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第四十四話 タチアオイ

もくじ 3,124 文字

 灰皿に煙草の灰を落としたとき、また電話が鳴った。今日は電話が多いな、と思いながら通路の口へ向かう。
「もしもし」
 煙草と灰皿で両手が塞がってしまい、受話器を肩と頬の間に挟む。すぐに、さっきと同じ声がした。
 弟に車貸しちゃってさ、と久寿彦は申し訳なさそうに言った。久寿彦の弟は清都市――このあたりの中核都市で、真一が働いていたホテルもある――の専門学校に通っている。普段はバスと電車を乗り継いで通学しているが、久寿彦に車を借りることもある。久寿彦は今朝も鍵を渡しておきながら、今まですっかり忘れていたという。
「だから、その――」
「わかったよ、俺が行けばいいんだろ」
 続く言葉を待たずに、真一は言った。
「す、すまん」
「いいって。でも、すぐには出られないぞ。やりかけの仕事があるから」
「どれぐらいかかる?」
「十分くらいかな」
 正直言って、絹さやの筋を剥くのに十分もかからないと思うが、せっかくの一服を中断されたので、もう一本吸い直したかった。
「わかった。じゃあ、待ってる」
 窓辺に戻って、ちびた煙草を口に運ぶ。すぐに灰皿ですり潰し、新しい煙草に火をつけた。
 指先に絡み付いた煙が目に留まって、指がヤニ臭くなってるな、と思ったが、作業に戻る前に手を洗うのが面倒くさかった。
 こんな気分一つにも、最近のルーズな自分が表れている。
 砂の城が風化するように、少しずつまともな生活が崩れていっているが、抗うことができていない。
 連休から約半月。常愛とこよ川の河川敷では、野バラやハリエンジュ (ニセアカシア) が開花し、満開を迎え、そして散っていった。
 違和感は、相変わらず消えない。
 それは、世界に対してだけでなく、自分自身に対しても感じた。
 過去の自分と現在の自分が、うまく重なり合わないと思うことがある。去年までの世界と今の世界が一致しないと感じたように。日常生活の中で、ふと蘇る過去の一場面。例えば、今みたいに窓辺で煙草を吸っていて、去年の今頃も同じようなことをしていたなと思い出す。だが、そのとき心に蘇った自分のイメージに、現在の自分自身が重ならない。微妙にずれていると感じてしまう。状況や、やっている行為自体は変わらないのに。
 以前はこんなことはなかった。過去の自分のイメージと現在の自分は、ぴったり一致していた。違和感など感じたことはない。
 だから、確かめようとする。
 消えかかったイメージを引っ張り戻して、もう一度想像する。過去の自分を。周りの景色や雰囲気、そのとき何を感じて、どんなことを思っていたかといったことまで含めて。できるだけ取りこぼしのないように。
 一種のイメージトレーニングのような行為。
 再現したイメージを、もう一度、現在の自分の上に引き寄せる。うまく重なり合うかどうか――。
 確かに、以前とよく似た感覚が戻ってくることはある。
 五月五日のあの日、常愛川の土手から見上げた空は、子供の頃に見た空と何一つ変わっていない気がした。抜けるような青さに、あの頃と同じ空の色だと思った。
 自分自身に対しても、同様に思うことはある。過去の自分と今の自分は、同一の自分で、昔と何も変わっていない、と。
 けれど、そう思えるのは、いつもいっときのこと。次の瞬間には、確信は手の中から滑り落ちている。あるべき世界も、自分自身のイメージも、跡形もなく霧散してしまう。それは、冬のさ中に小春日和が紛れ込むようなもの。あるいは、マッチの先の灯火ともしびが、束の間の幻を生み出すようなものだ。気づくと、いつもの世界に戻っている。いつもと同じ自分を発見して、ため息をつく。
 作業は思ったより早く終了した。ビニール袋に詰め直した絹さやを冷蔵庫にしまい、テレビボードの上から財布と鍵束を拾って部屋を出た。
 屋根付きの駐輪場の隣では、タチアオイが咲き始めていた。まだ背丈が低く、花の数も少ないが、赤、白、ピンク、と各色出揃って、殺風景だった一角がにわかに華やいだ。アオイ科の花は、どれも大きく色鮮やかで夏らしい。ムクゲ、フヨウ、オクラ、ハイビスカスなども然り。公園下のレストランで、葵という女の子が働いていたが、やっぱり夏生まれだった。ただ、本人が言うには、人名の葵は、キク科の向日葵ひまわりに由来する場合も多いのだとか。
 駐輪場からスクーターを引っ張り出しながら、今日、久寿彦はどうして電話してきたのだろう、と思った。岡崎や松浦なども呼んで、久しぶりに飲もうということではなさそうだ。そういう話なら、一人でアパートに来ようとはしないだろう。
 だが、ヘルメットをかぶって、大した理由はないか、と結論づけた。休みの日、久寿彦は、店の仲間とどこかに出かけることが多い。今日は午前中いっぱい雨が降っていたから、予定が流れて退屈していたのだろう。

