(随筆ⅰ)「普遍」と「普通」

「普通であることがいい事だ」

「世間的にそれは違うよ」

そう言う人たちもいる。
僕は日本人として日本でしか生きたことがないし、日本から出たこともない。だから、当然分からないことも沢山ある。知ったような口を聞いておきながら、真の理解には到達していないのかもしれない。なにも知らないで生きているのかもしれない。

自分は、これらの問いかけを払拭して生きたいと思って生きてきた。だから、どこかに「世の普遍」を求める心が常にあった。いつ何時でも変わらぬ「答え」がそこにあるかもしれない、と。

だけど、「世の普遍」は「人間の普通」でも「社会の普通」でもないのだと、いつだったか気付いた。社会はウソだらけだ。人の心を持たず、エゴのままに、独善のままに、他者を貶める人たち。そんな人ほど社会的地位を得ている。本当に努力して誠実に生きる人は、彼らに妨害されて認められない事もある。「社会的」という形容詞の無意味さをまざまざと知った瞬間だった。

後から知ったことだが、自分はそんな奴らに人生をぐちゃぐちゃにされていた。その後自己嫌悪に陥ったり、自己肯定ができなくなったりもした。確か最初に自殺を考えたのは中1の頃だった。苦しくて苦しくてしょうがなかった。上手くいっていた何もかもが崩れ去るように悪くなった。勉強もスポーツも習い事も人間関係も、全てに嫌気が刺した。潜在的な自殺願望は、高1の頃まで続いた。何百回死にたいと思ったことか。高2の頃、自殺は無意味だと悟った。むしろ何も意味を残さないと気づいてからは、いくら苦しくても死にたいと思わなくなった。ただ、自殺願望という強烈なワードに依存しなくなった自分は、この苦しさをどこに持っていけば良いのか分からなかった。今も分からない。

もっと大きくて、偉大で、安らかなものを知りたい。そこに何かある気がする。自分単体で生きていれば、おそらく隔世的な主義主張に突っ走って、世間を考える事などなかったかもしれない。父は、自分によく「世間的であることの重要さ」を説教した。そして「お前は変な方向行きかねないから、一般論的なこともちゃんと学びなさい」と口酸っぱく言った。そのおかげもあってか、自分は「普遍への渇望」と「普通への探究」を共存させられている。だからこそ、「一般的な話」の盲目さも感じるようになった。


「普通」とは何だろうか。

答えは簡単なのだ。
人々の空想上の概念なのだ。「マネー」も「社会」も同じことで、暗黙の了解が生んだ幻想でしかないのだ。だから、「存在する」とも「存在しない」ともどっちとも言える。
時の流れによって変化するし、コミュニティによって変化するし、地理的にも変化する。

人は言う。あの時代は狂っていた、と。
そんな訳ないのだ。普通は変化する。だから、我々の認識も変化する。ただそれだけ。でも、それをさも真実かのように語るのが現代だ。

人は自分の拠り所を欲している。依存や固執する心を持っている。それが人を人たらしめるのかもしれないが、そんなものは見飽きた。技術は人を補助するものから、形成するものに変わった。形成された人、つまり、技術を己の力と過信している愚かなる人。彼らは自分たちの依存や固執に気づけない。だから、簡単に「らしさ」に騙される。表面的な繕いに目を奪われる。

「普通」とは、そんな現代という時間軸を生きる人々の作り上げたものだ。


でも、無価値ではない。

少なくとも、それを信じる人が多いのなら、共通言語として機能するから。だから、自分が「普通」を一蹴しないで受け入れたということは、良かったことだと思っている。結局人は何かに属していないと生きられない、という程の存在なのかもしれないし、現代という時代なら尚更そうだろうから。

そして「普遍」とは、そんな時代性にも、人間という器にすらも属さない究極の式なのだと思う。


自分は両方を追求したい人間であれて良かった。ありがとう。

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