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結婚についての考え -山口真由「ふつうの家族」にさようなら を読んで-

読書感想文というよりも、この本の内容を踏まえて結婚について思うことをつらつらと書いていこうと思う。私は近いうちに婚姻届を提出するので、現時点での結婚についての考えをまとめておきたい。

過去に結婚できないという確信みたいな記事を書いておいて、4年弱で結婚することになりそうだ。人間関係なんてほんの短期間で大きく変わるもので、当時の自分はその流動性を甘く見ていたかもしれない。自分は結婚に向いていないという分析や考え方自体は大きく変わっていないが、その経緯も含めて書いていく。多少のぼかし・フェイクはご容赦頂きたい。


結婚の経緯

結婚相手は同級生である。私は編入生なので、かなり年下との結婚である。向こうから付き合う提案をされ、流れで一緒に住み、向こうからプロポーズされた。我ながら完全に受け身である。受け身なのは仕方がない。もともと結婚やその過程の付き合うという状態に興味がなく、行動する気がなかった。仲が良かった女性と自然にそういう関係になった。

結婚についての考え

結婚は経済面の契約であって、特に男性・医師の自分には不利に働くことが予想された。多くの人に「結婚のメリット」について聞いて回ったが、一番しっくりきた回答が「子供のため」であった。これについては後述する。

他は「結婚自体が素晴らしいもの」みたいな回答が多く、そのような考えは全く理解・共感できなかった。これは私がテレビをはじめとした大衆文化と距離を置いているためだろうか、あるいは教育や交友関係のせいだろうか。結婚を特別視・神聖視する文化や習慣に触れてこなかったので、バックボーン無しに結婚を称賛する意見からは得体のしれない恐ろしさすら感じられた。

役所に紙切れを出すか出さないかで、私と相手の人間関係は変わらない。この紙切れに人を幸せにする力は無い。あくまで戸籍における役所の公的な手続きである。

挨拶・顔合わせ・結婚式

相手家族の戸籍から一人除籍するということで、さすがに結婚の報告(方針?)は伝えた方が良いだろうと考えた。直接出向くのは面倒だったので電話で伝えた。相手家族には何度も会っており、結婚に反対されることも無かった。まあ親に結婚を止める権利など無いので、結婚に賛成も反対も個人の感想で終わりの話である。本当に挨拶だけという感じだ。

後日、相手家族から「本当は嫁にもらう方の両親が挨拶するのが普通だよ」と間接的に言われたが、これはとても新鮮な意見で驚いた。私ではなく「私の両親」が先に出てきて挨拶するのが普通なのか。どういうことなのか全く分からないが、あえて解釈するなら結婚は個人間ではなく家族間の取り決めだから、家族の長が出てくるべき、という考えなのだろう。確かに昔は親が結納金を持ってきて挨拶に来るというのを聞いたことがある。これは田舎特有の文化なのだろうか?都会でもこれが普通なのだろうか? Very Japaneseな体験で興奮した。
そもそも「嫁にもらう方」とは何だろうか?結婚は両方向性であって私が一方的に嫁をもらう訳ではない。今回は結婚後に私の姓を名乗るから「嫁にもらう」なのだろうか?選ぶ姓によって「嫁にもらう」と「婿にもらう」が変わるのだろうか?私が姓を変える場合、相手側両親が私の両親に挨拶に来るのだろうか?選ぶ姓がそれほど大事なのか?姓は一緒でも違う家なのではないか?言われた意味がさっぱり理解できない。
当然この話は黙殺である。

顔合わせについて(両家族から)聞かれているが、まあ「いずれ」という方針だ。家族が顔を合わせる機会は殆ど無いだろうが、顔も名前も分からないのは不安だろうし企画しても良いかなと思う。結婚は個人間の話だが、家族同士の付き合いはどうしても生じる。そこは少しくらい配慮しても良いだろう。面倒くさい。

結婚式は当然挙げない。お互い挙げる気が無く、呼ぶ人も金も無い。もちろんパーティーの趣味も無い。例え親がすべて金を出すと言っても許さない。私に「自分の全てをさらけ出す」勇気は無いし、結婚とあの学芸会的儀式(むしろ披露宴の方)が結びつかない。結婚式に出席したときの記事参照。

入籍はしません

結婚と入籍は別物である。
説明が面倒なので知らない人はググって欲しい。これまで何人にも「籍はいつ入れるの?」とか「入籍するの?」と聞かれた。
「結婚はするけど入籍はしません」
と言いたいが口にはしない。説明が面倒なので、文脈から「入籍」は「結婚」を意味していると読み替えて会話をする。「あなたは婚姻届と入籍届のどちらを出した(出す)のですか?」と逆に聞きたくなる。結婚と入籍が同時に起きる場合もあるが、そのようなケースを想定して入籍という単語を使っているのだろうか?初婚だし連れ子もいないよ?

