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第四十四話 あの頃に見た空の色

もくじ

この章では 「筒川久寿彦」 という人物が登場します。「筒川」 は、丹後国風土記逸文の浦島伝説の主人公 「筒川島子」 から取りました。我々の知っている 「浦島太郎」 は心優しい漁師の子供ですが、「筒川島子」 は容姿端麗な若者だったようです。風土記逸文の浦島伝説に、浦島が老人になったという記述はありません。しかし、他の話から類推して、彼が永遠の若さを失ってしまったという結末は変わらないと思われます。ちなみに、「久寿彦」 の 「久寿」 は神仙道の書 「抱朴子」 から。

◇◇◇

 灰皿に煙草の灰を落とすと、また電話が鳴った。今日は電話が多いな、と思いながら、電話機のある通路の入り口へ向かう。

「もしもし」

 受話器を取り上げ、肩と頬の間に挟んだ。左手に灰皿を持っているので、右手で煙草を持ったら両手が塞がってしまう。

 すぐにさっきと同じ声がした。

 実は弟に車貸しちゃってさ、と久寿彦は申し訳なさそうに言ってきた。久寿彦の弟は清都市――このあたりの中核都市で、真一が働いていたホテルもある――の専門学校に通っている。普段はバスと電車を乗り継いで通学しているが、たまに久寿彦に車を借りることもある。久寿彦は今朝も鍵を渡しておきながら、そのことを今まですっかり忘れていたらしい。

「だから、その――」

 口ごもったあとに続く言葉を待たずに、真一は言う。

「わかったよ、俺がそっちに行けばいいんだろ」
「す、すまん」
「いいって。でも、すぐには出られないぞ。やりかけの仕事があるから」
「どれぐらいで出られる?」
「十分くらいかな」

 正直、絹さやの筋を剥くのに十分もかからないと思うが、せっかくの一服が中断されてしまったのだ。もう一本吸い直してから部屋を出たかった。

「わかった。じゃあ、待ってる」

 窓辺に戻って、ちびた煙草を吸い直す。根元まで吸ったところで灰皿ですり潰すと、新しい煙草に火をつけた。

 ふと指先に絡み付いた煙を見て、ヤニ臭くなってるかもな、と思ったが、作業に戻る前に手を洗うのが面倒くさかった。

 こんな気分一つにも、最近のルーズな自分が表れている。

 砂の城が風化するように、少しずつまともな生活が崩れていっているが、抗うことができていない。
 連休から約半月。常愛川の河川敷では、野バラやニセアカシア (ハリエンジュ) が開花し、満開を迎え、そして散っていった。

 相変わらず違和感は消えない。

 それは、世界に対してだけでなく、自分自身に対しても感じた。

 過去の自分と現在の自分が、うまく重なり合わないと思うことがある。去年までの世界と今の世界が一致しないと感じたように。日常生活の中で、ふと蘇る過去の一場面。例えば、今みたいに窓辺で煙草を吸っていて、去年の今頃も同じようなことをしていたな、と思い出す。だが、そのとき心に蘇った過去の自分のイメージに、現在の自分自身が重ならない。微妙にズレていると感じてしまう。状況や行為自体は変わらないのに。

 以前はこんなことはなかった。過去の自分のイメージと現在の自分は、ぴったり一致していた。違和感などは感じなかった。

 だから、確かめようとする。

 消えかかったイメージを引っ張り戻して、もう一度想像する。過去の自分を。周りの景色や雰囲気、そのとき何を感じて、どんなことを思っていたかといったことまで含めて。できるだけ取りこぼしのないように。

 一種のイメージトレーニングのような行為。

 再現したイメージを、もう一度、現在の自分の上に引き寄せる。うまく重なり合うかどうか――。

 確かに、以前とよく似た感覚が戻ってくることはある。

 五月五日のあの日、常愛川の土手から見上げた空は、子供の頃に見た空と何一つ変わっていない気がした。抜けるような空の青さに、あの頃と同じ空の色だと思った。

 自分自身に対しても、同様に思うことはある。過去の自分と今の自分は一つの自分で、昔と何も変わっていない、と。

 けれど、そう思えるのは、いつもいっときのこと。次の瞬間には、確信は手の中から滑り落ちている。あるべき世界も、自分自身のイメージも、跡形もなく霧散してしまう。例えるならそれは、冬のさなかに、二、三日小春日和が紛れ込むようなもの。あるいは、マッチの先の灯火が、束の間の幻を生み出すようなものだ。気づくといつもの世界に戻っている。いつもと同じ自分を発見して、ため息をつく。

 作業は、思ったより早く終了した。半分ほど絹さやの筋を剥いて、動作に慣れたからだろう。ビニール袋に詰め直した絹さやを冷蔵庫にしまうと、テレビボードの上から財布と鍵束を取って部屋を出た。

 駐輪場の隣では、タチアオイが咲き始めていた。まだ背が低く、花の数も少ないが、赤、白、ピンク、と各色出揃って、殺風景だった一角が一気に華やいだ。アオイ科の花は、どれも大きく色鮮やかで、いかにも夏の花という感じがする。このタチアオイをはじめ、フヨウ、ムクゲ、オクラ、ハイビスカスも然り。公園下のレストランで葵という女の子が働いていたが、やっぱり夏生まれだった。ただ、本人が言うには、人名の葵は、キク科の向日葵に由来することも多いそう。

 波型の屋根の下からスクーターを引っ張り出しながら、どうして久寿彦は電話してきたんだろうな、と気になった。岡崎や松浦なども呼んで、久しぶりに飲もうということではなさそうだ。そういう話なら、一人でアパートに来るとは言わないだろう。

 だが、ヘルメットをかぶって、大した理由なんかないか、と結論づけた。休みの日、久寿彦は店のバイト連中とどこかに出かけることが多い。今日は午前中いっぱい雨が降っていたから、予定が流れて退屈していたのだろう。

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