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私の人生観を変えた一冊『夜と霧』

こんにちは。もうすぐ梅雨も明けそうですね。洗濯物が外に干せるようになるのはありがたいですが、暑くなると私の大嫌いな虫が湧くので、ヤツらを家に入れぬよう細心の注意を払わねばなりません。

今回は珍しくちょい真面目な内容で。
以前、こちらの記事の終盤で少し触れた本について、書いていこうと思います。

その本というのがこちらです。

ヴィクトール・E・フランクル著『夜と霧』

note始めたばかりの頃に「この本について書こう!」と下書きに入れたままその後約半年近く、熟成と見せかけての実は放置していたのが今回の記事です。

この本、私の人生観を変えた一冊です。って書くとすごく大げさなんですけど、わりとマジで言ってます。

『夜と霧』について

この著書は、精神科医・心理学者であるヴィクトール・フランクルが、第二次世界大戦中にナチス強制収容所に収容された時の実体験をもとに書いたものです。
いかに強制収容所が悲惨なものだったかを伝えるというよりも、収容所に入れられた人々を心理学的、精神病理学的に分析した内容です。心理学を学んだことのある方で知ってる方も多いかもしれないです。
ハードカバーですが総ページ数は200ページもなく、学術書と思いきや全体的に平易な文章でとても読みやすいです。

『夜と霧』との出会い

読むきっかけになったのは、先ほどの記事で紹介したぱぷりこさんのブログでした。ぱぷりこさんのブログはこちら↓


当時の私は20代後半にさしかかる頃、「自分が生きる意味」とやらを模索していた最中でした。

仕事の忙しさには慣れたけど、もやもやした思いは常にどこかにありました。
何で私がこの仕事やらなきゃならないんだ。同期入社の子は本社でゆったり勤務でプライベートも充実してるのに、何で私は小さな支店であくせく働いてるんだ。人間関係で上手く行かなかったり、ミスをして必要以上に落ち込むことも多くありました。
結婚する子も周りでちらほら出てきたけど、私は結婚できるんだろうか…なんて焦りもあったり、親との関係に悩んでいたり、この仕事いつまで続けられるんだろう、とか将来の不安もぽつぽつと。

時々ふと、こんなもやもやした気持ちを抱えながら繰り返す毎日に一体何の意味があるんだろう、こんな思いまでして生きる意味って?と考えてしまうこともありました。

そんな時に出会ったこの本。私にとって、雷が落ちるような衝撃でした。

『夜と霧』のメインテーマ

本のざっくりした内容は上述の通りで著者の強制収容所での実体験がもとになっているのですが、決して収容所の悲惨さを感情的に訴えるのではなく、主に収容所という極限状態の中にいる人々がどうであったかについて、客観的な視点で書かれています。

もちろん、収容所の悲惨な環境については触れられています。
粗末な食事しか与えられず、厳しい寒さの中でボロボロの服で労働させられ、殴られ蹴られの暴行は日常茶飯事、衛生状態も最悪、労働力として使いものにならなければガス室送りにされる。いつ解放されるかも分からない。そんな様が具体的に書かれています。人権何それおいしいの?状態ですよね。

しかし、被収容者が受けた迫害の数々が事実としてあったこと、これがショッキングなのはもちろんですがそれ以上に、著書のメインテーマとなる部分すなわち、そんな最悪の状況に置かれた人々が、どんな心理状態になり、どう生きていたのかについて書かれている部分に私は衝撃を受けました。

突然収容所に入ることとなった人々は、どのように絶望し何を考えたのか。そこから始まる収容所生活では、被収容者たちはどのように適応し、仲間同士何を語り合って日々を過ごしたのか。死と隣り合わせの環境の中で、死ぬことと生きることにどうやって向き合ったのか。
死んでいった人々の心のありようはどうだったか。そして、生きた人々は何に生きる希望を見出し、どのように耐えていたのか。
これがすごくリアルだったんです。ホロコーストからは60年以上経っているけども「過去の歴史」と他人事のようには捉えられず、むしろ平和な時代を生きている自分自身の中にも普通にある感情だったりしたので凄く生々しく感じたんですね。
自分が強制収容所に入ることはなくても、日常の中で何か辛いことや苦しいことに直面した時に感じることだったりするので「あーこういう気分になることあるわ」って思うんです。基本的に感傷を交えない淡々とした語り口だからこそ余計にリアルで、胸に迫るものがあります。

