見出し画像

[PoleStar1] 月猫-05

 ぼくとウィルに与えられた部屋はいいところだった。木のにおいがする。床が木の板でできていたのだ。植物を見るのはずいぶん久しぶりな気がする。ぼくは床に思い切り爪を立ててバリバリと引っ掻いた。ウィルが慌ててぼくを持ち上げた。なんでこんなに気持ちがいいことを人間が嫌がるのか、ぼくにはよくわからない。ウィルも爪研ぎをしてみればいいのに、とぼくは思った。
「だめだよロック。爪はここで研ぐんだよ」
そう言ってウィルはぼくが家でいつも使っている爪研ぎを持ってきたが、天然の木のほうが気分がいいに決まっているのだ。人間にはわからないだろうが、木に爪が引っかかるときの感覚は特別気分がいいものなのだ。

 そのあとぼくはウィルと一緒にごはんを食べて、ベッドで寝た。ぼくのにおいがついた毛布はいつも使っているものだけど、空の上はなにもかもふわふわと軽くてなんだか落ち着かなかった。でも、長い間せまいキャリーに入っていて疲れたぼくはすぐに眠りについた。

                  *

 次の日、ウィルは朝から仕事だと言ってどこかへ出かけたり部屋に戻って小さな箱をいじくり回していたりした。ぼくは退屈だった。ウィルは遊んでくれない。しかたがないのでぼくはウィルが光る板とにらめっこしている間に、こっそり部屋を抜け出した。

 空に行ったら雲の上を歩いたりできると思ったのだが、どこに行っても同じ景色ばかりで全然おもしろくなかった。ぼくは星を近くで眺めたり、月をつついて遊んだり、おひさまを独り占めしようと思っていたのに。
 そんなことを考えながらいくつもの角を曲がり、おなじに見えるドアの並んだ廊下をウロウロと歩いた。空の上は体が軽いので、少し足に力を入れると思いっきり飛んですぐ壁にぶつかってしまう。慎重に軽くジャンプするように移動するのが楽なのだ。ぼくはすぐにそのことを覚えた。はじめての体験だったが、慣れればどうということはない。

 それにしても──ぼくはぐわーんと小さな音が絶え間なく聞こえてくる廊下を歩きながら考えた。ここはおかしくて、退屈なところだ。壁は変なにおいがするし、他に動物も人間も見当たらない。ほかの人間もみんなウィルのように、部屋のなかで光る板とにらめっこをしているのかもしれないな、と思った。空の上は全然おもしろくない場所だ。

 そうしているうちに、ぼくはどうやら道に迷ったらしい。どの部屋から出てきたのか忘れてしまった。自分のにおいを辿ろうとしても、壁の変なにおいのせいで方向がよくわからないうえに、同じ見た目のドアばかりなのだ。ぼくは困って、廊下の角で座り込んだ。座っていても体が軽くてなんだかおちつかない。誰か人間が通りかからないだろうかと思ったのだが、なかなか人が来なくてぼくは途方に暮れていた。

「あら、こんなところに可愛いお客さんが」
ふいに後ろから声が聞こえて、ぼくは振り返った。知らない人間が空に浮いていた。びっくりして逃げようか助けを求めようか迷っているうちに、知らない人間はぼくのちかくにストンと降りてきた。
「あなたロックくんでしょ。みんなが噂してるから知ってる。飼い主は一体何をしてるの?」
 この人間は悪いやつではない、と判断したぼくは哀れな子猫っぽくにゃーんと鳴いた。もしかしたら助けてくれる人かもしれない。人間の中にはいじわるをしてくるやつと、助けてくれる人、そしてなにもしてこない無害な人の三種類がいることをぼくは知っていた。
「迷ったの?一般客室は東のエリアだからあっちね。一緒に行きましょう」
ぼくはその人間にされるがままに抱えられ、空の家のなかをふわふわと進んでいった。

                                                                 *

”ウィリアム・コリンズ&ロック” と書かれたドアの前で、ぼくを抱えた人間は立ち止まってドアの脇のボタンを押した。
「はい」
ウィルの声だ!ぼくは知らない人間の腕の中でもぞもぞと動いた。
「すいません、今ちょっとたいへんなので……」
「あなたの猫が廊下にいたから連れてきたのだけど」
「ああ、ロック!よかった!いま行きます」
ドアが開くと、中にはウィルがいた。
 ぼくは知らない人間の腕の中から降りて、部屋の中に戻った。自分のにおいがついた毛布に潜り込んで、ようやく安心した。

「研究棟との境目にいたの。ところで、ヘレナ・エヴァンスよ」
「ありがとうございます。ぼくは……」
ヘレナはウィルの言葉を遮って言った。
「知ってる。あなたとロックくんは有名人だもの」
「全部ロックのおかげですよ」
 ヘレナという人間がウィルと話しているあいだ、ぼくは自分のベッドでうとうとしていた。空の上の無機質な部屋は退屈だ。早くもとの家に戻りたいなぁと思いながら、ウィルはいつまでここにいるのだろうと考えた。そして、ぼくは冒険に疲れてそのまま眠りについた。

続きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?