第四十話 異質な季節
顔とコンクリートの距離が近くなったせいで、歩いていたときより暑さを感じる。この時期ともなると、川面が射かけてくる光も目に痛いほど。部屋を出る前に見た 「あじわい暦」 には、今日の日付の下に 「立夏」 とあった。つまり、暦の上ではもう夏なのだ。
小林たちとドライブに行った日から、半月以上。
あれから考え込むことが多くなった。こうして度々河川敷を訪れては、物思いに耽っている。
毎日の暮らしぶりは変わらない。深夜にバイトに行き、早朝アパートに帰ってきて、昼過ぎに起きて掃除や洗濯をしたりしなかったり。人間関係も相変わらず。休業日に小林の店に集まったり、ふらっと岩見沢がアパートを訪ねてきたり……。
ありふれた毎日。
だが、そこにはいくつもの綻びが見い出された。
今までにない感覚が日常に忍び込んでいる。
見慣れた景色や、身の周りの出来事に対するわずかな印象の変化。微妙な違和感。
それを感じる瞬間は、いつも唐突にやってくる。
コンビニのバイトでレジに立っているとき、部屋の掃除をしているとき、街を歩いているとき、どこかの喫茶店でコーヒーを飲んでいるとき……。
ふと意識した店の中の雰囲気に、掃除機を操作する自分の手つきに、街路樹のざわめきに、コーヒーの香りや、客と店員の何気ないやりとりに……いつもと違う何かを感じてしまう。
それに気づくたび、手を止め、足を止め、考える。今のは何だったのだろうか、と。
確かに、それらはごくささやかな経験だ。吹いているのかいないのかもわからない風が、そっと細葉の先を揺らすような。だが、日常の随所に散りばめられ、少し動くたびに遭遇してしまう。どこに潜んでいるのかわからず、意識的に避けて通ることはできない。
注意深く振り返れば、岩見沢の家の前で立ち話をした日以前にも、そうした瞬間はあったかもしれない。蓬莱公園で花見をした日からしばらくの間、一見平穏に見えた日々。今からすれば、何となく思い当たる節がある。ただ、やはり、あまりにも小さな経験だったため、はっきり意識できなかったか、意識しても生活の場面が切り替わるたびに忘れてしまっていたのだろう。
いつの間にか川面に落ちていた視線を持ち上げて、正面を見つめる。
対岸のコンクリート斜面はこちらより短く、青々とした雑草が土手を覆う。ガードパイプの上に頭を出した街路樹の名前は何といったか。モミジバフウ? トウカエデ? 紅葉が美しい木だったはずだが、はっきり覚えていない。今は、明るい初夏の陽射しが若葉を洗う。
コンクリート斜面から身を乗り出して、まじまじと眼前の景色に目を凝らした。
世界は、以前と同一であって同一ではない……?
街路樹の合間に立ち並ぶ住宅や倉庫。マンションや事務所が入った低層のビル。
サイクリングロードを走っている人、散歩中の人、ガードパイプに手をついて釣りの様子を窺っている人……。
今見つめている景色は、一年前の自分の目にも、そっくり今と同じように映っていただろうか……。
空の青さは?
雲の白さは?
例えば、今年も春が来た。街の花壇を様々な花が彩り、ひと雨降るごとに草木が青さを取り戻していった。この頃は気温もぐっと上がって、半袖で過ごせる日もある。屋外にいる人の数も冬場に比べて格段に増えた。河川敷では、ツバメなどの夏鳥もよく見かける。
毎年繰り返される光景。
けれど、何かが違う。
春は毎年巡ってくる。当然ながら、いつも同じ春だった。太古の昔から脈々と続いてきた自然の営み。今後もずっと変わらない。毎朝東の空から太陽が昇ってくるのと同じくらい自明なことのはずだ。
だが、今年はいつもの春が巡ってこない。
「立夏」 の今日まで待ってみても。
出会ったのは、今までにない異質な季節。
毎年一致するはずの記憶と現実が一致しない。
永遠の循環が途切れてしまったかのようだ。
記憶の中にある春は、こんな春ではない。自分が知っている世界は、今目にしている世界とは違う。
いったい何が違うのか?
