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自分を思い出す旅②統合

前回の記事はこちら①

1.繋がる

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前回までに、古事記、日本の歴史、世界の歴史、宇宙の歴史と読んだ本の紹介もしたが、全ての話は繋がりがないように思えて、実際に本を読んだ感想としては、一つの繋がった知識の階段を少しずつ登っていったような感覚を覚えた。

自分が書いている話の内容的にも、日本の古事記の話をしていて、神社や神様の話をしながらも、途中で、スターシードや宇宙の話が出てきてみたり、現実的にも、日本の歴史や世界の歴史の本を読んでいたのかと思っていたら、実は宇宙の歴史の本だったり…。

全ては繋がっている。

一般的に「神様は存在しない」と言う認識を持っている人もいるかもしれないが、「神様」と言う「言葉」は現実的な事実として存在している。現実的には存在しないはずなのに、言葉としては存在すると言う矛盾にも関わらず、神様と言われれば「目に見えない存在」だと言うイメージが湧く人もいるかもしれない。

目に見えないのだから現実的な方法で存在を証明する事も出来ないし、逆に現実的な方法で存在しないと言う事を証明する事も出来ないのだけれども。

高次元の存在は、何かを証明しようともしないし、印象を操作しようともしない。もしも、その逆の何かを神だと証明しようとしたり説明しようとする書物や言葉が存在しているとしたら、それは神ではなく別のナニカである。と言う、大きな声では言えない自論を持っていたりもする…。

事実と言うモノはそれ自体が揺るがない事実なのだから、証明する必要性が生まれない。ただ、その同じ現象に対してどの視点から見るかによって違いは生まれる

2.認識

人間は、自分の頭の中に想像して作り上げたそれぞれの世界を認識して生きている。千差万別の世界が存在していて、それぞれが何処からの視点で物事を判断しているかによってミエカタからの認識の違いが生まれる。詳しくは、ミエカタシリーズを読んで貰えたらと思うのだけれども…。

例えば現実的な現象としてリンゴと言う物質を想像した時に、赤だと思った人には赤色のリンゴと言うミエカタが存在するし、〇い形を連想した人には〇と言うミエカタの認識が生まれて、緑だと思えばそれは緑色のリンゴにも、ウサギの形にもなるが、リンゴと言う同じ現象を指している。

各々のミエカタは、それぞれの頭の中に存在している判断と言う事になる。現実的なリンゴの現象としては、千差万別の言葉で表現されるであろう全ての要素が既に含まれている存在と言う事になり、それぞれがどの視点から見るかによって認識の違いが生まれる。

3.統合する

俯瞰したミエカタを知れば、詳細化した単語も、まとまった言葉に再統合する事が出来る。例えば、日本の歴史も、世界の歴史も、地球の歴史と言う言葉にまとめる事が出来るし、神様と言う目に見えないスピリチュアルな話をしていたとしても、古事記だったり現実的に存在している本の中では人間と同じ人物として表現出来たりもする。

今はワンネスと言う言葉などで全てが一つから出来ている事を知っている人も多いかもしれない。元が一つで出来ているのだから、全てが繋がっていたり、細分化した場合でも統合する事が出来る。と言う事も想像が付くと思う。

例えば、極端な言葉にすると「人間は神が土を固めて創られた」と言う表現で言葉が書かれていたら、きっとそんなわけが無い。と普通ならそう思うと思う。ただ、俯瞰して考えた時に、実際にどうやって創られているのかは分からないけれども、人間が死んだ後に肉体を燃やしたら土に還る事は知っていると思う。

現実的な事実として生き物や植物はいつかは土に還る。それを土から創られている。と言う表現のミエカタで考えるならば、土から出来ていると言う表現も別に間違っては無いか…と、少しは思えたりもするかもしれない。要するに何処からの視点で見ているかと言う、ミエカタの違いと言う事になる。

信じられない事を信じられないと言う想いが、自分の頭の中に存在しているのであって、実際の現実としては既に全ての要素を含んだミエカタが同時に存在していて、その中の知識として自分が知っている事の一部分の中から認識したいと思った事を認識して現実を作っている。

全てを俯瞰して考える事は出来ないのだから、知識として何かを知る。と言う事だけでも、新しいミエカタに気が付いたり、同じ現象に対して別のミエカタで考えたりが出来るようになったりもする。

4.軸

今は色々な情報が沢山存在していて、それぞれが参考にしている本も様々在ると思う。何らかの自分の持っている知識との違いが発生した時に、基準点にして自分の中でぶれないようにして揺るがないように芯を作る事は大切だと考えている。

