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第六十四話 ハゼ釣り その二~君の名は~
竿とバケツを持って、クリーク沿いの道を遡っていく。低湿地のクリークは縦横に入り組んでいて、少し歩いたところで横から流れ込んできた別のクリークに、強制的に進路を変えられた。足を動かす度に、道端の草むらでガサゴソと音がする。カニが逃げていく音だ。少し前に通り雨があったらしく、生暖かい気が立ち昇る草むらから未舗装の道に出てくるカニも多い。赤とオレンジと白の鮮やかなグラデーションの爪を持つカニはアカテガニ。全体的に茶色っぽいカニはクロベンケイガニだ。どちらも甲羅が笑っているように見えるが、ユーモラスな見た目に反して、爪を振り上げて威嚇してくるものもいる。
五十メートルくらい歩いて、草むらの土手の下に、釣り座と思しき空き地を見つけた。ここで竿を出すことにする。草むらについた踏跡を辿ってバケツに水を汲み、仕掛けを投入する。エサはあえて付け替えない。使い古したエサのほうがよく釣れる。
だが、期待と裏腹に、このポイントも食いは渋かった。ただ、貯水池にいた時よりはマシ、と思える程度には釣れ、しばらく留まることにした。
クリークの周りには大規模な葦原が広がる。時折、青々とした葉並みが風に一斉に波打つ。アメリカ南部あたりの湿地帯を思わせるような雄大な風景。奥のほうにぽつぽつと見える家屋は、遠目にも変わった造りをしているとわかるから、別荘に違いない。独特の景観を持ち、釣りやボート遊びができる汽水域は、別荘を建てたくなる立地なのかもしれない。空は相変わらず雲の流れが速い。入道雲がたくさん浮かび、さながら雲のお祭りのよう。真夏の印象の強い雲だが、むしろ夏が深まったお盆頃から頻繁に見られ出す気がする。夏を象徴する雲は、その実、夏が終わりに近づいていることを伝えているのかもしれない。
子供の頃、夏の終わりが嫌いだった。お盆が過ぎて、田舎の親戚の家から帰ってくれば、もう目ぼしいイベントはない。子供会の行事は、だいたい七月の終わりか八月の前半に集中していた。残っているものといえば、公園で毎朝行われるラジオ体操くらい。それも、ひと月もすればマンネリ化して新鮮味を失う。夏休みも終わりに近い団地には、気の抜けた日常の空気が漂い、朝夕感じる秋の気配に、また一つ無駄に年を取ってしまった気がした。
社会人になってからは、あの頃ほど夏の終わりを憂鬱に思うことはなくなったが、それでも一抹の寂しさは感じる。
なぜだろうか。もう子供の頃のように、長い夏休みはなくなってしまったのに。失うものがなければ、寂しさだって感じないはずだ。
しばらく考えても、答えは出なかった。
ただ、一つだけわかっていることがある。
今この瞬間、寂しさは感じていない。行く夏を惜しむ気持ちもない。
心地良い充実感が胸を満たしている。長い距離を歩いて、ようやくゴールに辿り着いたような。
夏の終わりをこんな気持ちで迎えたのは初めてだ。
◇◇◇
日没が近づいて、釣ったハゼをクーラーボックスに移しに行ったら、そろそろ終わりにする、と久寿彦に声をかけられた。ただ、クリークに置きっぱなしの竿を取って貯水池に戻っても終了の号令はかかっておらず、遅れを取るわけにはいかないと思った真一は、クリークの出口を挟んで葵の隣に入れてもらった。真一が最初に竿を出した場所には、真帆が入っていた。
「どのぐらい釣れた?」
クリークでそこそこ釣った真一だったが、やはり他人の釣果は気になるところ。葵の釣りの腕前は久寿彦や岡崎以上だから、葵より釣っていれば最下位ということはないはずだ。
「私は、全然だめ。今、必死に追い上げてるところ」
予想外の声が返ってきた。葵は驚いた顔をした真一を一瞥して、これまでの自分の行動を手短に伝えた。
真一と同様、葵もクリークを遡ったという。真一と出くわさなかったのは、反対側の岸辺を歩いていったから。そっちの道はまっすぐ続いていた。しかし、竿を出した場所は、ことごとく釣れなかった。クリークの先に開けていた小ぢんまりした池は雰囲気満点だったが、その実まったくの見かけ倒しで、何度か釣り座を替えても釣果は伸びなかった。
「あそこで長居したのがいけなかったよ」
