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すばる文学賞・文藝賞・映画『月』に、まとわりつく、週末の

しばらく日記を書くのも、控えようと何度も思っていたけれど、やはり、日々の感情のいきさつを自分でつづらなければ、申し訳が立たない気さえしてくる。

それほどに、あふれて止まらないものなどあるのだろうか。
 
 金曜日、美容室に行くことにしていた。
仕事の帰りに、いつもとは反対方向の地下鉄へ。

 金欠で行けなかった、いつもの美容師さんのところに行こうと予約をしていた。金欠が解消されたわけではないので、この金欠なのに、やたらと値のはる美容室に、髪形でどうこうなるような、顔型でもないのに、そこに行くのはむしろ、その美容師さんがかわいくって、年下だけどおきゃんな感じと、人柄が素敵なひとだから、これがホストとかなら『担』というのだろうから、そういう言葉遣いから普段のわたしなら離れているのに、なぜといわれると、すべてハンチバックのおかげ。釈迦でありBuddhaであるなら、わたしの引用を許してくれるだろうな。
 わたしは、美容師さんに貢いでいるという気持ちにさせられる。だってわたしのチンケな髪形顔型目型女型体型に、けっこうな、我が家で言ったらの話、外食費いってんご金額分の、ケチいな「金」をし払うなんて酔狂、しかしホットペッパーで予約してしまったからあともどりできなかったのだ。 

 ここで、僥倖かな。
 作為おおいに、大型の書店に立ち寄ると、すばる・文藝・新潮などの文芸誌が勢ぞろいしていたのだった。実はそれを目当てに、予約時間の前に立ち読みでもして、新人賞の選評とか確認しようと考えていたのであった。

気を、しっかり保ちながら、すばる、文藝、の二冊を抱え、レジへ。買うつもりなどなかったのに。
 おなかがすいていたけど、どうにもこうにも、買い食いする時間も金もなんにもなかったため、ゲームセンターの前にある駄菓子で、うまいぼう牛タン味の三十本いりを買って、美容室の前に一本だけく・わ・え・て・た・べ・た。あ・る・き・な・が・ら・。
これは、伏線。

 久々にあった美容師さんは、いつもどおり、とても可愛らしい感じで、楽しく話して、お互いが新しく始めたことなど話して盛り上がる。
 わたしが、金欠なのに本を二冊も買って、うまいぼうも買ってしまったことを話したら、「なんの本ですか」と聞かれて、文芸誌の事を話した。
 新人賞関連を追っていて、買うようにしているんですよね、といった。

 その美容師さんも読書すると前情報で仕入れていたので、最近本を読んでいるか聞いたところ、「人間に手足が生えて、ゴキブリみたいになるやつ」タイトルはわかんなくて、ああそれ
はこれか?

『人間に向いてない』 黒澤いづみ|講談社文芸第三出版部|講談社BOOK倶楽部 (kodansha-novels.jp)
かなって、勝手に思ったんだけど、違うかもしれない。そもそもわたしは、読んでいないのだ。

軽くなった髪形で、髪もお金もなくなって、金曜の更けていく夜を通り過ごしながら急いで帰宅する。
 すばる文学賞の、大田ステファニー勧人さんのインタビューに感動する。
 
 小説は肉体から生まれる。

まったく、あたりまえのことを書いていて、自分でも、大げさかなとも少しだけ思うけど、肉体からしか小説は生まれない。

 彼のインタビューを読んで感じたことだった。
 まだ、小説自体は少ししか読み進めていないのだ。でも、この人の言葉を信じたいなと、思える作家が増えたことに喜びを感じずにいられない。

感動がいくつもあって、わたしの金曜はいそがしいまま、自宅で宅配を冷蔵庫にしまって、すぐにでかけた。うまい棒は、地下鉄の駅をおりてから、立ち食いしたので、もう十本くらい減っていた。すぐに家族を迎えに、家をでた。

 

翌日、朝から外出。
地下鉄と市電に乗らなければたどりつけない場所に用事ができてしまって、家族とふたりで外出。
 おおげさな、手ぶりをする男性が真向かいに座る。
 ああ、病気の方だろうか?と思ってみると、膝の上にスマホが置かれて、それを見ながら、イメージトレーニングしていた。手話の。
 これから、この人は誰と話すんだろう。誰とコミュニケーションするんだろう。と、それぞれの日曜日に思いをはせた。
 今考えると、これは予兆であったのだ。

 秋だから、晴れているだけなのに、秋晴れと表現される秋晴れ。空気はあたたかく、空が嫌味なく澄んでいる。夏晴れとも、冬晴れとも言わないのになんで。どうして。秋だけ特別なん。なあぜ。秋は、特別な季節なのやっぱしね、わたしはそうだよ。
 三社に就職したけど、すべて秋。
 