精神の自由、生きることについて

そういった記述を踏まえて、著書の後半からは「生きるとはどういうことか」について書かれています。私は特に「第二段階 収容所生活」の章の「精神の自由」の部分が好きで、今でもこの部分だけ度々読み返したりします。引用します。

彼ら※は、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。

(注:※彼ら は、ここでは被収容者を指します)

どんな環境だろうと、その人自身の精神、精神のあり方は誰も侵すことができない。そういう意味で精神は自由だ。
収容所という人間的な生活からは最も遠い環境に置かれた中でも、決して人間らしさを失わず、尊厳だったり他人への思いやりというものを忘れない人々は一定数いた、と著者は言っています(具体例の引用は今回ちょっと割愛します)。

こんな最悪な環境にいても、自分の尊厳を保ったり、自分ではない誰かのことなんて考えられるものだろうか?
だけどそれって、私の身近にもあることだ。どんなにブラックな労働環境だろうと、どんなに殺伐としたコミュニティだろうと、その中にはスーパー聖人みたいな人が必ず1人2人はいる。
だからと言ってじゃあ自分がそんな聖人みたいな人間になれる自信はないけれど、自分自身が生きるヒントにはなるような気がしました。
苦しさにぶち当たった時、自分の中で何を重きに置いて、良心を失わずに行動できるか。自分自身のことだけではなく、他者に目を向ける余裕を持てるかどうか。
それは、やってきた「苦しみ」と自分がどう向き合うかにかかっているのかな…と思ったんです。
もうちょっと引用します。

そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。
被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
わたしたちにとって、「どれだけでも苦しみ尽くさねばならない」ことはあった。ものごとを、つまり横溢する苦しみを直視することは避けられなかった。気持ちが萎え、ときには涙することもあった。だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。

収容所にいた人々は、果たして「不幸」だったのでしょうか。収容所の中で人生を終えた人は「不幸な一生だった」のでしょうか。そうではない、と著者は言っています。
収容所で過酷な日々を強いられながらも、その苦しみを苦しみとして受け止め、苦しみ抜き時には涙しつつも他者と触れ合い、繋がり、日々を賢明に生きている人々もいたのです。そんな人々は、自身の人生をまっとうした、「生きた」人々であると言えるでしょう。

自分にとって、幸せとは

それまでの私は、自分の生きる目的を「幸せになること」だと思っていて、楽しいことや嬉しいことが多く起こるイコール「幸せ」だと思っていました。
だから、自分が苦しい辛いと感じる出来事に直面した時には「今の私は不幸だ」と感じていたのです。
それで出来るだけ辛い思いはしたくないから、何とか辛い気持ちを誤魔化したり、無理やり蓋をしたり忘れようとしたり…ということをしてきました。

だけど、よく考えたら人生なんて山あり谷あり、楽しいこともあれば辛いことも一定数あるわけで。「禍福は糾える縄の如し」という言葉もあるように、辛いことを避けては通れない。でもそれが人生、それでこそ人生なんだ…と。

辛さと向き合っている時というのは、本当に苦しいです。同じような思考がぐるぐるして何日も続くし、泣きすぎて翌日目がぱんぱんに腫れることもある。趣味も楽しめない時もある。
だけど、そうやってしっかり向き合ったからこそ、その苦しさを自分の経験とすることができる。
正面から向き合うのと目を逸らしてやり過ごすのとは違っていて、やり過ごせばその場は凌げても、また同じような出来事が起きれば繰り返し逃げることになる。だけどきちんと向き合えたならば、次回からは対処できるようになるし、もし自分以外の誰かが同じように苦しんでいたら、フォローしたり何かしら手を差し伸べられるかもしれない。

「幸せ」とは、楽しいことや嬉しいことが絶えず続く人生ではなく、辛いことや苦しいことに対しても真正面から向き合うことも含めた人生を言うのではないか。
そういう経験を積み重ねていくことこそが、自分にとっての幸せのかたちなのかもしれない。
私の中での「幸せ」の定義がひっくり返った瞬間でした。
「幸せは自分の心が決める」というよく聞く言葉にも、なんとなく共感できる気がします。
どんな環境にいようと、その人が「幸せな人生を生きている」と自分で思えるなら、その人は幸せなのです。

