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第七十九話 ショウジンガニ

もくじ

「しかし、これをカニのエサにするのは、もったいない気がしますね」

 前を歩く岡崎が、右手に提げたバッカンに未練がましく目を落とした。白いバッカンの中では、たまにバサバサと音がする。コンビニ袋に詰め込んだイワシの中には、まだ生きているものもいて、それらが暴れているのだ。

「おいおい、お前が言い出したことだろ」

 真一は右手にタックルボックス、左手に玉網と竿を握りつつ、何を今さら、という顔をする。

「だって、まだ生きてますよ。メタリックブルーに輝くイワシの刺し身なんて、どんな高級な店行っても食べられませんって」

「だったら、ベースキャンプで一匹食ってくりゃよかったのに。水だってあったんだし」

 腸炎ビブリオの予防策は、真水で魚の身を洗うこと。残念ながら、ふんだんにある海水では効果がない。

「でも、水で身を洗ったら、せっかくの青い色がくすんじゃいませんか」
「中るよりはマシだろ」
「うーん……。悩ましいっすね」

 真一たちは、湾を抱く山の麓に広がる草斜面の小道を歩いている。斜面中腹の小道からは、右下にゴツゴツした岩場と海、左斜め上にアシタバの白い花が見える。アシタバの葉っぱも食べることができるが、夏場は硬く、味も良くない。旬は春だ。陽当たりの良い草地には、カナムグラが旺盛に繁茂している所もあり、気をつけて歩かないと、細かい棘が生えた蔓で脛を引っ掻いてしまう。上半身は日焼け防止のためTシャツを着ているが、下半身は海パンを穿いたままで、膝から下は無防備な状態だ。

 やがて、ずっと目印にしてきた櫓が近づいてきた。たぶん、海女か漁師の休憩所だろう、潮風で灰褐色に色褪せた丸太の骨組みの上に、屋根代わりの葦簀が乗せてある。ベースキャンプからずいぶんと長い道のりを歩いたので、もう湾口が近い。

「ここらへんでいいですかね」

 草地を抜けて岡崎が振り返り、真一は目の前に広がる磯を見つめる。ショウジンガニは湾の奥のほうではあまり見かけない。波しぶきをかぶるような外海に面した磯に多い印象だ。このあたりは外海に面しているわけではないが、潮通しが良さそうで、たくさんカニがいそうな雰囲気がある。人がほとんど来ない海岸だから、カニもスレていないだろう。

「そうだな」

 磯の香りのする岩場を少し歩くと、めぼしい場所に荷物を下ろした。選んだのは、小ぢんまりした湾処。カニの隠れ家になりそうな岩の隙間があちこちにある。早速タックルボックスの蓋を開けて、仕掛け作りに取り掛かった。針と錘だけの単純な仕掛けだ。いわゆる 「ブラクリ」。これにぶつ切りにしたイワシを付けて、血の臭いでカニをおびき寄せる。

「やっぱ竹の棒持ってくりゃよかったかな」

 ただ、この仕掛けでは心もとない気もする。カニが岩に貼り付いたら、エサだけ取られてしまうかもしれない。だから、カニを突き落とす棒が必要だと言ったのだが、岡崎は、早く行きましょう、と言って聞く耳を持たなかった。ちょうど砂浜に流れ着いた竹を見つけたので、十徳ナイフで枝を落として即製の竹竿を作ろうとしたのだが。

「いらないでしょ。玉網だけで大丈夫ですよ」

 やはり答えは変わらない。ナイフでイワシをぶつ切りにしながら言った。

「じゃあ、その言葉を信用して」

 仕掛けが出来上がると、真一は針にエサをつけて水面に落とす。すぐに岩陰から赤っぽいカニが現れた。岩場でよく見るイソガニとは形も大きさも違う。こっちのほうがだいぶ大きい。水の中にぶら下がっているエサに向かって、ゆっくり爪を伸ばす。爪がエサをつかんでも、真一は慌てて竿を上げない。下手に動いて驚かせたら、すぐに岩陰に逃げ込んでしまうからだ。ショウジンガニは逃げ足の速いカニなのだ。

 カニがエサを抱え込もうとしたところで、軽く仕掛けを引っ張ってみた。すると、カニは自ら岩を離れ、エサに飛びついた。ゆっくりリールを巻くと、あっけなく釣れた。カニは宙ぶらりんになっても、まだエサを放そうとしない。逃げ足が速い反面、けっこうがめついところもある。公園で子供に簡単に釣られてしまうザリガニみたいなものだ。

「まず一匹」

 岡崎が横からカニをつかんで、バッカンに放り込んだ。大きくて厚みのあるカニだった。足を含めれば、大人の手のひらの大きさをゆうに超える。このサイズなら出汁を取るだけでなく、身も食べられるはずだ。

「今度はお前がやってみな」

 真一は岡崎に竿を渡し、足元の玉網をつかんだ。

 今度は獲り方を変える。岡崎が仕掛けを落としたのと同時に、水の中に玉網を突っ込む。やはり、カニが岩に貼り付いてしまうのではないか、という懸念が頭に残っていた。

 カニはすぐに現れた。真一は玉網の柄を握る手に力を込める。

 カニがエサに取り付いた。ここまではさっきも見た光景。だが、直後、岩陰から別のカニが現れた。先客に覆いかぶさり、エサを奪おうとする。奪われまじとする先客。相手のほうが力が強いと見たのか、エサを抱え込んで岩から離れた。だが、新手のカニも背中から離れない。のみならず、正面に回り込んで攻勢を強めた。水中で二匹のカニが複雑に絡み合う。双方戦いに夢中で、すぐ下に網が迫っていることに気づいていない。

 岡崎がリールを巻くのに合わせて、真一もゆっくり玉網を持ち上げる。

 今回もあっけなくカニを捕獲することに成功した。わざわざ玉網で岩から剥がし取る必要はなかった。

 網の底に落ちてなお、カニたちはエサを奪い合っている。

「何だか人間社会の縮図みたいですね」
「こうやって滅んだ国があっただろ」

 その後もカニは獲れ続けた。真一たちは、適当にポイントを替えながら竿を出した。釣れてくるカニは大抵一匹だったが、二匹絡み合って釣れることもあった。面白いように釣れる状況に、岡崎が、もはやカニ銀座ですね、と言ったが、まさに言い得て妙だった。ただ、あまり釣りすぎても場が荒れてしまうので、必要な分だけ確保することにした。

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