震災クロニクル【2012/8/30~】(64)

震災後二年目の晩夏。水平線は相変わらず真っすぐと伸びて、遥か彼方、数十キロ先の原発まで続いているのだろうか。僕は今年かぎりの仕事を程よくこなしている。夏の酷な暑さはジリジリと仮設住宅を照らしている。

そういえば入試も様変わりした。福島県の災害を鑑みて、「東日本大震災特例枠」なる枠を設けた。

AO入試のようなものであるが、ここの地域限定の枠らしい。公立大学でそれをやるのだから、凄いものだ。被災地優遇の一環であろうが、少し違和感を覚えた。

自分も被災者だ……。でも入試と被災者は別なのではないだろうか。他の地域の人はどう思うだろう。

「福島の人だからしょうがないよね」

「自分の原発事故に巻き込まれていれば、震災枠使えたのにな」

羨望の眼差しがやがて嫉妬や妬みに変わるだろう。そんな枠があって「あって当たり前」の世の中にしてしまっていいのだろうか。

いや、それよりも我ら被災者がその善意を「当たり前」と考えてしまうのはきっと良くないことだ。生活支援のみで支えられるべきだ。他のことでも「被災者だから」となってしまっては公平性の観点から良くないのではないだろうか……。

素人ながら、周りから差し伸べられている援助の手を当たり前と思ってはいけない。その手を甘んじてすべて取ってよいのだろうか。それに慣れてしまったならば、それこそ復興の最大の妨げになるはず。

人心はぬるま湯を好む。そして何時しかそれが当たり前のように思えてくるのだ。

入試に震災枠を設けるのは後々の禍根を残さないだろうか。


最近、よく「被災地」とか「被災者」だのの言葉に少し嫌悪感を覚えるようになってきた。それが国の狙いなのか分からないが、何か特別扱いを受けているようで背中がムズ痒くなる。みなはどう考えているのだろうか。聞いてみたが、そんなこと正直に言ってくれるだろうか。いや、この土地ではみんなが被災者。自分の立場を悪くするようなことを言うわけがない。

この悶々とした疑問は自分の頭の中で少しずつ少しずつ大きくなっていることが明らかに分かってきた。自分のこの立場は周りから「うまく利用している」とでも思われているのではないだろうか。できるだけ震災に結びつけて話すのはやめよう。


自分の考えていることはこの地域ではマイノリティであろう。しかし、数年先にこの心配が現実になっているのではないだろうか。そんな心配が大型ダンプが行き交う国道を走っていてふとそう思う。


お金は大切だ。しかし、漬かり過ぎるとダメになる。

それよりももっと怖いのは人の心ではないだろうか。


震災2年目の晩夏に虚しい復興アピールに嫌気がさした自分に少し秋風が……。このまま福島が周りにおんぶにだっこのまま進むわけはない。いつか、とてつもない窮地に陥るようなそんな漠然とした不安感の上に僕らは胡坐をかいている。

そんな状態ではないだろうか。ボクはそう考えていた。


福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》