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[PoleStar1] 月猫-06

 次の日起きると、ぼくはウィルと一緒にカフェというところに行った。人間がたくさんいたが、動物は見当たらなかった。でも、かすかに獣のにおいがする。それに、たくさんの食べ物のにおい。
「ここがこの月面ホテルの一番の目玉だよ。多くの人がここの景色を見にくるんだ」
 ウィルがそう言うのを、ぼくはハーネスを付けられたままふむふむと聞いていた。カフェというのは食べ物と人間が多いところだというのはわかった。でも、月面やらホテルやらの単語には聞き覚えがなかった。ぼくはウィルのあとをついて人々の間を歩いていく。

 たくさんの人間にジロジロ見られながら、ぼくたちは大きな窓のそばにたどり着いた。大勢の人間が窓から外を見ている。みんな、外に行きたいのだろうか。

「ほら、ここだよロック。そこに座って」
 窓の外には不思議な光景が広がっていた。壁一面の大きな窓の向こうに真っ暗な空と、大きな三日月。ところが三日月は変な模様だった。
 「あれが地球だよ。ぼくたちが住んでいる場所はあんなに遠いんだ」
 ウィルはそう言っていたが、ぼくは彼の言うことがよくわからなかった。地球がなんなのかぼくは知らない。ただ、変な模様の大きな月が目の前に浮かんでいるので前足でつついてみた。前足は窓に遮られて月に触ることはできなかった。
「ロック、ほら、地球と記念撮影だよ。こっち向いて」
 名前を呼ばれたぼくはウィルの方を向く。そして彼は小さい箱に顔を近づける。いつも繰り返されているこの一連の流れは、出かける先でいつも繰り返している。
「いい写真が撮れたよ。ほら、みてごらん」
 そういってウィルはぼくに小さい箱を近づけてきた。ぼくはそれを覗いてみた。ぼくと、夜空に光る大きな月が写っているのが見えた。

「あら、この前の猫ちゃん。いい写真撮れた?」
ぼくとウィルが振り返ると、そこにはこの前ぼくが迷子になっていたときに助けてくれた研究者──研究者というのはあとからウィルに聞いた──ヘレナがいた。

「こんにちは。この前はありがとうございます」
 ウィルがそういってヘレナと握手しているのがみえた。ぼくはヘレナに挨拶として頭を手のひらにごりごりと押し付けた。このヘレナという人間はいい人だ。
「人懐っこいのね」
 ヘレナはそういった。ぼくはしばらく話をする二人を観察していた。ウィルもヘレナも、大きな三日月を眺めていた。ウィルは月を近くで見たくてあんな長い時間飛行機に乗って、空の上まで来たのだろうか。ぼくも二人につられてしばらく月を見ていたが、月は動かないのですぐに興味を失った。

「このあとの予定は?」
ヘレナが言った。
「ロックがいいモデルになってくれたので、あとは写真を現像するだけです。本当は地球が満ちるまで待っていたいんですけど、ロックの体調次第ですね」
「よかったら研究棟の休憩エリアに来ない?あそこなら地球を静かなところで一日中眺められるの」
「一般人が入ってもいいんでしょうか?」
「ISSAの研究者と一緒なら大丈夫」

 ぼくは二人が会話している間、退屈だったので冒険に出かけることにした。ウィルは写真を撮ったときにハーネスの紐を手放していたので、ぼくは紐の先端をくわえてあるきだした。

 カフェという場所は大勢の人で溢れかえっていた。ここ数日、空のうえに滞在したぼくが学んだのは、人間には大きく分けて科学者と旅行者という二種類の人間がいることだ。ウィルも含めていろいろな格好をしたのが旅行者で、白い服を着ているのが──ぼくにときどき意地悪してくる人たちも含めて──科学者と呼ばれている。
 ぼくは旅行者と科学者が一緒に混じって溢れかえっているカフェの中を、動物のにおいを追いかけて進んだ。ぼくの他に動物がいるかもしれないなら、確認しておいたほうがいいだろうと思ったのだ。

                                                             *

 しばらく進むと薄暗い部屋に入った。あたりには食べ物のにおいで溢れていてブーンというかすかな音。それからカサカサという小さな音。”ネズミだ!” ぼくのハンターとしての本能がそう告げる。カサカサと小さな音を立てて動いているのはネズミに違いない。人間と一緒に暮らすようになってからネズミは捕ったことがないが、子猫だったころ母に捕ってもらって食べたことがある。いわば、おふくろの味というやつだ。ぼくは懐かしいそのにおいを追いかけた。人間の住んでいるところにはいつもネズミがいるものだ。それは、空の上でも変わらないらしい。