葵は悔しそうに舌打ちし、
「シンさんはどうだった?」
真一は自分の釣果を伝える。数字には、ある程度自信があった。だが、葵は驚いた様子もなく、それじゃ危ないよ、と言った。葵がクリークに向かった途端、皮肉にも、貯水池で再び釣れ出したらしい。
「あいつら、そんなことおくびにも出さなかったぞ」
バケツにハゼが溜まるたび、真一は貯水池に戻っていた。ハゼは身が悪くなりやすいので、こまめにクーラーボックスに移し替える必要がある。だが、いずれの時も、久寿彦たちは釣れているとは言わなかった。
「くそっ、すっとぼけやがって」
思わず指を弾くと、葵がほろ苦く微笑んで、まあ、勝負だからね、と言った。
「あとルールが変わったから。真帆と美汐さんの二人で一人扱いはナシ。それと、天ぷらを揚げる役も二人になったから、ビリから二番目の人もアウト」
「何だよ、そんなに釣れてんの?」
真一は、池越しに向かい合う真帆と美汐を見比べる。真帆はニコニコ微笑んで余裕の表情。一方、美汐は釣り糸を垂れた足下の水面を真剣なまなざしで見つめている。
「真帆はトップだよ。美汐さんも筒川さんと同じくらい釣れてる」
「マジかよ……」
ぼやいたその時、アタリがきた。今までと違う弱い手応えに首をひねってリールを巻くと、釣れてきたのはコトヒキだった。葵が我が事のようにため息をつく。
「ホントにツイてないよ。私が戻ってから外道が釣れ始めたんだって」
それは事実のようだ。ほぼ時を同じくして久寿彦がセイゴを、真帆がメッキを釣り上げた。
「はい、皆さん、これは何ていう魚でしょう」
岡崎が道糸をつまんで平べったい魚を掲げている。銀色の体にうっすらした黒い縞模様――バス釣りの外道のブルーギルに似ているが、ここは汽水域。
「葵さん、この魚は何でしょう」
岡崎は道糸をさらに高くつまみ上げて魚を見せつける。
「……クロダイ」
ぼそっと答える葵。
「はい、ありがとうございます。チンチンですね。正解です。よく出来ました」
「そんなこと言ってないでしょっ」
最下位になるかもしれないプレッシャーのかかったところに、品のないジョークに付き合わされて、自ずと口調が荒くなる。弱り目に祟り目とはことのこと。
久寿彦がゲラゲラ笑い、美汐はいかがわしいものを見る目つきで久寿彦を睨んだ。二人の向かいに陣取る真帆は、チンチン、チンチンだって、と大ウケしている。
「まったく、ガキかあいつは」
岡崎を睨みつけて、葵はリールを巻く。アタリが来たらしい。ほどなく水面に顔を出したのは本命のハゼだったが、途中で針から外れて池に落ちてしまった。ツイてない日というのは、得てしてこういうもの。
「ああ、もうっ」
苛立って宙をひっぱたく。真一は笑いながら岡崎を顎でしゃくり、
「将来男の子が生まれたら、家の中はずっとあんな感じだぞ」
「あんな子欲しくない」
葵は憮然と言って、竿を振りかぶった。ふわっと飛んでいった天秤仕掛けが、四角い池の真ん中に落ちる。
岡崎の質問に対する答えは、「クロダイ」 でも 「チンチン」 でも正解だ。魚の正式名称はクロダイだが、クロダイはブリやスズキと同じ出世魚。大きさによって呼び名が変わる。いちばん小さいものが 「チンチン」 で、次が 「カイズ」、最も大きいものが 「クロダイ」 となる。ただし、これは関東の呼び名で、関西では小さいものから、「ババタレ」、「チヌ」、「オオスケ」 と変化するらしい。ちなみに、ババタレとは 「ウンコたれ」 という意味だそう。
葵がリールで底を探っている間に、真一の竿にアタリがきた。今度はいいアタリだ。期待しながらリールを巻くも、釣れたのはまた外道だった。クロダイにそっくりの形で、より銀色が強く、ヒレが黄色い。この魚はキビレ。キビレも小さいうちはチンチンと言う。
「何だ、またお前かよー」
同じタイミングで、岡崎がまたクロダイの幼魚を釣り上げた。真一が釣ったキビレを見て、兄弟が出来て良かったな、と魚に語りかける。針を外すと、真一と一緒に池に放り投げた。
「じゃあなー、チンチン兄弟」
魚が消えた水面に笑顔で手を振る岡崎。
「やっぱり、あんな子はイヤ」
葵が平べったい声で言った。
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