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草列とピアノ 

小さい時、私は言葉をほとんど話せないこどもだった。
言葉を話せることと、記憶することができることの間に
関連性があるのかはあまりわからないけれど、
小さな頃の記憶が自分にはあまりない。

たぶん、ちゃんとした記憶がはじまるのは6歳の時からぐらい。

でも、ちゃんとした、というのもよくわからない。
記憶は自分の都合のいいように変わるし、
自分が絶対にそうだと思っていても、
人に確認したら全然そんなことなかったってことが、沢山ある。

でも、自分にとっての記憶というのは、
自分にとってはそれが本当だと思うということが
実際の事実や真実よりも、きっと大事で
どんなにそれが他者から見たら嘘や虚構だと思われても、
私には本当なら、それが本当のことなのだ。


6歳の時、私ははじめて人の死を知った。
はじめて行ったお葬式の、黒と白の風景と、花の色の鮮やかさ。
普段はあまり着ない黒い服を着て
私は葬列に参加した。

死を知らない私は、棺の中で眠るその人の
白くて細くて動かない手の輪郭や指をなぞり、
その冷たい硬さに触れて、
「どうして動かないのだろう」と思った。

あの人はしんだんだよ、と言われたけれど、
その言葉の意味がわからなくて、
「し、ってなに?」といろんな人に聞いたけど
誰もそれにちゃんと答えてはくれなかった。

し、とは何?

私はまだ、ほとんど何の言葉も知らないこどもだった。

あのひとはしんだ。
あのひとはしんだ。
あのひとはしんだ。

聞いた通りの意味のわからない言葉を
歌うように何度も何度も口ずさんでいたら、
ふきんしんだ、とまた知らない言葉で怒られた。
どうして怒られたのかわからなくて
私は何も言えず、だまり込んだ。

し、とは何?

私はまだ、知らないことが沢山あって、
でもそれを知る方法も自分にはあまりなかった。
わからないけれど、私は自分の中に、重くのしかかる何かがあるのを感じる。
それは私の喉やお腹をぎゅうと静かにしめつける。

私のそばに、一台の小さな赤いおもちゃのピアノがあった。
ピアノを習っているこどもではなかったので、
その弾き方をよくは知らないけれど、
私は人差し指ひとつを伸ばして、なんとなくそれに触れてるうちに
この音はきれいだな、と感じる音を見つけた。

いくつかの音をつづけて押すと、ひとつのメロディになった。
それはどこか、自分の感じる意味のわからない暗い感覚に近いと思う音だった。

ピアノの音はきれいだけど、どこかかなしかった。
かなしい音がきれいだと、私には感じられた。

一人でそうやってピアノを弾くうちに、小さな曲ができた。
私はそれが歌だと気づき、「おそうしきのうた」
と、自分の中で名前をつけた。
あの時見た風景、そこで感じたことと
その音から感じる感覚とが
自分の中で同じものに感じられたから。

あの日の白と黒の風景。花の色。
ピアノの鍵盤の白と黒。赤い色。


こどもの時、私はたまにものすごい寂しさの暗さが襲ってくる瞬間があって、
誰といても、何をしていても、どんなに楽しかったとしても、
その寂しさはいきなり私のところにやってきて、
私はそこにのみ込まれた。

それは誰にもうまく伝えられないけれど、すごく確かな実感としてあって、
それがやってくる胸騒ぎがするとそれはやってきて、
「きた」と思う。
私は耳鳴りと頭痛とたまらない強い不安感で息ができなくなり、
急いで今自分がいる場所から逃げると、
誰もいない場所の片隅にうずくまりしゃがんで、
目を瞑って耳を押さえ、頭を抱えて、やってきたそれが過ぎるのを待った。

