短編小説|『綿を噛む』①/3
「どうだい。君、これ、噛んでみないか。」
白づくめの男は真っ白な歯を光らせて、白い綿を差し出した。その綿はビー玉くらいの大きさの、少し浮き上がり、ふわふわした綿だった。
「それをおれにくれ。」
男は汗まみれの火照った手を振りかざし、男の手のひらの上で気ままに踊っている綿を勢いよくかっさらった。そうして口の中に放り込まれた綿は、暗い洞窟の中に迷い込む赤子のように、無防備にふらつきながら分厚い唇の間に消えていった。
男は目を剥き、鼻息を荒くしていた。ひどく焦っているようだ。しかし、シュワシュワした舌触りの綿をカリッと噛むと、それに焦りの感情がすっかり吸い込まれていく。まるで空気が抜けた風船のように、後に残るのは、疲れてへなりとした感情の抜け殻だけだった。
「どうやら、いいみたいじゃないか。」
白づくめの男は、干し葡萄のようになった、シワくちゃで紫色の唇を左右に引き伸ばし、ニヤリと笑った。言葉を発するたびに、口の中で唾液がにちゃにちゃねられた。
「これを後、3日は噛んでおきなさい。それで、少しは落ち着くだろう。」
すうっと男は口をすぼめ、後ろを向くとそのまま行ってしまった。
男は、立ち上がると眩しい電気音が流れる白い部屋を出て、暗闇に蛍のような街灯がちょろちょろ生える道を歩いた。
奥歯にはまだあの綿が挟まっている。しだいに異物感が気になり始めた。1日目の夜、男は丘の上の、町全体が見回せる切り株の上に座り、放心した。寝静まった町は、真っ黒な海の上をホタルイカが浮かぶように、はかない明かりがいくつか灯っているだけだ。その奥には、なだらかな曲線を描いた山稜が見え、空との間に、一つ、二つ、三つとオレンジ色の光が明滅していた。
頬に、涼しい夜風が当たる。鼻から吸い込んだ空気によって、唾液まみれの綿は、冷たくなった。それを噛むと、冷たい唾液がどろっと染み出し、舌に触って不快だった。綿はケバだってちくちくと健康な歯茎を刺激した。
口を思いっきり開けることができない。そう思うとかえって顎に力が入って、きりきりと綿を噛む。顎の付け根の方が疲れるが、それが妙な甘い快感を男にもたらした。
明日の命さえ、何にも保証されていないんだ。
目の前に暗闇が広がり、空気が冷たくなって、土臭い匂いがあたりに充満してくると、それに染められるようにして、男の思考にも暗い影がたゆたい始めた。一粒の涙が頬を転げ落ちた。それは自分でまったく意識していない涙だった。
目の前に広がる町へと続く斜面には、巨人の体毛のような草がびっしりと生えていて、方々から鈴虫の涼しい鳴き声が震えては消え、また震えた。
ねっとりとからまっている黒い思考の膿は、それで除去されることは無かった。その美しい鳴き声すら、歯茎にグサグサ刺さってくるようだった。
男は、切り株の脇に枯れ草を集めて寝床を作り、泥のように重くなった体を横たえた。1、2時間は、ビュービュー吹き荒ぶ風に悩まされたが、しだいに重しが乗ったようなまぶたは勝手に閉じていき、世界は暗闇の中にぷつんと消えていった。
男は夢を見た。奇怪な夢である。暗闇の中にぼんやり白い物体が現れ、それはだんだん形をはっきりさせていった。
それは青白い透明な物体で、円盤状になっており、中心部分が少し盛り上がっている。クラゲの傘を、少し押しつぶしたような見た目だ。その表面をよく見ると、無数の小さな水泡がうごめいていた。しばらくすると、それらの水泡は大きく、騒がしくなり、ちょうど表面が沸騰しているように見えた。するとその表明をぶるりと突き破って、あちこちから細い管が飛び出てきた。
その管は、先端が球体になっており、小さな針がついていた。管は何かを探すように空中を動き彷徨い、はて地面に先端がつくとそこにぐさりと針を刺した。男はその動きに本能的な恐怖を覚え、震え、冷や汗を流してはっと目を覚ました。
砂漠に登る太陽のように、白く眩しい太陽が丘を照り付けていた。男は辺りを見回して目を擦った。
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