色々な本を読む上で、全てを鵜呑みにしてしまうのはとても危険な行為になる。特に、神様が出てくるような本を読んでいると、神様がこういっているのだからきっと正しい。とか、気が付かないうちにそんな風に思い込まされたり、誘導されてしまっていたりもする。

色々と知識を吸収していく上で、自分で判断をする基準を持てるようになる為に、わざと嫌な印象を抱かせるような本が降って来て、とても悩まされた経験が在る。その必然のおかげで、ある基準点が生まれて自分の中に揺るがない芯を作って判断が出来るようになったりもしたのだけれども、その時の経験からの自論になる。

5.心

例えば、神様を想像した時に、誰しもが神々しさや高貴なイメージが湧くのではないかと思う。だから、苦しませたり、嫌な気分にさせたりする言葉を発言するはずが無いと個人的に思っていたりする。だから、もしも神様と同じ名前を使って語っている言葉で在ったとしても嫌な気持ちを抱かせるものは高次元からの発言ではないと思っている。

神様ならば、自分の正しさを証明する為に、自分を信じて欲しいとお願いをするはずがない。何かをせずとも、そうなると言う必然で導くはずだと思うのだけれども、それを、こうした方がいいとか、こうしなければ幸せになれないとか、人の気持ちを誘導したりしようと仕向けたりするのは別のナニカだと思っている。

宇宙は広い。様々な段階が存在する。もちろん、その中に人間も存在して、全ては繋がっている。だから、その人それぞれが居心地が良いと感じる所に自然と惹かれて集まるように出来ている。自分にとって楽しいと感じる事や信じたいと思う事を、自分の中に想像して自分の世界を創造していく。

6.知識

全ては必然を受け入れると言う事の積み重ねで出来ていたとしても、辛いと感じるよりも、幸せを感じて、毎日に感謝をする事が出来た方が自分は居心地が良いと考えている。

知識としてのミエカタを知っておいても、今はそんな風には思えなかったとしても、いつかはそんな風に考えたりする日が来るかもしれないし、どう思うようになるかなんて分からないのだから、誰かのいつかの役に立てたりしたら嬉しいなって思って自分の体験談を書き残していたりする。

こうやって書いていたとしても、別にスピリチュアルな事を仕事にしている訳でも無いし、何らかの能力が在ってそれを人に教えたりしている訳でも無ければ、知識からのコンサルをしている訳でも無い。誰かを変えたいとか、世の中の為にとか、大それた何らかのテーマを信念にしたりもしていない。

趣味で体験談と言うおとぎ話を書き綴ってはいるけれど、大体「自分の思いや自分が体験した話」を書き綴っているに過ぎない。それをどう思うかは、千差万別の世界が存在しているだろうし、自分にとっての世界は自分の中だけに存在しているのだ。

では、何の為に書いているのかって聞かれたら、分かんないけれどそれがきっと自分の為になるんじゃないのかなって思う。よくは分からないけれども、自分にとって楽しいとか幸せだなって感じられる事をする日々を送る方が自分の心にとっても嬉しい事だと思うから。

7.思想

何かを信じる心が悪いのではなくて、信仰心を利用したナニカと言う話だったり、逆の立場からすれば、そうして貰えないと困るからと言う同情心と言うナニカだったり、ここまで親身になったのだから断れないだろうと言う、世間体を利用したナニカだったり…etc

もしも、神様って言う人物が存在していたとして、神様の行動とは似ても似つかないようなそんな行動ばかりをしているような人物だったとしたら、神様だとはきっと思えないのではないかと思う。だから、神様と言う人物像そのものが別に凄いのではなくて、神様みたいだとそんな風に感じてしまうような行動だったり言葉だったりが重要な方なのだと自分は考えている。

まずは自分の中のブレない芯が、何かを判断する上で基準点になったりする。外の世界は錯覚で、自分の中にしか自分の世界は存在しない。自分がそうだと感じた事をそう思う世界が自分の中に創られていく。

自分以外の誰かは存在しない。誰かの発言で自分の芯がブレそうになった時には、誰かの発言が気になった自分が居るだけで、その発言を気にしない人だって存在すると言う事。もしも、自分だったからその発言をされたのだと、そう感じても、そう感じる自分が居ただけだと言う事。

自分の世界と同じように、相手の世界には相手しか存在していない世界で出来ている。だから、相手の世界の中には自分の所為だと感じる要素そのものは存在していない。相手だけで出来ている世界で出来ている。全ては自分が思った事の鏡で、全てはそれが反射した錯覚から出来ている。俯瞰したミエカタ。そんな不思議な世界のおとぎ話。

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