【超・超・短編小説】 眼鏡
夜、お風呂からあがったら眼鏡がなかった。確かに洗面台の上に置いた。間違えようがない。
黒いセルフレームのボストン型眼鏡は、最近のさらさのデフォルトだ。かわいいし、賢そうにみえるし、ちょっとイメチェン? って気分で、去年くらいから、いざというとき以外コンタクトはやめにしていた。
で、
裸眼だと0.1とか2とかだし、家の中でもずっと眼鏡。だから、お風呂に入る前に他の場所で外すことなんてない。ぜったいない。ぜったい。
さらさは、あんまり身体も拭かないまま急いで家着兼パジャマを着ると、息をひそめてリビングを探してみた。どこにもない。ありえないけど、キッチン。まったくありえないけど、トイレ。おそるおそる玄関。それから。ベッドサイドの小さなテーブル。
眼鏡は、そこに、丁寧にたたまれて静かに置かれていた。
濡れた身体の寒気からなのか、いっき不安に包まれたからなのか、ぶるっと震えた。
いや。
きっと誰かに言っても笑われるだけだろう。
だから。
わかってもらいたい。
だから。
これってぜったいおかしい。この不穏を、いったい誰に訴えればいいんだろう。
数日後の朝のことだ。
さらさは、ふと気づいた。
ふと。
え? 背中をすっと寒気が走った。
冷蔵庫にマグネットでとめた実家の猫のシマ子の写真が、上下逆さまになっていた。
いつ
から?
とっさに窓とドアの鍵とカーテンを全部閉めて、耳を塞いでしゃがみ込む。
決定的なことは、一週間後におこった。
夕方、帰宅してドアを開けると、廊下に脱いだはずのスリッパが、一段下、玄関のたたきでサンダルの隣に並んでいた。
さらさは、迷わず警察に電話した。そして、真相はまったく何ひとつわからないまま、無我夢中で引っ越した。
今は、別の沿線の新しい部屋で、やっと落ちついて心穏やかに暮らしている。
おち?
おちなんてない。
ただ、警察には言わなかったけれど、さらさには春にお別れした元カレがいた。もちろん鍵はちゃんと返してもらっていた。それに、そういう何ていうかずるずる粘着質なタイプじゃなかったし、そこは誰よりさらさが一番よく知っている。それに写真逆さまだとか眼鏡きちんとたたむだとか、そんな気の利いたことができるようならもっとましな嘘でもついてくれればよかったんじゃないクソ真面目なくせに急に心変わりしたのは向こうだったんだしあいつがストーカーまがいになって戻ってくるなんてことぜったいない。ぜったい。ありえない。と思っていたから。
でも、
ほんとうは、
さらさは、本当は、彼にかえってきてほしかった。そう。だからきっぱりと引っ越す勇気もなくて。
背中を押してくれたのは、無意識の、もうひとりのさらさだったのだ。
(おわり)
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