スープとコーヒーとソフトクリーム

昨夜の日記の続きを、びっくりドンキーで投稿している。そして、今日の分。とにかく、考えている情景がすべて言葉に変換されていく感覚。どうしたものか。

 ポメラQRコードを、スマホで読みとって、そこからノートに投稿するようにしている。今のところ、これが一番効率的。たまに誤変換あるけど、まあまあ読み返せば大丈夫。
家のPCは十年ちかくたっていて、キーボードが壊れて、特定の文字が入力できない。変換方法とかで、工夫してみたけどだめ、で外付けのをくっつけて使用しているから、大荷物になるだろう。うちの近所には、執筆できるようなカフェとかなくて、そこが一番のネックなんだけど、家にいても最近は書けるようになった。特に自分に近しい人がいる自宅だと、気が散って書くことができなかった。でも、そうも言ってられない。だって、時間がないんだもん。いつかくの、眠らないで書くのはもうできないし、なにより頭のぼやけた状態だと、作品とか言うよりも、死んだら困るし。

 田中慎弥さんが、新潮新人賞の選評の最後の選評で言っていた「死なないこと」

 そうだよな。と激しく同意。激しく。
古典作品も読まないとと思って、ルけれど進まない!
生きる。
でも、それができない人もいるし、生きていくつらさは十分わかっている。他人が介入する、途端に、ままならない。

 自分の理想と、現実との、ステレオタイプで逃げてるみたいな言い方だけれど、「ギャップ」が、優しくだったり、激しくだったり、浮上するわたしの生活に圧力をかけてくる。

 生きているから小説を書きたいと思う。だから、わたしは長生きしたい。健康に生きていたい。自分の表現したものを、誰かに感じてもらえたらうれしいし、共感して、感激して、怒ったり、信じられないと唾棄されたり、とにかく反応がほしい。でも、この日記を公開することで、いつかそんな日がくるかもしれない。

 後悔はしたくない。慎重に言葉を探しながら書いている。わたしは、誰も傷つけたくない。と思っている。それを八方美人というのかしら。

 昨日の仕事中のことだった。

 わたしは、女性用のロッカールームに、業務上立ち入る機会が多々ある。退職した社員の、ロッカーを点検したり、清掃したり。といった業務なのだが、同じ業務を共有している男性職員が発した一言に、なんだか怒りや悲しさや、やりきれなさを覚えたのだ。とっさに、わたしは笑ったのだ。否定することもできず、相手を軽蔑することもできず、帰宅しても心の中で考え続けていた。

 その発言とは、

「女性用のロッカーに、僕がLGBTのふりして心は女なんですーって言って入ってもいいんですけどね~」彼は、同じく業務上男性のロッカーを点検したりする。女性のはわたしが引き受けることになっている。 

(彼はわたしの業務が多忙そうに見えたのだろうか。けして、悪意がなく、彼の普段のユーモアに救われる事がなんどかあった。だけど、残念という気持ちが強かった)

(わたしだって、当事者でなくとも、傷つきたくないのだ。部外者が傷つくなんて、おもいもよらないのだろうか)(めんどくさい世の中で、めんどくさい人間なのか。わたしは批判されるべき言動はないのか)等考える。

 わたしは、「はは」と嘘笑いをしたのだ。残念に思う。次ぎはどうしたらよいのか。

 わたしも、業務上必要があれば男性のロッカールームに入る。

 女性が男性のスペースに入る許可のハードルは低いのに、男性に関してはなぜか、世の常識としてあきらかにタブー視されている。見られても平気とか自分が考えているとか、そういう問題じゃないし、わたしは皮膚を露出することが嫌いなので、誰にも見られたくないのだけど。うまくいえない。覗き→キャーっという構図、見られても大丈夫な人もいるのも、そういう女性が、少数派だがいるだろうことも。
平等性にこだわりすぎ?多分そうだ。重要なことを見落としている可能性もあるし。

