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風の吹くまま、気の向くままに 1           (三島由紀夫『金閣寺』から)

 人は、何事も思いつめるのはよくないようです。そうなると多角的にものが見えなくなります。ただ一つのことを考えて、それだけを一直線に追及していくのは、客観性が失われ、気が付いた時には、迷路に落ち込み、後に戻れないということが起きてしまいがちです。やはり色々と比較する余裕を持つのも大事なのではないでしょうか。
 
 昭和の敗戦直後、今から七十年余り前の話ですが、京都の金閣寺が同寺の若い修行僧により放火され消失するという事件がありました。動機はというと、取り調べでの供述によれば、「世間を騒がせること」「社会への復讐」はたまた「美への嫉妬」とか言っているようでした。

 何のことなのか、私にはさっぱり分かりませんでした。世間を騒がせるでは余りにも軽薄であるし、社会への復讐では自分の寺に火をつけて、自壊じゃないのともいえるし、ましてや美への嫉妬となると金閣寺への嫉妬となるし、そんなことがあるのかなと思いました。

 それから何年か後に三島由紀夫の『金閣寺』という本が出版されました。それには、若い修行僧の溝口が金閣寺の放火に到る経緯を細密に本人の独白という形で著しているものでした。

 非常に綿密で、三島由紀夫の分析した溝口の動機が良く分かりました。本の中では、溝口の大学の友人、柏木との哲学的論争に面白さを感じました。それは何かというと、「認識」と「行為」の対比でした。世界を変貌させるのは、認識だと柏木は言います。それに対し溝口は、行為だといいます。かみ合わない不毛の論争がそこにありました。

 溝口は、子供の時に父親から金閣寺の美しさを聞かされ、想像を膨らませて、実物を見た時には、美しいとは思えず幻滅を感じます。それが修行僧として寺にいて、毎日接するようになると金閣寺の美しさが感知され、だんだんと心の内でその美が増幅されていきます。

 ある時、溝口が女性と二人きりでいたら、金閣寺が彼に現れ、生の営みを妨げたのです。そのようなことが二度起こりました。寺の老師との関係でも葛藤を抱え、終に寺を出奔し、日本海に向かいます。その旅先で、金閣寺は焼かなければとの思いに到るのです。

 金閣寺を焼く前にしたことは、五番町の遊郭に行き、男として初めて遊女と戯れたことです。この辺は、当時の日常的風景として、淡々と語られていると思いました。

 いよいよ、夜陰に紛れて放火しようという段になって、美しい金閣寺が溝口の心身に現れ、あの時と同じように行為を妨げようとしました。まるで溝口の認識が土壇場になって抵抗したようにも私には思えました。

 その時、必死に思い出したのが、臨済録示衆だというのです。仏も祖父母も父母などもすべてを殺して、解脱を得、自由になれるとの意味かと思いますが、それにより燐寸を擦ったのです。まさに煩悩を断てば、何事にも執着しなくて行動できるということでしょうか。仏教の教えは心の在り方ではなかったですか。

 このようにして、溝口は、日本の伝統美を焼失させたのですが、終戦直後で、何もかも日本が破壊された中で、日本的なものが否定される人々の風潮の中で、その一環だといえるのだろうかと考えてみました。修行僧の供述には、それは、直接的には見られないと思いました。金閣寺の小説の中で見ても、そのことは主題になっていないと思いました。それは、溝口の個人的な事情で、一般的な普遍性はないような気がしました。作者自身も美の冒とくは肯定してないと思えるし、だからこそ一人称の語りとなり、個別性を表に出したような気がします。

 余談になりますが、三島由紀夫が五番町の遊郭をあまりにも日常的に描いたことへの気がかりでしょうか、水上勉が『五番町夕霧楼』という小説を書いております。これは、京都にある五番町の遊郭に入楼した女性と幼馴染の修行僧との哀切な恋物語です。表面的には何でもないように見える人の世の内側に言うに言われぬ悲哀があると思います。

参考文献:三島由紀夫著『金閣寺』新潮社1994年


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