正解がないことを正解にする
いつも正しくいたいと思う一方で、「正しい」ことなんてひとつもないとも思う。
でも、そうやって自分の考えや価値観に確信が持てなくなると、今ある貴重な持論がすぐに流れ去ってしまうから、そうなる前にこうして書き留めておきたい。
「意思決定を正解にしていく」
ここ最近、特にキャリア論において広まっている考え方で、「意思決定が正解かどうかじゃない、その決定を正解にしていくんだ」というのがある。
これには概ね賛成している。
もちろんこれに近いことを言う人は昔からいただろうが、近年これが流行しているのには、キャリア選択の多様化という背景がある。
つまり、一昔前までとは違い、「良い」大学を出て「良い」会社に入ることが必ずしも社会的成功とはみなされない。
年功序列から成果主義への移行のなかで転職の敷居は下がり、所属よりも実力が重要視されるようになってきた。
また女性の社会進出が加速し、同時に副業、複業、フリーランスなど働き方も多様化している。
このような社会の流れによって日本人は、様々なキャリアの可能性の中から自分が良いと思うものを選び続ける、そんな人生を送るようになった。
だから、一昔前までであれば、社会が認める画一的な「正解」により近い選択をすればよかったが、今ではその正解を自分で決めなければならなくなったのだ。
自分にとって、どんな選択が正解なのだろうか。
そんな迷える人々のために、「意思決定を自分で正解にしていく」という考え方はある。
勇気を持って決定を下すため、また、うまくいかないときでも、過去の決定が失敗だったからだという言い訳をしないため。
個人的には、人生は意味付けでどうにでもなる、といった議論に帰着するのは避けたいが、それでもやはり「意思決定を自分で正解にしていく」的思考は有効だと思う。
「正解にしていく」対象
ここまで、なぜこの話をしたかというと、「正解にしていく」と考えられるのは意思決定だけではなく、商品、サービス、作品などにも同様のことが言えると感じたからだ。
たとえば商品を市場に出すときには、それが売れるのか、つまりその商品を出すことが「正解」なのかを判断する。
それこそ一昔前であれば、物質的な豊かさを叶える商品である限り、その商品は「正解」だった。
しかし今の日本では、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさが追求され、それに伴って「正解」が人によって異なるようになった。
精神的な豊かさを実現してくれるものは、ある人にとっては高級な服、ある人にとっては漫画、またある人にとっては日常的につまむチョコレートだったりする。
だから、商品自体が「正解」かどうかと同じくらい、いや、もしかするとそれ以上に、どうやってその商品を「正解にしていく」かということが重要だと思う。
プロモーションによってヒットさせるのか、ターゲットを狭めてその中でシェアを拡大させるのか、その商品が売れるような流行そのものを作るのか、その商品で得られた学びを次の商品に活かすのか。
どんなやり方だとしても、商品自体の「正解」性に頼らず、その商品を「正解にしていく」継続的な試みが求められる。
絶対的な「正解」はない
いずれにせよ、多様性が叫ばれる今日、この複雑化した社会で、絶対的な「正解」はないに等しいと言えるだろう。
「正解」がないほうが選択の自由が与えられて生きやすいのか、それとも普遍的な「正解」があるほうが自由選択のコストが少なくて楽なのか、この2択自体も今や「選んだ方を正解にしよう」問題なのかもしれない。
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