 タイル張りの歩道をつかつかと歩いて、電話ボックスの扉を乱暴に引き開けた。電話機から受話器をつかみ上げると、カード挿入口にテレホンカードを挿し込んで、市外局番を省いた自宅の番号をプッシュする。久寿彦の携帯の番号は控えてあるが、財布からメモを取り出すのは面倒くさい。家にいることはわかっているのだ。
「はい、筒川です」
 数回の呼び出し音のあと、本人が電話に出た。能天気な声にイラッとし、真一はわざとらしく咳払いする。
「はい、じゃねえよ。お前んちに行く道、工事中じゃねえか」
 久寿彦の家は、蓬莱公園の近く。行くには、公園の駐車場に入る道の一本手前で左折するのだが、その道に入った途端、赤い棒を持った警備員に停止を求められた。道端には、工事中の看板。目の前のアスファルトは剥がされ、むき出しの地面に、コーヒー色の大きな水たまりが、いくつも出来上がっていた。
 工事中なら、一言言ってほしかった。久寿彦には、こういうところがある。大事なことをうっかり忘れたり、肝心なところで気が利かなかったりするのだ。今日は、弟に車を貸したことを忘れた。公園下のレストランで一緒に働いていたときは、客の予約を直前まで忘れていて、周囲をヒヤヒヤさせたこともある――おっちょこちょいなのだ、ようするに。
「悪い悪い、うっかりしてた」
 言葉ほどには悪いと思っていない声――まあ、これだけの情報なら、そういう反応は仕方ない。
「で、今どこ?」
「時計塔広場の電話ボックス」
「は? 何でそんなとこにいるの。俺んちに来るなら逆だろ」
 言うと思った。
「べつに今から行ってやってもいいぞ」
 真一は、わざと明るい声色を作る。
「うん、そうすれば?」
「ずぶ濡れだけどな」
「は?」
 言われるまでもなく、真一も引き返そうとしたのだ。来た道を戻って、最初の信号を右に曲がれば、やや複雑な経路を辿ることになるが、久寿彦の家に行くことができる。ただ、目の前の道も、よく見ると、水たまりの脇にバイク一台くらいなら何とか通れそうな隙間があった。どうしようかと迷っている間に、警備員が進めの合図を出し、反射的に発進した。だが、水たまりを避けようとして、路肩に寄ったところで、後続車が追い越しをかけてきた。道を譲られたと勘違いしたらしい。ちょうど水たまりのところで並んでしまい、跳ね上がった泥水をまともに浴びてしまった。スクーターを停めて、体を見下ろしたら、右半身がずぶ濡れだった。
「……というわけだ。だから、お前も出てきてくれ。水場で落ち合おう。お前のほうが距離が長いけど、べつにいいよな」
「……わかった」
 だいぶトーンダウンした声が返ってきた。状況が理解できたらしい。
 受話器をフックに戻す。ピピーッ、という音と一緒に飛び出したカードを財布にしまい、ドアを押し開けて外に出た。

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鈴木正人
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