中年女の手引き
サブウェイで待っている。
待っている相手は、今、たぶん至福中で、夢みたい虹みたい、瞼の裏みたい、宇宙みたい、奇跡みたい、とか考えてなくて、ただ五感とか様々な部分で感じていると思う。
本日から、Mrs.greenappleのファンクラブツアー。2days。
札幌。記念すべき、一日目。
わたしは残念ながら参加するわけではないので、家族の付き添いで、会場入りし、電子チケットとかリストバンドとか本人確認とか、勝手が分からない中で直前まで二人でドキドキしながら、ついに入場の時間になって、ハイタッチして別れる。
期待が大きすぎて、不安の入り交じった家族の見たことのない表情が心に焼き付いて、切なくなりながら、わたしも移動。
雪祭りが始まり、観光客が普段よりも目に付く。
ひたすら歩いて、軽食がとれる場所を探した。
ATMでお金をおろそうと思い、操作するもあまりの貧困、たじろぐ。
つい先日まで、余裕があったはずなんだが。
どこかに消えたのか、金。
たじろいでも、出ないもんはでない。強力な便秘状態。
先日、能登の地震の被害に寄付したけど。
それも、阿呆の所作に思えてくる。わたしは人を助けたい。虎杖君みたいに。
しかし、閑古鳥を肩にのせて金をたむける阿呆か。わたしは。
金がないのは、いかにも阿呆の証拠みたいで。情けない。情けないと思いながら、入るとすぐ食物などに消える。
調味料とか、昼に飲むスープとか、最近だと果物。
金がすべてじゃないはずなのに、愛がすべてなのに。先立つのは、愛ではなくて金。適度な金。身の丈にあった金。
たじろいでも、まさかずっとベンチにいるのも惨めだし、大通りの、地下のベンチにはちかごろ、若年層のバンカラ風キッズたちが、たむろしている。
BLANKEY JET CITYの歌を思い出す。
歩き回って時間を過ごすのも、いかにも阿呆のやることみたいだ。
外寒いし、マイナスだし、この徘徊、阿呆。感冒、季節性の感染症などにつながったら、いつも呪ってんのに、また自分こっそり呪って、体調わるくして、予定崩れ、惨めになってんののルーティン、どんな転生?だって言う感じなので、商業複合施設内のサブウェイに。
注文方法は、ファストフードにしては難易度が高めだったので、いちいち、恥いりながら注文を完了させることができた。
小山田浩子の短編集があまりに、すばらしくて、わたしも短編に挑戦してみよう、と思い先日Noteに掲載したのが、『みちひき』という作品だ。
エビ・ジェノベーゼピザ。
(注文するとき不覚にも噛んでしまった)(一生懸命に、ジェビエノベーゼと注文していた)とホットコーヒの暖かさに、胸をなでおろしながら、『眼球譚』という義眼の女の人を題材にした作品を書いてみる。
わたしは、小説を書くことができるのだろうか。不安になる。
あきらめてしまうかもしれない。
そう思うことが不安だ。確信を持って、小説家になると考えているはずなのに、なぜ。現実があまりに大きい。
あきらめて、なにもない中年を送るのか。
なにもないことを、おそれるのはなぜか。成し遂げたいと思うことで、わたしは活力を補強しているだけなのだろうか。
白髪が急激に増え、日課として抜毛するだけの人生など。皮下脂肪も、暖をとれるのよ、最高ちょうどいいわ!等。開き直りのそぞろ笑い。豪胆気取りの根暗。
まあね、それも悪くない。
わたしは、ねっから見栄坊だ。
それなのに、努力不足、根性不足。わたしは、世にある作家の作品を読むたび、感動したり焦燥感にかられたりする。自分ははたして、これでいいのか。作品の奴隷になり、戦車のごとく書き、世と調和するよりも、芸を求め己の芸術に邁進せよ。とか。
三月締め切りの賞には、だせないだろうという絶望、絶望を飲み込んだときの安心感。つまり、わたしはぬるいのかも。
まとめると、最近の日常に適応できない自分とで、現在苦しくもあるのだ。そして、阿呆ときたもんだ。
そんな中、いつも言葉はわたしを救ってくれる。言葉は砦だ。言葉は槍、盾。
信頼できる親しい人の言葉や、行動に救われることと、言葉から受ける比べる事はできない。どちらも価値があり、わたしの味方だと日々感じる。手のさしのべかたが違うのだ。ただ、それだけ。
図書館本の、ルシア・ベルリンも読んでいる。彼女の人生は、波乱に満ちている。日々の中で、言葉を探し、パズルのようにピースをはめこみ、たとえ完成品のピースが足りなくても(それが重要な、例えば人形の目や鼻、全体として重要な家屋の窓だとしても)完成した作品は、額装され、大勢の心の炯眼に直に飛び込んでいく。
不思議な読み心地だった。
ああ、生活。
そう思った。
文字通り。地にしっかり、足をおろすことで我々は生きている、もちろん、なにかの都合でそうできない人もいるだろうけれど。
生活する人の物語は、生々しい。生きていると聞こえてくる、よろずの声の中、必死に求めて、手放して繰り返して、生活を営む。
彼女が生を自然な形でまっとうしたことに敬意を払いながら、わたしも書くぞ、と襟を正す。
ホワイトラウンジという、ファンクラブツアーのドレスコードが『どこかに白を纏って』というもので、終演後の人いきれは、美しい白波だった。
家族の姿を探すのをあきらめ、本に戻る。
ルシアの世界にお邪魔する。時々、顔をあげ、わたしを探しているだろう家族の姿をわたしも同じように探す。
カップルの男性の方が、グッズのタオルを落とす。気づかず、談笑しながら歩いていくから、「タオル落としましたよ」といったわたしの声は太く、いかにも中年の女の声だった。
ようやく落ち合い、感動を共有し帰宅。形に残らない愛しい時間だったねと、寒空を歩く。
天、駆ける自転車を発見したため、撮影。
土曜の夜が終わる。それにしても、わたしは今日も阿呆だな。
https://youtu.be/jXJXF2SOXbA?feature=shared
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