見出し画像

目玉焼きにはソースをかけて

 夏の蒸し暑さが肩にのしかかる夕暮れ。都会の喧騒に蝉の慟哭すら溶けてしまいそうだ。この時期になるといつも思い出す。今でもついこの間のように感じるが、あれからもう三年の月日が流れている。年を取るにつれ時の流れとは早く感じるものだ。

 当時の私は東京で学生をしていた。あの時ほど自分自身と向き合った時間はなかったと思う。そうした時間を一人の女の子と過ごした。長い睫毛の下にすっと通った鼻筋をした端正な顔立ちの女の子だった。

 恋人でも友達でもない奇妙な関係を保ったまま、一年ほどの時間を彼女とひとつ屋根の下で過ごした。

 大学に通い始めた僕は周囲に溶け込めずにいた。昔から愛想よく振舞うことは苦手だったが、まさか友達の一人すらできないとは思っていなかった。唯一できた話せる知人も僕とは話題が合わないと告げ、離れていった。ただ大学とは存外一人でも過ごしやすい環境が整えられている。それはせめてもの救いだった。
 大学と家とバイト先の三点を行き来するだけの日々を過ごしていた。そのバイト先で彼女は働いていた。彼女の印象はまさに自由奔放、それに尽きた。これはずっと変わることはない。人の話を聞かない上に無神経な発言を繰り返す。今日もバイト中にミスをして、店長に叱られていた。
 バイトを終えた僕はさっさと帰りの仕度をし、ヘッドフォンを装着する。先ほどまで聞こえていた店の中の喧騒が静寂へと変わる。「J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 第24番」。歩きの帰り道は趣味のクラシックを聴く。穏やかな曲調に一日の終わりを感じさせられる。しかしその私の平穏はすぐに奪われた。店を出ようとしたそのとき、店内の喧騒が再び聞こえ始めた。振り向けば僕のヘッドフォンを手にした彼女が立っていた。そして彼女は開口一番
「私をしばらくあなたの家に泊めさせてほしいの。」と告げた。
「店長に睨まれてるよ。」
「少し睨ませているくらいが丁度いいのよ。」という意味不明な返事を無視しながら事情を聞いた。
「家庭の問題ってやつよ。家に居づらいの。私こんな性格だから泊めてくれそうな同性の友達もいないの。今はネカフェに泊まったりしてるけど、そんな生活いつまでも続けられないでしょ。」
「それで一番無害そうな僕に頼んだと?」
「君、誰に対してもそんな口調なの?」
「どうだっていいだろ。」
それから数分後、とりあえず毎月三万円貰うことで合意した。

 彼女のバイトが終わるのを待ってから一緒に家まで歩いた。彼女の荷物は本当に最小限のものしか無かった。家につくまでお互い一言も交わすことはなく歩き続けた。彼女は家に入るなり
「思ったより奇麗にしてるのね。」と。彼女の失礼な一言から二人の奇妙な共同生活は始まった。

 彼女の生活ぶりは正直目に余るものがあった。家事は一切しない。掃除もしない。片付けもしない。家にいるときは僕のベッドに横たわり僕が愛用しているタブレットで邦ロックを聴く。日に日に散らかっていく部屋をなんとか片付けるのが僕の日課だった。夜中まで飲み歩き、夜明けと共に帰宅することも少なくなかった。ナンパがしつこいから迎えに来いと夜中に駆り出されたこともあった。
「美人なのも難儀なものだな。」
「美人の人生っていうのはドラマチックなものなのだよ。」
どうやら僕の皮肉は彼女には効かないらしい。