 出かけた先での用事は、10分以内に終わった、ちょんの間かよ。と思うくらいだけどわたしは行ったことがないし、適当なことをいったって、誰にも自慢なんてするつもりないんだから炎上しないのだ。
 
 ツイッターにもびっくりしてしまい、写真をUPしてしまったけれど、あれは、もしかすると誰かを傷つける写真だったのかもTENGA、金網のゴミ箱のなかに、たった一本で捨てられていた複数なら、業者の可能性だったけど、一本なら孤独、天狗じゃないよ、TENGAだよ、なんでも群れたらいいってもんじゃないけど、一本でも二本でも、TENGAって、ニンジンなら歌えるのにと今思いつく。
 誰かがもう著作の権利をえていたら、どうしよ。

 生で、捨てるのって、いったいどういう場面でなんだろう。外で使って捨てていたら、と思うと、その人の孤独がわたしにまでまとわりつくから、自分の家から離れた地域に行くと、いちいち、部屋の扉の色とか、古いアパートの基礎だけ残って、基礎に蔓延るツタ、なんのやつかわからない、時たま蔦中の家があるけれど、住人は見たことがないけど、確かな生活感とか、解体途中の、じらされてる姿とか、後ろの山の見事な紅葉とか、写真をとらさる解放感とか、すべてが真に迫ってきて、空気を、吸って/吐いて、繰り返している人間の感覚が強い一日の始まり。

 家族とまた、市電に乗り込んで、わたしは座席で、「みどりいせき」を読み始め、家族は「夜桜さんちの大作戦」をたぶん何回も読んでいる。
 野球のルールは知らないんだ。

 用事が終わり次第、円山動物園に行く予定で、大通り駅で乗りかえのため西四丁目で下車する。
 朝マックで、マフィンのセットを注文して食べる。朝マックを食べるのは、家族ははじめてだから、「おいしいしょー。お母さん、昼マックより、朝マックの方が好きなんだ」と自分で調理もしていないのに、まるでこれじゃあ、恫喝だよ。
 円山へ向かう地下鉄の中で、杉田智和氏にそっくりな男性を発見して、家族と興奮する。

 家族は、あんまり似てないと思っていたそうだが、わたしは八割くらい本人に似ていると判断していたので、杉田智和が地下鉄にのっていたら、と想像すると、ああ、可哀想に!!っていわれたいけど、わたしは、うさお君がすきなので、『~~○○ぴょーん!』って言ってほしいな。
 それか、中村悠一氏と、何でもいいから会話しているのをずっと見ていたいなと思ったりする。あんまり、アジルスチャンネルとか、わしやがなとか見ちゃうと、おえなすぎて配信なんか手を出したら、離れすぎて辛くなるから、もう見ないようにしているのに、アニメとか声優界隈はやはり自分にとって、欠かせない一員なのだな、とツウカン。
※ 杉田氏似の男性は、その後円山動物園の、レッサーパンダかどこかの舎で、ふたたび見かけることになった。女性を伴っていた。

 動物園は、とてもたくさんの動物がいました。みたことのない動物や、見たことのある動物や、たしゅ、たよう、人間なんかとは比べ物にならんほど、大きかったり、ちいさかったり、生殖? 聖職者のようで、蔦のように自然と蔓延ったりしない、だって、管理下だから。
 歯が鋭かったりするものも、たくさんいましたが、生身では触れませんでしたので、ガラス(ぶ厚い)ごしか、檻や金網の向こうから、相手の動きをみているしかなかったのです。 
 その分厚いガラスが、「もしもし、これが割れたらどうする? 例えば、百均で買ったガラスのコップをもう三つも四つも、ひと月の内に買ったばかりで、お母さん不注意で割ったでしょ。あれくらいの脆さならどうする?」とわたしが言ったら、「お母さん、それは亀裂がはいったらすぐに割れて、例えば割れたら、ねえねえ、あっちの方に逃げようよ」と、入ってきた方向を家族は指さしました。水死するのは、怖いな。

ひぐまの飼育舎の外壁に、山葡萄のツタがはっていたので、たどってみると、実がたくさんなっていました。それをつまんで、わたしは家族と一粒ずつたべました。とても酸味。とても懐かしみ。皮をそうっと、草わらに捨てる。
 山葡萄でむかし、ジュースや、ジャムをつくったのです。定山渓のダムの近くに毎年、親友だった女性と採取に行ったものです。今思えば、恐ろしい崖だし、スズメバチだし、ダムの放水もわからないくらいはしゃいでいた。mmm。ammm……
 鼻の穴に、ぶどうを詰めて、飛ばして笑いあったこともあります。