それは例えば、空を鮮やかにしているもの、雲の白さを作り出しているもの、風や光に喜ばしさを与えているもの、草木の瑞々しさの源になっているもの――そういったものが今の世界には足りない。どこかへ消えてしまった。すーっと潮が退くように。
世界は、急速に色褪せてしまったように思える。
どこか虚ろで覇気がなく、寂しげに見える。
ぽっかり風穴が開いてしまったような。情熱が逃げていってしまったような。あるいは、夢から覚めてしまったような……。
視界の端に、ひらひらと二つの影が映り込む。川上側から、モンキチョウのつがいが風に流されてきた。黄色いほうがオスで、白いほうがメスだったか。付かず離れず、ペアでダンスを踊るように飛んでいる。でたらめな軌道は、ヘリや飛行機には真似できない。人が作ったものに真似するのは難しいかもしれない。ぼんやり見つめている間に、蝶たちはゆっくり川下のほうに押し流されていった。
二頭が消えた視界に、輪郭がぼやけた川面のきらめきだけが残る。
だが、真一が覗き込んでいるのは、自分の頭の中。
いつからか毎日が淡白になった。一日一日が淡々と流れ去っていっている。何を感じたのか、どんな出来事があったのか、心に残っているものが少ない。日常は多くの意味を失い、つまらないものになってしまった気がする。
先週、こんなことがあった。
岡崎がオーディオラックを購入したというので、マサカズと一緒に部屋に運び入れるのを手伝いに行った。人を頼むと金がかかるから、と真一たちが呼び出されたのだ。
岡崎の部屋は二階にあり、長さのあるオーディオラックを一人で運ぶのは確かに困難だったが、真一たちが手を貸してやったら、作業はあっさり終了した。
ホームセンターで借りたトラックを真一が返しに行き、マサカズが岡崎と一緒に車で迎えにきた。車に乗ると、せっかくだからボウリングでもやらないか、と誘われた。ゲーム代は岡崎が支払うと言った。アパートに帰ってもやることがなかったから、真一は二つ返事でOKし、国道沿いのアミューズメント施設へ行った。
二回ほどゲームをやって、二回とも真一がトップを取った。
ストライクを連発したときは、自ずとガッツポーズが出る。悔しがる岡崎とマサカズに挑発的なポーズを取って、からかってやったりもした。だが、表面的な振る舞いとは裏腹に、内心どこかゲームにのめり込めていなかった。体だけ動いて気持ちが置いてけぼりになってしまったというか、空回りしている感じがずっと付きまとっていた。印象に残っているのは、マサカズが足を滑らせてガーターを出したときのこと。派手にずっこけたマサカズを見て、大笑いする岡崎の姿がひどく空虚に映った。
――いったいこいつは、何がそんなに面白いんだ?
素朴にそう思った。眠気が差して無自覚にあくびをするみたいに、ごく自然に。
だが、あとで考えてみると、おかしいのは自分のほうだった。
普段なら、こんな感じ方はしない。岡崎と一緒に大ウケしていたはずだ。ぽかんとして、場違いな空白が生まれることはなかったはず。
自分で自分が理解できなかった。
どうしてあんなに白けた気持ちになってしまったのか。
あたかも、自分の中に他人の感情を発見してしまったかのようだった。
それくらい普段の自分からずれていた。
背後で自転車のベルが鳴った。少し遅れて、「危ないから脇に寄りなさい」、としわがれた声が誰かを注意する。自転車の気配が遠ざかると今度は、プイー、といささか間の抜けた音がした。貸して、貸して、と幼い声がせがみ出す。老人が孫のために草笛を作ってやったのだろう。アシの葉っぱでも、タンポポの茎でも、カラスノエンドウの鞘でも、材料になる草なら河川敷にいくらでも生えている。今はあらゆる雑草が生え揃う時期。
コンクリートの輻射熱に、あらためて暑さを感じてパーカを脱いだ。それを丸めて腰の後ろに回すと、光りさざめく川面に目を落とす。
最近、あまり感動しなくなった。心の感度が明らかに落ちてしまったと思う。安物の録音機みたいに繊細な音は拾えず、感受できる音域も狭くなった。
以前は、ひとつひとつの体験がもっと深かった。自分が見たこと、聞いたこと、身の周りで起こったあらゆる出来事は、速やかに心の奥まで浸透してきて、いつまでも記憶に残る鮮やかな像を結んだ。印象の響きは、純水のように澄み渡っていた。
今は物事全般に対して関心が薄い。目の前で何か面白そうなことが起こっても、傍観するとか、素通りするとか、そういう消極的な態度しか自分の中から出てこない気がする。自分の心は、弦が緩んだ楽器みたいに、外からの刺激に対してハリのある音を返せない。
ピチュル、ピチュピチュ……緑の季節によく似合う声。
川岸のあたりを見たら、草むらの間から小さな影が浮上し始めた。ヒバリがさえずりながらホバリングしている。翼の動きは速すぎてよく見えない。これも人が作ったものに真似するのは難しそうだ。ほどなく真一の目の高さを越え、対岸の街路樹の高さも越えた。顔を上げて、その姿を追い続ける。
子供の頃、味わったことのある圧倒的な体験。
叫び出したくなるほどの感動。
あの頃と同じ感じ方は、もうできなくなってしまったのか。
自分は、あの頃の心を失くしてしまった……?
天高く舞い上がろうとするヒバリとは裏腹に、陰りを帯びた思いが胸に沈んでいく。
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