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震災クロニクル(東日本大震災時事日記)3/12⑤

大型トレーラーが体育館に横付けした。運び役は自分を含めて5人。施設スタッフと市役所の商工労政課の3人だ。水や毛布が来るのかを思いきや、食料だった。PASCOのパンが大量に見えた。その他、水や軽食が大量に積まれている。すべてを体育館に運びこんだ。弁当やお茶、ミネラルウォーター、お菓子。とりあえずは餓死しないようにしているのか。毛布や衣類も多く運び込まれた。

ありがたい。正直、何も喉を通らなかったが。

トレーラーの積み荷が全て運び終わった後、運転手はすぐに出発した。

何かがおかしい。妙によそよそしく、挨拶も無しで出発してしまった。まぁ、次に向かうところがあるのだろう。そのときは特に気にも留めなかったが、もう取り返しのつかないところまで来ていたのかもしれない、何かが。運び終わった後、ちょっと夜食をいただき、暫し歓談。

……しかし口から出るのは不安ばかり。黙っていた方が精神衛生上よいはずだ。今後のことを考えると、食べ物が喉を通らない。アパートはどうなっているのだろうか。安アパートだから倒壊したか。それとも火事にでもなったのかもしれない。静かすぎる夜は無機質な蛍光灯の下、食事をする私たちまでも深い闇に飲み込んでいった。ネガティブなことばかり口から飛び出した。

ふと市役所の職員から出た言葉がその場の空気を凍りつかせた。

「大熊の原発なんだけど……自衛隊の話によると相当危険な状態みたい。」一同戦慄が走った。テレビでも原発のニュースが徐々に時間を割いていった。原子炉の温度が下がらない。そんなニュースや首相会見は夕方からずっとやっていた。炉心溶融しただの、冷却装置が作動しないだの、非常用電源が動かないだの……深刻な問題であることは変わらないが、爆発までには至っていない。みんなマスクをしているが、それは周りの空気に流されての事であった。

きっと大丈夫だろう。

そんな甘えがたった今吹き飛んだ。外国人には原発半径100キロから離れる指示があったという。支援物資を運ぶトレーラーも運転手も川俣よりこちらには来たくないという。

合点がいった。先ほどの愛想のないドライバーはまさにこの状態だったのだ。無理やりお願いして来てもらったに違いない。ガソリンの大型車も会社からこの街には入るなと指示が来ているようだ。

市役所の職員は次々と話し始めた。

21:23 半径3キロ以内の地域の住民に避難指示。10キロ以内には屋内退避を指示

この時にすでに外国人は福島からも離れていた。私たちの知らない間にこの半径は広がっていたのだ。もちろん国ごとに危険レベルの設定は異なるわけだが、少なくともここはもう危険と判断した国は確実に増え始めていた。


自分たちがいるのは原発からの距離25キロ近辺。まだ何の指示もない。しかし、物資はすでに届きにくくなっていた。先ほどのトレーラーが最後の支援かもしれない。

夜食の弁当の箸がゆっくりと進み始めた。味わって食べなければ。もう食事にはありつけないかもしれない。暗闇は明確に絶望的な翌日を確実に照らし始めていた。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》