 動物園に小象が生まれたため、大行列になっていたため、小象はみられなかった。
 ニュースで取り上げられているので、道民にはおなじみ。
 小象の名前を募集していて、わたしは、母がパールだから、子供は絶対に宝石の名前で、ルビーがいいなと思ったんだけど、安直だから、るびい、とすればちょっとコケティッシュでいいかなと思ったんだけど、るびい、だと、しりとりで、る、で詰まったとき、ルビーとかってよく使うけど、宝石なんて見たことないのに、しりとりをしていた昔なんかよく使っていた。今では、坩堝とかの難しい言葉など、ルナルナ、とかアプリの名前などなど、もうずいぶん前から、知っていたし。
 だから、『びいる』にしようと思って、投票のQRコード読み取って、開いたらもう、候補は、何個か決まっていてその中から選ぶ式だった。どんな式。

 ひととおり見たため、動物に無言の別れを告げて、まっすぐに伸びる杉の木の間を抜け、地下鉄駅へ。

 いったん、家族とわかれ.わかれになる。

今日は札幌で、映画『月』の公開日。
公開日に映画を見に行くのは、はじめてだった。

 唐突なのだが、わたしの書いている小説には、障害を持っている人が描かれているのだ。
 小説の着想を得たのは、相模原で起きた惨劇のこともあるのだけど、その前から、職場が病院だということ、障害のあるかたが入院している光景を、日常でみていたこと、話すこともあったし、手を握り合ったりする人も一人だけいるのだ。
 ほかにも需要な理由があったのだが、ここには書けないので、割愛する。
 この書く理由については、小説の中で描いていく覚悟がある、と今のわたしは断言したい。
 
映画を見て思ったことだけど。

 ぼんやり着想をえてから、しばらく小説を書かずに、調べたり悩んだり、日常に追われることの方が多くなっていた。
 それでも、小説に食らいつきたい、という一心で、小説にまつわる事件の事を思い出すたびに、調べることはやめられずにいた。

 ある日、辺見庸という作家が、相模原の事件の事を小説に書いているということを知った。

 なぜそこに行き当たったかと、今になって考えると、同じテーマで書いている人が存在するのか、単純に調べたかっただけかもしれない。いないだろう。
 わたしが、最初に書いてやる、なによりテーマが斬新だな、なんて、その時には深刻だったのに、今思うと恥ずかしいくらい軽率に思っていた。そ れほど、無知なわたしは、世間知らずだったのだ。世間知らずと、軽く片付けるのではない。

 本質に迫ろうとせず、小説家になれるなれると、たかをくくっていた。傲慢だった。しかし、あの時の自分がいなければ、今に至らないのだ。つべこべいわずに、本題にはいらなければ。

 辺見庸の原作である小説『月』は読まずに、映画館へ向かう。

 シアターキノには、前回、中村哲の映画、
劇場版『荒野に希望の灯をともす』 (ndn-news.co.jp)

を見に来たのが最後だ。家族と二人、帰路で幸せについて、いろいろ話したという淡い記憶があった。

 暗澹なスクリーンに映し出される、静かな日常。

 映画について、語ることなどわたしには到底できないような気がする。

 例えば他人の小説について、現在語る訓練段階であり、わたしは、わたしの舌を飼いならしている最中だ。
 
 それは、もっともらしいきれいな表現を探すためではなく、その、もっともらしいきれいな表現を使わず、ありのままの自分の内から湧き上がる嘘のない言葉(わたしの自身の言葉で語るならそれは、「誠実さ」といえよう)で語るため、飼育下に置かなければという気持ち。
 自分の無知や教養のなさをさらけ出しても、語るべきと思う。 
 
 いままで、数々の映画をスクリーンじゃなくとも見てきて、その感想をネットや書籍などから得ることがあった。
 語る人の中に愛情(愛憎)が強いほど、語られるそれは、熱を帯び、生きているのか死んでいるのか、作品はそのどちらにも語られるけれど、読み手の胸にすうっと忍び込んでくるかと思う。

 だから、この映画に関して、愛情ゆえの饒舌さの衝動をなんとか抑えて、ただ自分が感じたことを書こうと思う。あまりに拙い。

 ここから、作品の内容に触れるかもしれない、と断っておいた方がよいのだろうか?

