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人生は踊らにゃ損なのか

私ぐらいの年齢の人が「歳をとった」みたいなことを言うと多少の反感が来ると思うが、それでも「歳をとったな」と思うことが最近増えた。昨日食べたものやお酒は翌日の負債となって私を襲うし、少しの運動じゃ全然痩せない。お風呂上がりのスキンケアは適当だとすぐ肌がカサカサになるし、背中も肩もバキバキだ。電車の乗り換えでダッシュするとすぐ息が切れるし、寝てもちゃんと体力が回復しない。まだまだ沢山書き連ねることはできるが。

なにより、いい意味で適当になったなと思うことが増えた。

中学生の頃の私は「大人の適当さ」が嫌いだった。
話をちゃんと聴いてくれない大人は特に大嫌いだったし、気が利かなくて察しの悪い大人を馬鹿にしたりしていた。わたしは根が熱血なので、特に高校生ぐらいまでは結構なんにでも250%ぐらいのパワーで取り組んできたと思う。アツすぎて煙たがれることも時にはあった。しかし今は割とずっと80%ぐらいで過ごしている。80%ぐらいで過ごしていても元気だねえと言われるのが大人の世界である。
最初は自分のことを駄目だ駄目だと思っていたが、あるとき肩の力の抜き方が多少は上手くなったのかもしれないと思った。

大学に入った頃から、私は、私を制御していたい。という思いが強くなった。
出来るだけいつも理性的でいたいなと思っていた。捻くれ者に育ったわたしは、なんとなく、楽しいということを素直に受け入れるのが恥ずかしいし怖いなと思っていたのだ。内弁慶は加速し、好きなバンドのライブに行っても熱狂の渦に駆けていくことは出来ず、一歩外から羨ましいなと思いながらそれを眺めていた。理性を手放し、感情のままに熱狂に酔うことを怖いと感じていたのだ。今でもそれはかなり残っており、例えばライブの前に「盛り上がりスイッチ」みたいなものをONにしてから現場に臨むことがある。

私は、たぶんかつての自分が見たら気絶してしまうような成人になってしまった。かもしれない。子供の頃に憧れていた「大人」とはだいぶかなりめちゃくちゃ遠い大人になったな、と思う。いまだに漫画とゲームが好きだし、すぐ泣く。飽きっぽいしすぐ怒るし。しかも子供の頃に比べたら、鋭さも、観察力も少しずつ衰えているように思う(それは普通に悲しい)。だけど、その代わりに知識と技量を手にしている。それでなんとか乗り切っている。
なにより昔より自分のことを大切にできているかもしれないと思う。自分で書くのは恥ずかしいが、昔はかなり自分に自信があり、自分のことが今よりもっともっと大好きだった。一生懸命だったな、と思う。不安を全て前進とパワーでなぎ払ってきたように思う。適当に扱ってもすぐには壊れないし、頭がそこそこきれるし、運動もまあ出来るし、努力ができる。でも、あまり大切にはできてなかったなと思う。無理しなくてもいいよ、と赦すことが少しずつできてきた。失敗をたくさんして、自分のことを手放しで大好きとは言えなくなり、昔より落ち込むことも増えた。それでもそんな自分を許せるようになったし、周りにも随分優しくなれた気がするのだ。

私みたいな性格の人間にとって、自分を許す、というのは結構難しい作業だ。
例えるなら自分の中の司令官に許可をもらう感じだろうか。この司令官は仕事や目標に対してのゴーサインには全然躊躇いがなくてきぱきと判断できるのに、どうしても感情へのゴーサインが苦手らしい。だけど、周りの「大人」を見ていて思う。やっぱり楽しそうな人がいい。適度な適当さをもった余裕が欲しいと思うようになった。規律と理性で生きている人は今だに憧れで、素晴らしい。張り詰めた緊張感の中で戦う姿はカッコいい。だけど、もうだいぶ自分がそういう道から外れてしまった。どうしてこんなところにいるだろうというのを考える。今のわたしに、切迫したオーラを纏う必要が本当にあるのだろうか。そういうことを考えるようになった。

成人して随分経ったいま思うのは、案外大人ってものもよくわからないなということである。それは、周りも自分もそうだ。まだまだ「子供」っぽいなと思うところもあるし、「大人」になったなと思うところもある。独身でも家庭を持っていても、どんな職についていても、人間は脆く、弱いところがない人なんていない。強く見える人はそういうのを躱したり隠したりいなしたりするのが上手なだけなのだと思ったら、私は自分を許すことができた。

人生は踊らなければ、損だ。それははじめてライブで手を挙げて叫んだその日から変わらない。怖がる必要はなく、熱気に身を委ねればいいのだろう。すべての出来事は流れゆく一瞬でしかないのだから。

頭ではわかっているのに、判断が追いつかないね。
こういうところなんだよなあ…と、笑けてくる。

画家の傍ら自分の考えを文字にしています。 頂いたサポートは制作費用や書籍代として活用させて頂きます(^^)