なぜ入籍という言葉がこれほど結婚の意味で使われているのだろうか。調べた訳ではないが、おそらくテレビで芸能人が誤用しているのが広まり一般化したのだろう。

結婚は他人のため

私にとって結婚は経済的な契約であり、その意味ではメリットよりもデメリットの方が大きいことが予想される。ではなぜ結婚するのかというと、今のところ自分で納得できる理由は「子供のため」である。本来なら自分の子供が欲しい、この人に子供を産んでほしい、自分の子供に立派に育ってほしいという生物的欲求は、結婚という制度とは全く別ものである。その一方で、結婚して両親がいて・・・という、いわゆる「ふつう」が子供にとってどのような意味を持つかを考えてみた。いまどきシングルマザーやシングルファーザー、事実婚、別居婚などはむしろ「ふつう」になりつつある。私の友人にも何人かそのような家庭事情の人がいる。しかし、色々な人に話を聞くとやはり「子供には同じ苗字の両親がいるのがふつう」という認識がある。結局、私はその「ふつう」を拒否するほど結婚を嫌っておらず、自分のエゴで子供から「ふつう」を奪う理由も特にない、という理由で結婚をするのだろう。

別に役所に紙切れを出さなくても子供は作れるのだ。ただ、現在住んでいる田舎で「ふつう」を子供から取り上げることで起きることが予想できないのだ。「ふつう」の人間は「ふつう」の集団に紛れて生きていくのが快適な生き方だろう。私も結婚相手も、普段から社会の「ふつう」に疑問を持ち、ストレスを感じる人間だが、それでも子供は他人であり、出来るだけ「ふつう」の環境を整えることで快適に生きていける蓋然性が高いと思う。(この二人の子供が普通の人間に育つのか甚だ疑問ではあるが…)

それから、上の世代の人はどうやら自分の子供が結婚すると(結婚して子供を産むと)安心するらしい。また、上の世代に限らず「ふつう」の人は未婚の人よりも既婚・離婚歴のある人の方が信用できると感じるらしい。その意味では人間関係や仕事を上手くやっていく「自分のためのメリット」が結婚にあるのかもしれない。安心するとか信用できるようになる機序は私には分からない。まあ自分に孫ができるのは「ふつう」の人生だろうし、いつまでも結婚しない人間は「ふつう」から外れた人間の可能性が高いだろう。基準値から外れた人間を弾くスクリーニング検査として結婚歴の有無を使うのは理にかなっているように感じる。

読書感想

この本が書かれたときに著者の山口真由さんは37歳、私より年上かつ未婚である。章ごとに親子、結婚、家族、老後、国境について書かれているが、やはり?結婚について書かれている第2章に最も情熱を感じた。正直他の章は読み飛ばしてしまった。
第2章では結婚についてのアメリカ合衆国での考え方、自分や身の回りのエピソードなどが書かれており、主にアメリカの同性婚にまつわるオバーゲフェル裁判で取り上げられた結婚の神聖性・崇高性が話の中心となる。私自身の考えは本書に登場するハリー教授に近い。結婚というのは「お互いに対する権利と義務の束であると同時に、それに伴う無数の特典の集合体」とハリー教授は表現する。結婚は売買と同じ契約であり、彼女の「なにが結婚をそこまで特別なものにするの?」という根本的な疑問は、私自身が持ち続けている考えと同じだ。

結局すべて主観や個人の好みの話に帰結してしまうのだろう。本書でも結婚にストーリー性を重ねられるかどうか、これが結婚に対する考えの違いに繋がる。おそらく映画・ドラマ・小説のような娯楽が結婚に対するイメージを高め、ストーリーを構築し、神聖性・崇高性を高めていくのだろう。それらのいわば世俗的な娯楽・文化がむしろ結婚から世俗性を奪っていく。そして一般的な娯楽・文化に触れない私のような人間には理解できない「ふつう」の世界が構築される。

若者の結婚率が減り、その結果少子化が進んでいるという研究がある。結婚の特別視は結構なことだが、それが社会の脆弱性に繋がっていないだろうか?個人的には結婚のハードルは低く、カジュアルなものという認識だ。今でも3組に1組は離婚するのだから、それほど重大な決断ではない。(お金に関しては重大な決断になるが…)

すべて「ふつう」の生き方は難しい

なんだかんだ皆変わった人生を生きており、血液検査のように全て基準値を満たしている人間はむしろ少数だと思う。それでも基準値と自分の数値を見比べて安心するのが人間であり、異常値ばかりの人間は遠ざけられる。社会では当然のように起きている話であり、それが気に入らないとしても人間の本能は簡単には変えられない。
自分の意志を貫き、あるいは事情で仕方なく「ふつう」でない選択をし、一方で「ふつう」を利用しながら社会での安定や心の安寧を得るのが賢いやり方だろう。結局は決断と妥協を繰り返しながら自分で納得できる人生の方針を見つけるしかないのだ。

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