 そうであれば、そうだ。
 でも、指先で触れる程度だ。
 これは、感想と呼べるのだろうか。おぼつかない。

https://www.cinematoday.jp/news/N0138998/video



主人公の宮沢りえが演じるのは、かつて小説で名声を得た経験のあった、洋子という女性。
 まずわたしは、ここに強い共感と驚きを隠せなかった。小説家?


 わたしが、この映画に救いを見出した点は、圧倒的な闇のシーンだ。それは、字義通りの闇。暗さ。夜のシーンが多用されていることだった。

 これが、昼間なら。本当に救いは見いだせないだろう。
 その暗さが、緩衝材になっている、とわたしは思ったのだ。

 戦争や空爆や、悲惨なニュースをテレビや動画で見るときに、今惨劇下におかれている人たちの昼間と、わたしが昼寝したり、食べたりしている昼間との乖離を意識せずにいられない。
 
 でも、どうしろというのだ。

 人間。生命。尊さ。尊厳。愛情。家族のように弱者に接しましょう。人間らしく。人として。がんばっている!障害を持つ人が!。活躍する障害を持った人。どんな人にも命がある。

 現実と、理想がちがう。世間で言われていることだし、自分でもそう認識する場面を山ほど経験してきている。
 
 二階堂ふみが演じる、もう一人の陽子が、言う。

『知ってる? 施設は森の中にあるの。隠されてるの。本当は誰も現実をみたくないからでしょ』
 
 改めて、当事者が語ることと、部外者が語ることについて、自分なりに考えてみる。
 現場でなければ、わからない空気や、当事者に対峙する介護者が抱える思いも、人が違えば全く違ってくるものになるだろう。
 
 重複するが、わたしを含め多くの人は、理想だけでは生きていけないことを知っているだろう。
だから、虐待や、暴力や、戦争がある。

 もっと、わたしが幼かったら。
 わたしは、この世の中の支配者は悪魔だと教えられてきたから、すべてを悪魔のせいにしたかもしれない。そして、神の王国の成就を願い、食事の時も、眠るときも、神様に祈りをささげていたかもしれない。
 神はいるのだろう。
 創造主であろう神は、眠っているかもしれない。
 
 うたた寝をしているかもしれない。
 
 神を信じながら生きることを、あきらめた今、自分に与えられている命の限りを誠実に生きていこうと願ったとき、現実とわたしなりに向き合って生きていく生き方を選びたい、そう思ったのだ。

 映画を見終えて、自分に様々な課題がつきつけられた。
 
 一言でいえば、書くことの覚悟。どうやって、生きるかの覚悟。
できるか、できないかわからないけれど、わたしの小説は、全身全霊で書かなければならない。
 
 今までも、そうやって書いてきたつもりだけど、もっと杭を深く深く、穿たなければならない。生き方も。

 これが、映画『月』を見て体験したことの、おおよそだった。


 映画館をふらふらしながら出た。
 涙ぐんでいたわたしは、放心状態で、狸小路を歩いた。

 観光客や、土曜の夜の賑わいの、膜の中を歩く。
 空は見えなかった。

家族との待ち合わせ場所に向かう。
 BOOKOFFのフィギアのコーナーで、五条先生かナナミンのキーホルダーでも買おうかなと思った。
 強い人がそばにいてほしかったのだ。(人?)
 お金がないので、我慢。映画の時の飲み物も我慢したのに。
 
「お母さん!」

そう呼ばれて、疲れた顔で家族が笑っている。
映画が二時間半もあったのだから、その間アニメ関連の店舗を回っていたにしても、立ちっぱなしは疲れただろう。
 
映画の感想は聞かれなかったし、答えられないだろうと思って、「映画がすごすぎて、今すぐ原作の小説を買わなければ」とだけ言って、ジュンク堂へ。

すぐに検索機で探す。文庫があったな絶対文庫だ、なぜなら……

で、会計へ。 
 家族に小遣いでわたしていた千円を、なにも飲まず食わず買わずに使っていなかったので、それを使った。
「お母さんよかったね、千円って高いもんね。自分が使わなくてよかったでしょ」の意を告げられ、「ごめんね」とわたしはなぜか謝った。

 おなかがすいた家族のために、ローソンで肉まんをひとつ買う。
 ローファーをはいてきたため、足の裏がもう限界で、一刻も早くかえりたかった。

 家族の話を空返事しながら、ベンチに座って肉まんを食べる間、「月」辺見庸のページをめくる。

 これを読んだらあまりの凄さに、自分の小説を書けなくなるかもしれない。

と思った。どうしよう、読むのをやめようかな。とも。
でも、地下鉄待ちの時間、また開いてしまう。座席に座ってからも、開いてしまう。読むのを止められなかった。
 きーちゃん。きーちゃん。