 一切家事をしない彼女だったが、朝方に酔っぱらって帰ってきたときだけは毎度朝食を作ってくれた。ご飯と、コーヒーと、目玉焼きと、味噌汁の質素だが温もりのある朝食だった。僕が
「朝はパン派だ。」
と言えば、
「日本人だろ。米を食え。」と𠮟られ、僕がコーヒーに砂糖を入れようとすれば
「コーヒーに砂糖は入れるな。私の好きなこのエルサルバドル産のコーヒー豆の香りを味わえ。」
と長々と語り始め、僕が目玉焼きにはソース派だと言えば
「目玉焼きには醤油だろ。」
と、勝手に僕の目玉焼きに醤油をかけた。彼女のこだわりの強さには時々辟易とさせられた。
 それでも、彼女は決まって最後に
「君との朝食は誰と食べる時よりも美味しいような気がするよ。」と呟いた。
 ただ素直にできるだけ長く、あわよくば永遠にこの時間が続けばいいと本気で思った。抱き始めていた淡い恋心には蓋をして。

 そんな生活を続けて一年ほどが経ったある日の夜。彼女は唐突に自身の過去について語り始めた。
両親がよく朝ごはんに目玉焼きを作ってくれたこと。
5歳の頃、両親が事故で他界したこと。
両親の命日が今日であること。
すぐに親戚の家に引き取られたこと。
その家には生まれたばかりの女の子がいたこと。
共働きの義両親の代わりに、その子にいつも朝ごはんを作ってあげていたこと。
その子はいつも目玉焼きには醤油をかけていたこと。
その子が大学に進学し、一人暮らしを始めたタイミングで自分も家に居づらくなり家を出たこと。
「思い出を自分の好みにすり替えているだけだなんて言わないでね。君は平気でそんなことを言いそうだから。私は私が思う自分らしさを大切にして生きているし、これからもそれを変えるつもりはないから。」
「言わないよ。」
「君は本当に優しいね。」
「それは気のせいだよ。」
「そういうことにしておいてあげる。」
「でも、本当に行く宛てがないのなら」
ずっとここに居ればいい。言いかけてやめた僕に彼女は
「ほら。やっぱり優しいじゃないか。」
と笑った。

 それからほんの数日後のある日、彼女は荷物をまとめて僕の家を出ていった。あの日僕のヘッドフォンを後ろから外した時のように突然さよならと告げて。僕には止めることも、密かに抱く思いを伝えることもできなかった。彼女が僕に、この生活に求めていたものはそんなものではないとわかっていたから。それにきっと彼女は僕の気持ちに気づいていたのだと思う。彼女は最後に
「君に会えてよかったよ。きっと夏が来る度に私は君のことを思い出すと思う。」
「僕も忘れないよ。」
 またねと笑う彼女の目に、寂しさが滲んで見えたのは暑い陽射しの底に揺れる陽炎のように現実感がなかった。最後まで本当に自分勝手で無神経な人だと思った。

 彼女との別れからもう三年が経った。
 あの日以来彼女の姿は見ていない。彼女はいつからかバイトもやめていた。
 けたたましい目覚ましの音で目を覚ます。今日は休日だが早起きができた。昔のことを夢に見ていた気がする。いい朝だ。こんな日はゆっくりと朝食でも作ろう。長年愛用しているタブレットでYoutubeのプレイリストを再生する。心地のいいクラシック音楽が流れ始める。クラシックを聴きながらコーヒーを淹れる。昨晩予約しておいたため、すでに炊き上がっているご飯を茶碗に盛り付ける。その上に目玉焼きを作って乗せる。一息ついて座椅子に座る。座椅子がある場所は彼女が布団を敷いていた場所だった。よくもまあこんな六畳半しかない部屋で二人で暮らしていたものだとつくづく思う。
  プレイリストの二曲目が終わった。三曲目に再生されたのは聞き覚えのある邦ロックだった。彼女の名残が今でも時折流れてくる。目の前のベッドに寝転がっていた彼女の姿を思い出す。

 今思えば彼女に抱いていた想いは恋と呼ぶほど淡いものでも愛と呼ぶほど濃いものでもなかったのだろう。ただ、彼女は救ってくれたのだ。周囲との軋轢に苦しんでいた僕を。その愛すべき奔放な性格で。
 一人きりの部屋で、僕は、炊き立てのご飯に乗せた目玉焼きに醤油をかけながら呟いた。
「本当に優しかったのは僕じゃない。君だ。そして本当に無神経なのは僕だった。」
 無糖のコーヒーはいつもと変わらず苦かった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?