 ぼくは気配を殺して倉庫に入る。暗闇の中では何匹かネズミがいるようだった。タタタ、と小さな足音がする。ぼくは耳と鼻に意識を集中させ、ネズミに近づいて行った。
 ふと、目の前を不注意なネズミが横切ったのが暗闇でもはっきり見えた。ぼくは咄嗟にそれめがけて前足と同時に牙を出した。
 しかしぼくはネズミに夢中になっていて、ここが空の上だということをすっかり忘れていた。いつもの癖で思い切り床を蹴ったぼくは、勢いよくネズミの上を通り過ぎて壁にぶつかった。
 ガコン!という音がして思い切り背中を壁にぶつけたが、幸いなことにぼくにはふさふさの毛皮があるのであまり痛くなかった。しかし、ネズミたちはその音に反応して逃げてしまったようだ。ぼくはもう一度暗闇に身を潜めてチャンスをうかがうことにした。

 金属製の棚の下で、ぼくは周囲の音にすべての意識を向けた。狩りは忍耐力が大事だ。頭上の棚を歩くのが一匹、右の壁に積んである箱の近くにいる一匹は、カサカサと何かの袋を漁っている音がする。
 彼らは壁に空いた通気口から出入りしているらしい。通気ダクトの中を通る足音が複数。ぼくは人間の食料に夢中になっている間抜けに狙いを定めた。音をたてないように棚の下を出て、食べ物のにおいがする箱にそっと近づく。袋に空いた穴に半身を入れて何かを食べている獲物を発見した。暗闇で動くものは良く見える。空の上のネズミは、地球で見たものよりも丸くて、別の種類に見えた。
 今度は力を入れ過ぎないように注意しながら、ぼくは獲物めがけて飛びかかった。トン、というジャンプの音に反応して逃げようとしたネズミだったが、彼らも空の上では動きが鈍るらしい。昔見たものものよりずっとのろまなネズミをぼくは易々と口にくわえることに成功した。しかし今度は着地に失敗し、ぼくは箱に頭をぶつけることになった。空の上では体が軽いので踏ん張るということがうまくできないのだ。獲物は離さなかったが、そのときの衝撃で口のなかでネズミの骨がポキポキと折れてしまった。

 まったく、空の上は思うように動けずに疲れるものだ。ぼくは狩りの疲労でふらふらしながらも、戦利品を咥えて倉庫を出た。早く家に帰りたい、と思った。ウィルは一体いつまで空の上で写真を撮るつもりだろうか。そんなことを考えながら、既に動かなくなったネズミを咥え直してカフェテリアに向かう。ウィルとヘレナに見せてやろう。人間は大きくてのろいので、小さく素早いネズミを捕れない。だからわりに捕ってやると喜ぶのだ。
 それにしても、空のネズミは大きいわりに歯ごたえがなく、以前食べたものよりやわらかくてぶよぶよしていた。骨も細くてすぐ折れてしまう。久しぶりの血の味もあまりおいしいとは思えなかった。

                                                                 *

 カフェに入ると大勢の人間のなかですぐにウィルは見つかった。まだ窓のそばでヘレナとおしゃべりをしている。ぼくは戦利品を携え、しっぽをピンと立てて人間の間を行進した。さあ人間たち、凄腕ハンターであるぼくに括目せよ!

 ふと、入り口付近で一人の人間がぼくの戦利品に目をつけた。派手な恰好の人間だった。旅行者の一人に違いない。派手な人間はぼくが咥えたネズミを見ると目を開いて悲鳴を上げた。
「きゃあああー!!!!」
 ぼくはその大声にびくっとなった。周りにいた人間も驚いて彼女のほうを見ている。すぐにぼくの周りは大騒ぎになった。 
「何だ!」
「ネズミだって」
「月にネズミがいるもんか」
「第二基地から来たに違いない。あそこはネズミが出るって前から噂で……」

 そのあとは大変だった。
 慌てふためいてぼくから逃げる人間と、何事かと集まってくる人間。見知らぬ大勢の人間たちがぼくに注目している。
 ぼくは騒ぎに驚いて固まってしまった。たくさんの人間のなかからウィルが出てきて僕を抱え上げるまで、ネズミを離さないようにしながらその場で小さくなっているしかなかった。口の中でまたネズミの骨が折れるのがわかった。


続きます。

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