 わたしの小説の主人公の名前が霧子だからまるで、誰かに呼びかけられているようだった。

 どうしてこうも、繋がりあっているのだろうか。
 まるで、一本の……

 最寄りの駅について、疲労もあったり、家族が立ち歩きで飲み物を飲んだり、靴ひもを何度も結びなおしたりするので、なんだかイラついて、スーパーで少し強い口調で言ってしまって後悔。そのあと、無理して明るくつくろった。

 わたしが咥えた、うまい棒は、内緒。数も内緒。 


 暖かさのせいなのか、空がかすんでいる。
 不思議だね、どうしてだろ? と、コーヒー牛乳とカツゲンと、スパゲッティの袋を持った家族と、話しながら帰宅。

  まだ、心は、夜のまま映画の中のままだった。
 
 帰宅して、たらこのパスタと、サラダを作る。
 
 缶詰になってテストの勉強をしていた家族と動物園のことや、一日のいろいろを話す。
 
 息抜きに、散歩に行こうと夕食後連れだって出かける。

 近所の公園に、テントが張ってある。こんなところに?という場所で、近くに行ってみると、外国の男性がひとり、もう一人の女性がひとり。

 思い切って、こんばんわ、と話しかけてみる。

 男性は日本を自転車で旅行中で、なぜか札幌のこんな場所に来てテントで宿泊している人だった。

 女性はというと、流ちょうな英語で、男性と話している。

 「お友達ですか?」
と尋ねると、今朝知り合ったばかりだという。
 その女性は、ニューヨークに住んでいて、仕事で日本に来ているらしい。
 
 そんな偶然ってあるの? 
 
 テントの中を見せてもらったり、家族も英語で少し話したり、わたしは日本の言葉で話したり、知っている単語で話したり、とにかく、不思議な夜。ブランコをこぐ。裸足になると、足が冷たくなるよ、と勧めもあって、裸足でブランコをこぐ。

 月は出ていなかった。

 外に出ると、食後の眠気もなんとか吹き飛んでいったので、家族の勉強の進捗解説を聞きながら、映画の事をたくさん考えていた。

 小説、「月」。
巻末の、映画「月」の監督である、石井裕也氏の解説を読む。

どうしても、昨日のうちに、わたしの一日を記したいという願望があったため、文章をつくってたけど、食器を放置していたため、もう最後の体力を振り絞り、台所へ。  

 脂ぎった皿を洗う。
 映画でも、宮沢りえと、オダギリジョーの夫婦が、ならんで食器洗いをしていたな、と思い出す。
 わたしは、ひとりで、小説を書いてやると思いながら、皿を洗う。

 百円で買った、ガラスのコップをまた、蛇口の銀色にぶつけ誤って割ってしまう。
 グラフのようにとがった山型に割れたガラスのコップを、もう飲み終えた一ℓのコーヒー牛乳のパックの中にうつす。 

 眠い眠いと、へろへろしながら、食器をなんとか片づけて、歯磨き洗顔だけしようと、洗面所へ。

 最近、立てかけている歯ブラシに、歯磨き粉をつけておくというイタズラをやっている家族がいて(どちらか不明)その話で、結構遅い時間に、げらげら三人で笑いあう。

 メイク落としで真っ白になった顔で、舞妓さんの真似をして、しらないのに、どすえ、どすえ、おおきに、と滅茶苦茶いうて、また笑った。

 眠る前に、また、月を開く。

 小説を書く決意だけして、本を閉じた。



 本当に、こんなに、長いこと書いてどうするのって感じよね。

 今朝は、五時半に起床。朝日をみる。
 外にコーヒーを買いに出かける。


 もう、覚悟はできた。
 あとは、書くのみ。
 成功するか、しないか。書くのみ。

 もう、決めたものだけと向き合うことにする。

○ 幸福人フーを読んで、感想を書く。
○ 万条由衣さんの「この世の喜びよ」への言及に関して、感じたことを書く。
○ すばる新人文学賞「みどりいせき」大田ステファニー勧人さんの小説を読む。わたしなりに、感じてみる。
○小説「月」を読みきる。

 あとは、なんだっけ。
 誠実に生きるんだった。こんなに書くなら小説も書けるよね。本当に頑張らなければ。

 だから、朝方生活に切り替えて、健康に生きる。時々するスナック菓子欲を控えめに。健康で小説が書きたいから、運動を取り入れる。

 くわえない


 ひとつ思いだしたことが、あった。

映画「月」で、さとくんが振り上げる銀色の鎌は、月の形をしているのだ。

血しぶきを引き取った、金属製の月。

 これからも、わたしは、何度も空を見上げるだろうか。

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