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トラウマは自然発生しない。

トラウマに苦しむ人が多い。私もたぶん、ちょこちょこと抱えている。その原因の深刻さはもっと大変な人と比べると小さいものなのかもしれないけど、それを人に話さないのでその深刻さがどれほど大変なことなのかも自分では判断できない。

同じ苦しみを背負ったことがある人と出会うこともあるかもしれないけど、あっても「私もさ」と話すことはまずないと思うから、客観的に誰かと比べることもこの先、ないだろう。

それにダメージに対する耐性は人によって違うからダメージの元となる物事の大きさをどうのこうの考えても仕方がない。誰かにとっては3のダメージでも、自分が10のダメージを感じてしまえばそれは10なのだ。noteに来て、そのくらいのことを理解するようになった。

ただ自分でうまく消化することはおそらく一生ないと思っている。でもそれでいい。消化するためにそれを誰かに話さなければいけないというのであれば、消化はしなくてよい。

トラウマって誰かから与えられて生まれるものだと感じている。

突然、自然発生するものではない。自然災害とかのトラウマを抱える人は、誰かからではなく自然からということになるが、いずれにせよ自分発ではない。

よく考えてみると、私にトラウマとして心に残るようなことを与えた人たちは、私ではなくその人たちの心の事情が良くなかった状況での発言、行動だったんだと思う。

つまり、その人たちが不安定だったせいで私がそれをぶつけられたということだ。ぶつける意図はなくても間接的に私に影響を及ぼした。そのせいで、私はしばらく心の状態がおかしくなったりした。そうされた原因が自分にあったんだと思ってしまうから余計にコントロールが効かなくなる。

「私は間違ってなかった」と何度も思おうとしたし今も思っているけど、それでもそれを言葉じゃなくて心の奥から跳ね返せる力がなかったんだと思う。

正直なところ、なんか納得できないな。どうして自分じゃない人から受けたことで私が抱えないといけないんだろう。

「私のせい」じゃないはずなのに。あっちの心の都合だったせいなのに。

このnoteは何か解決できることを書いたわけではないけど、トラウマって自分発じゃないと気づいていることが何かのヒントになるかもしれないと思って書きとめた。こういうのをくぐり抜けた人もnoteにはたくさんいるだろうね。まだ今もぐるぐるしている人もいるだろう。私は後者かな。そこもよく分からない。

でもこういうことを書くとね、過去に椿は一体どれほどひどい経験をしたのかと思われてしまうと思う。詳しく書かないから余計にそう思わせてしまう。でもたぶんそれほどすごいことではないんですよ、と私は思っているけどあんまり同じトラウマを抱えている人は少ないと思う。その人たちもみんな口を貝のように閉ざしているから少なく感じるだけなのかな。どうだろうね。

ただね、それが私にとって一生の呪縛となるようなものであれば、私にとってはかなり深刻な傷なんだと、自分の不安な感情を肯定してもいいはずなんです。自分の心を認める、受け入れるということですよね。

まだこれが苦手なんです。


#エッセイ #トラウマ #原因 #心 #note



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