 たとえば男性の立ち便所は、まるだしなのに、女性は個室で、男性も個室で用をたすこともできる。見られたくない人も、いるのではないだろうか。だからといって、いつも個室に入るのは、腹の弱い人=軟弱、とラベリングされる懸念もあるだろ。現に、ほぼ個室になだれ込む人は、うんこばっかりする人と揶揄の対象とされがちで、排泄や性に関して、嘲笑の外に、ステージを設置したいな。そう思うのは、わたしだけ? 自分はどうあるべきか、何を発するべきか。ときどき、先日の、『葉っぱです』みたいなことになりがちで…

 男性が、男性的な考えを形成する過程には、この立ち便器が影響しているのではないだろうか、と考えたことがあるのだ。幼い頃から、普段隠されているものの取り扱いを、日常と地続きのところで行う。完全に見えないようにしてしまえば、配慮されるべき人にも、安心感を与えるのでは。

 わたしの考えは、他人を慮る善意の押し売り、自己ピーアールの一環のつもりなのだろうか。今度書こうと思っている、夜回り活動のボランティアについても、同じような気持ちになった。いったいだれの為にやっているのか。なぜ参加するのか。助ける、助けられるの関係とは。

 深く考えるとまた、脱線するから、軌道修正。

 立ち便器で用をたしているのを見たことはもちろんないのだが、あったら、それは犯罪であるから、わたし、罪は、おそらく、犯したことはなかった、罪は。生まれながらに罪の子と、小さい頃から教えられてきたけれど。

 他人からの見え方・自分のあり方、体に対する意識が、便所の、解放された空間、衝立、隠された箇所と、守られた箇所、簡易的に排泄するためのジッパー(といえば、ブチャラティー) パーソナルスペース、水着ゾーン、性犯罪、とにかくいろいろな事に、いちいち立ち止まってしまう。もし、信号なら、三回くらい見送ってしまうかもしれない。はよ、わたれよ。と、肩をたたかれるかも。

 いや、興味のないことに関しては。我先に、黄色のうちに走り出すこともあるけれど。

 考えること、書くこと、生きること、悩み続けること、目の奥に光をともす旅。人生は果てしないなあ。

 日記と言えば、本日は、家族をひとり送り出してから、洗濯・朝食をひとりで。植本一子の「台風一過」するする他人のリアルに触れる。あってみたいなー。植本さん。いつか写真を撮ってもらいたい。豆腐とか納豆とかのレベルを落とさない、お金持になりたいな。

 明日は借りてきた本が、図書館へ帰る日。寂しい。延長は一回きりだから、佐藤泰志とも、またお別れとなる。また、すぐに会います。どんどん、引用して、考えを綴っていこうと思う。そういう噛み砕くような読書のやりかたをこれからやりたい。

 そして、Twitter見てだらついていたら、家族がひとり起床する。

 昨日の残りで、坦々うどんを出してあげる。辛い、辛いといって、食べきり、わたしは食器を洗う。三羽の鳥たちの世話を最低限して、暗い晴れ方をしている空の下、自転車にまたがる。

そろそろ家族の一人が帰宅する。昼ご飯を、作りに帰るとするか。ほんとうは、行きつけのリサイクルショップをのぞきたかったんだけど、書く事を優先した。

 文章に関して逃げ腰だったのが、嘘みたいに書ける。もう、一生書いていたい。

 となりの席の、生後一ヶ月くらいの赤子を布でくるんだ、家族。母親の両親も先に生まれた姉妹の方は、たぶんイヤイヤ期。ぶーちゃんのモグモグランチを前に「いやー」っと叫ぶ。手づかみで食べたかったようだ。

 聖家族。待ち時間に、とんとんとんとん髭じいさん、をやっている。両親が積極的に子供をなだめている。祖母もやさしそうで、祖父は、赤子を宝物のように抱いている。いとおしい。

わたしは、ソフトクリームとコーヒーとコーンスープを頼み、会計を900円であげる。散財? 自分の時間を、無為にではなく消費しようと思う。そうでなければ、生きられないから。必要な消費と忍耐で九月をのりきろう! 

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