なんとも言えない熱いものが胸の中に広がった。

現代、今の彼ら

インタビューに出演された方々は、元全共闘や楯の会とは思えない、穏やかな雰囲気の方ばかりで(芥さんは除く笑)
そんな中で出た、終わってからどう生きるか
「生ききらなくてはいけない」
という、とても強い言葉に、今でも変わらない彼らの生きることへの覚悟を垣間見た気がした。

そんな中、あの動乱の時代を、内田さんがとても楽しそうに話すのが印象的だった。
きっと現代の私たちには想像もつかない、体の底から熱いものを燃やした時代だったのだろう。
だからこそ、あんな楽しそうに語れるのでは…と推測することしかできないけど。

芥さんは更に芥さんになってた(観たら分かるから!笑)
スクリーン越しでも芥さんのオーラが圧になって押し寄せてくる。
歳を重ねて更にすごいカリスマ性を纏っていて、絶対に「おじいちやん」なんて呼べないと思った。

彼らは今の日本をどう見ているのだろう


もどかしくはないのか?
憂いてはいないのか?

この世界規模の危機的状況下で、自粛という言葉の意味も理解せず遊び歩いている人達。

顔が見えないネットの中で、一方的に酷い言葉で誰かを叩く人達。

そんな人達に彼らの魂の言葉を伝えたい。
絶対に、今これを映画にした意味がある。

存在は知っていても、全貌を観たことがなかった私のような人間にもしっかり届いた。
受け取る気のない人には、届かないだろうけど、それでもこれを観て、数人でもいい、魂に何かを感じる人がいて欲しいと願う。

私が産まれる前に三島は死んでしまった。
同じ時代を生きたかった。私の人生で悔やまれるのはそこだけだ。

少しでも気になった方には観て欲しい。
こんな状況なので、映画館はちょっと難しいかもしれませんが…。

https://gaga.ne.jp/mishimatodai/

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