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ルールと正義

馬鹿みたいにルールを守って、
真面目に暮らしてきた。

でもそれを褒められることなんてない。
ただ、当たり前のこととして鎮座する。
そして私はルールが守れない人たちを嘲笑した。
だってルールは正義だから。
従えないなら、くたばるのみ。
だったはずなのに。

ある人がルール破りをした。
みんなが皆、指を差し、嘲笑い、怒る。
それでもルールを破り続け、反抗するその人に
相応の処分が与えられた。
その人は言う。
「それでも僕は、違うと思うから」

ちらほらと隠れていた賛同者が表立つようにはなったけれど、結局は感覚否定者が圧倒的多数。
その者はバカにされ、コミュニティ追放された。
それでも尚、このルールは違うとその人は言う。

ルールは、ルール。
守るためにあり、礼儀である。
正しくて、当たり前のもの。
揺るぎなくて、逆らえないもの。

そのはずなのに、賛同者がどんどんと声を上げ始めた。論理を立て、根拠を並べ、人に自分たちが正しいと訴え続けた結果、信用と確証が人々の心に芽生えてきたのだ。一定数人が増えれば、ついて行く感覚肯定者も増える。皆がみな、ルールを疑い始めた。

その中で私はついて行けなかった。
真面目に守り続けてきたルールを壊されるということは、信じてきた今までの正しさを否定して無にするに等しかったから。

だからついにルールが変更された時、
私は絶望した。

私は何をしていたんだ。
真面目に守って信じて従ってきた正しさを馬鹿にされたような気分と、信じてきたものを信じていた世界から全否定される屈辱。
私は狂うほどに、どん底だった。

私の卑しさ、愚かさ、醜さを
好くことができない日々。
ただただ嫌悪が募っていく。

そして、私が嘲笑される側になった。
指を差され、嘲笑われ、怒られる。
時代遅れ、古びた慣習。

その人は言う、この新しいルールは守るべきだと。
時代に合った正義だと。

ルールは、ルール。
守るためにあり、礼儀である。
正しくて、当たり前のもの。
揺るぎなくて、逆らえないもの。

今まで信じてきた自分を否定して、新しい時代に沿うためのルールに対して忠実になるか。
はたまた、反逆者となって"ルール"という信じてきた存在を見捨てるか。


私の選択はとうに決まっていた。

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