人間とは

そして、その人が人間的な良心だったり思いやりを持てるかどうかもその人次第。
収容所の被収容者全員が、世間一般的に言う「被害者」だったわけではないことを著者は言っています。
被収容者たちを監視し、場合によっては暴力も振るう「カポー」というお目付け役のような役割は、被収容者の中でも特に非人格的な人物から選ばれたそうです。そしてその「カポー」達は、看守よりも非常で冷酷だったと著書の中で述べられています。

一方で、監視側の人間の中にも良心的な人、慈悲の心を持ちそれを態度で示してくれる人もいたようで、著者はそんな人々に助けられた経験についても書いています。
具体的な事例については本を読んでほしいので、そのあたりがまとまっていると思う箇所を引用します。

この世にはふたつの種族がいる。いや、ふたつの種族しかいない。まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。
わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

ここからわかるのは、「まあどんな集団にも良いヤツも嫌なヤツもいるし、どんな人間の中にも聖人の自分と鬼畜な自分がいるし、その人次第でどっちに転ぶ可能性もある」って感じでしょうか。
あと私が思ったのは、どんな人の内面も「善」と「悪」の二元論だけで成り立ってるわけじゃなくて色んな面が複雑に折り重なったり混ざりあったりしてるんだ、ということ。
ちょっと話がズレる気もしますが、自分も周りの人間もそういうモンなんだ…ということを常に頭に入れた状態で私は人と接していたい、と思います。

まとめ

ここまでだいぶ長くなりましたがすごくざっくり言うと、自分の中での生きる意味や「幸せ」の意味というのが本を読む前と後で大きく変化しました。
以前の私にとっての幸せは、人生の「目的」でした。だけど幸せとは、きっと人生の「結果」である。そんな風に思うようになりました。

私は死に際に自分の人生を振り返った時、その道のりには辛いことも嬉しいこともあったけれど、その歩みに対して自分自身に称賛を送り、「私は私なりに、人生を全うした」と思って死にたい。きっと、それが私にとっての幸せだろうと思うからです。
そのために、支えてくれる周りの人達に感謝し、それを行動でも示し、出来る限り良心を持って周囲にも接していられる自分でいたい。後から振り返って、自分が恥ずかしくならないように。

…なんて大層なコトを言いましたが、現実にはなかなか思うようにはいきません。小さなことでいつまでもくよくよすることも多いし、ついつい辛いことから逃げちゃったりもします。
でもそんな時こそ、この本をまた読み返したり、今日書いたこの記事を思い出して、自分の尻ペンペン叩きながら日々生きていこうと思います。辛かったり苦しかったりすることも、いつか自分の糧になると信じて。死ぬ時に人生振り返って「あの時ああいう経験しておいてよかったな」と思えるように。
この本は、私にとって一生読み続けたい本です。なんなら死ぬ間際も手元に置いて読んでいたい。

生きてることが辛いなら

最後に私の好きな歌を紹介します。
森山直太朗『生きてることが辛いなら』

最初から最後まですごくいい歌詞なので、聴いたことない方には是非聴いて欲しいです。なんなら歌詞だけでも。私は何やかんやあって生き急いでいるような時期に初めて聴いて泣きました。
最後の「くたばる喜びとっておけ」というフレーズが特に好きで。
今辛くたって、苦しくたって、人間どうせそのうちみんな死んじゃうんだから。死にたいと思うなら、その「くたばる喜び」取っておこう。
…そう思えば、最後に笑えるように生きてみるのもいいかも、いやどうせそれならそれまでたくさん笑って泣いて生きて「私は生きたぜグッバイ」とか言って死にたいよな、って思います。



相変わらず見切り発車で記事を投稿してますが、珍しく真面目に書いたので後からちょいちょい直してるかもしれません。読書感想文的なものは苦手なので、読みにくかったり内容が理解しづらかったらそれ私の実力不足です。引用の誤字等もちょっと不安です。
なにか気づいた方は優しく指摘して頂けると嬉しいです。または多目に見てくださいてへー

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