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私にとっての自由と選択

よく自由に生きたいって思う。
何にも縛られずに自由に生きたい。
思うままに生きたい。

それは欲望のままに自分を解放することなのか・・・。
自分の気持ちに正直に生きること。

自由ってなに?気持ちに正直にってなに?
最近、今の私が納得する視座を手にしたので残しておこうと思う。

大切なのは主体的であること。
周りの意見や同調圧力に無批判的に従うのではなく、自分自身が道徳的に判断することが必要。そこに選択の自由がある。

道徳的な判断
自分の理性に従って道徳的な判断ができるかどうか。
自由は決して欲望のままに生きることではなく、この判断ができる状態、その判断には主観的で理性に従った選択をすること。

例えば
お腹が空いたので何か食べたいと思うこと。だからお腹いっぱいになるまでお菓子を食べた。
これだと欲望的で自由に選択しているようで、そうではない状態だといえる。
であれば、食べるものをバランスの良いものにしてみたり、食べる順番や噛む回数を気にしてみたり、健康や体調面も考慮した判断がある。
なにを選択するのかは全くの自由だけど、理性的な判断がそこにはある。

自由に生きるとは、これに近いんじゃないかなと私は感じる。

空腹からくる食欲は身体がエネルギーを求める生理現象であって、そこには判断はありません。いつお腹が空くようにするとか、喉が乾くタイミングなどは調整の余地はあっても、自分で選択できないからです。
しかし、発生する食欲に対して、何をどれだけ食べるかは自由に選択ができます。

もちろん好きなものを好きなだけ食べる選択をすることもできますが、主体的に吟味して、理性的に判断し選択するところに自由があります。

そう考えると、ある意味自由はとても苦しい状態といえます。
自分の意見を持って自律することが必要だからです。

なにが自分にとって善いことなのかを考え続けなくてはいけない。
しかも自分にとって善いこととは、社会にとっても善いことである必要があります。それが共同体として発展してきた人類には欠かせません。

自律という言葉があるように、自分の内的要素によって自分の意思を規定すること。欲望に動かされることなく。

自律を考えたとき、選択する際なにを選択するのかもそうですが、選択する余地がないとそもそも自由とはいえません。
時間やお金や人間関係など多少の余裕や余力がないと選択する機会すら無くなってしまいます。

人生において選択できる(余地がある)ことがまず幸せであり、選択は主体的であることが自由につながります。そう思えれば、少し幸せのハードルは下げられそうです。

小さなことでも幸せに感じれる。そんな選択をしていきたいです。

今日もいい1日です。

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