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noteの世界は広くて小さい。

noteって物事をたくさん考える人が多くて、その内容も深くてすごいなぁと思う。私はいろいろ考えるんだけど、あんまり物知りではないと思うし思考もそれほど深くないかもと思いはじめた。だってみんなすごいし。

別にそれが良い悪いという話ではないけど、どうしてみんなそんな難しい言葉を使えるんだろうとか思う。読んで意味が分からない事はなくて、意味は分かる。大体の言葉は知っている。でも自分が文章を書くときにはそういう言葉は浮かんではこなくて、いつも普通の文章で平凡な言葉たちだらけになる。つくづく普通だな。

何か悩み事を抱えていても、ずーっと考えているとよく分からなくなってくるし、脳が疲れてくる。それで考えるのをやめてしまって、誰か助けてって思う。ぜんぶ決めて、抱っこしておいてほしい。私を大切にしてくれる腕のなかに。もう大人なのにそれがもしかしたら一番の望みかもしれないな。サンタさん、どう? くれる? 安定の他力本願。

だいたいどうして私みたいな人間が答えにうまくたどり着けないような悩みを抱えてしまっているのかが不思議だ。こんなはずじゃなかった。でもみんな何か抱えているんだろうね。私なんてそれほどの悩みではないのかもしれない。自分なりにはしんどいけど、そんなの答えは二択じゃなくて一択なのかもね。確かにそうなのかもしれないと感じる。

感情というものがついて回る。ときどき泣きそうになる。つらいなぁと思う。自分もつらいし誰かもつらい。その両方でつらくなる。前はこれがトリプルだったけど今はダブルだから楽になってるけどね。自分がね、目を瞑ればそれでいいんじゃないかと一日に何度も思う。

母が昨日言った。どこかのとても素晴らしいお坊さんが「人から言われた言葉に「なぜ?」と考えないほうがいい」と言っていたと。「なぜ?」は相手を否定する行為になるらしい。「なぜ?」と思わずに素直にそのままを受け入れたほうがいいという話らしい。一理あるのかな。そうであるほうが心が穏やかでいられるという面もあるように思うし、一見、悟りの境地のようにも思える。でもちょっと混乱した。何が無理で何がオッケーなのかをここのところ見極めようとしているから。だって自分の気持ちは大切にしなくちゃね。「なぜ?」と湧くなら、自分にとって疑問なわけでね。

私は生きるということそのものについて、あまり深く考えたことはなかった。大学を出て就職してわりとすぐに結婚をして家におさまった。15年くらい専業主婦として生きて、そのあと仕事を始めたけどフルタイムってわけじゃない働き方をしている。仕事も必要に迫られたわけではなく偶然はじめた感じで、ぜんぶなんとなく流されるままの生活を送ってきた。

noteに来て強く思ったのは、世界は広いなということ。自分の現実の生活には自分とよく似た環境の人ばかりがいて、よく似た価値観を持っていて、もちゃもちゃと仲良く過ごしていたけど、noteは違う。本当にいろんな価値観の人が混在していて、強い人もいれば弱い人もいて、生き方がみんな違う。とても刺激を受けた。だから自分の生き方というものを考えた。何が問題なのかを見極めようとした。

noteは私に刺激を与えてくれた広い世界。だけど本当の世界の中ではほんの小さな場所で全然広くない。むしろ小さい。じゃあ本当の世界ってもっともっとものすごく広いんだね。つまりそれってそういうことなんだろうね。と結論を濁す。書かなくてごめんね。

小さなクリスマスツリーをテレビの横に飾っている。やっぱりクリスマスグッズはかわいいね。部屋が華やぐ。寒くて苦手な冬をワクワクする季節にしてくれるね。

来年はコタツを買いたいと思っている。電気代を節約してコタツに入ろうと思う。おしゃれなコタツが無印で売られていた。でも電気代を節約するためにスタイリッシュなコタツを買うってね、余計に高くつくかもね。本末転倒になりかねない。それでもほしい。

みんな今日も元気でね。



お気持ち嬉しいです。ありがとうございます✨