その中にいる時、私は何も見えなくなった。
自分は文字通り真っ暗闇の中にいた。
世界中の音がきこえなくなった。
ただ早鐘を打つ自分の心臓の音だけが鮮明になった。

「くらやみがやってくる」
と、私は呼んでいたけれど、誰かに伝えることもできなかった。

嵐が過ぎ去るのはただ待つことしかできない。
それがやってきて、それが過ぎるまで
ただひとりでその時間を耐える。
その間、息をすることもままならない。
発作のように、いつ起こるかわからない
心臓や胸がすべて強く掴まれて圧迫され
宇宙の闇がいちどきに凝縮したような
痛いほどの寂しさがどこかからやってくる
たったひとりの私の中に。

自分でも何かわからない。
けれどそれは紛れもなくひとつの恐怖だった。
自分にしかわからないこわいもの。

大きくなるにつれ、それがくる時間は短くなり、
発作の間隔は広がっていき、回数が少なくなって、暗闇の濃度も薄くなり、
今ではそれがやってくることはなくなった。

みんなそうなのだと思っていたけれど、
人にその感覚の話をしても
あまり理解してもらったことはない。

ただでさえも言葉がほとんど話せなかった私は
その暗闇の発作におびえながら、
けれど人からは
「しあわせそうにいつも笑ってるこども」
と呼ばれて、可愛がられ、何も言えずに
やはり笑うことしかできなかった。

誰にも、わからないんだ。

言葉にしてそう思っていたわけではないけど、
私はたぶん、とっくにそれを伝えることを
自分の深い部分からあきらめていたと思う。

でも、ピアノに触れ、
その音を弾いてる時だけは
自分のその途方もない寂しさの怖さに
おびえつづけている心を
音やピアノに預けることができた。

この音は、
この小さなピアノは、
人差し指ひとつだけで鍵盤を押す
私の中にある言葉にできないそれを
ちゃんと知ってくれていて、
このきれいな音を鳴らして
私にだけ応えてくれる。

暗い部屋でうたを弾く。
小さなメロディが流れる。

私はただ、かなしいと思う。
すべてのことがかなしい。

し、とは何?

それはわからない。

でも、私はただ、かなしい。

ピアノの音はきれいに響く。
私はそれが星の音のようだと思う。
人はしんだら星になるとこないだ知った。
夜空の星はきらきらひかる。
それはきれいだ。
だからきっと、私はこの音がきれいだと
感じるのだろうと思う。

あの人はもうどこにもいないのだ。

あの人のいた棺はもう灰色の焼却炉で燃やされてただの煙になって空にのぼっていった。
私はその光景を覚えている。
その周りで、いろんな人が泣いていたことも。
私は泣けずに
ただそのすべてを見ることしかできず
じっと見つめていたことも。

ピアノはそんなことのすべてを知ってくれていて、
ただきれいに、音を鳴らしてくれた。

大人になって、ある星はいつか消えた光であると知った。
何光年も先でいつか遠い昔死んだ星の光が
とても長い時間と距離を超えて
今・ここに、見つめる私の目に映る。
それはどんなにきれいでも、
もう存在しない星の光だった。

宇宙は広くて、科学的にもほとんどのことがくらやみとしてしかわからず
知覚できるのはたったの5%くらい。

私は大人になって少しは言葉がわかるようになってきたけど、
今だに世界のほとんどのことがわからないし、
自分に本当にわかると思えることなんて
実際は両手の指の数にも満たないだろうと
なんとなく感じている。

あの小さなピアノは古びて壊れてしまって
いつの間にか捨てられてなくなっていた。
それがあったことさえ忘れて生きていて、
思い出して母にきいた時には
もう既にどこにもなかった。


でも、私は言葉を今では書けるようになっていたから、
自分の言葉の中でなら、あのピアノとまた何度でも出会うことができた。
あの小さなピアノと向かい合って、
今ではほとんど忘れてしまったうたを
いつでも演奏することができた。

私はあれから何度も人の死を経験し、
自分の身の回りからいなくなってしまった人を
誰かが消えてしまうしずけさを知っている。

人は死んでも星にはならないかもしれない。
燃えてただの灰と骨になり、
それすらいつか風化して
何もなくなってしまうかもしれない。
記憶や体温や声や眼差しさえ
どこにもなかったみたいに失われる時が
いつかはやってくるかもしれない。

私自身もいつかはそうやって死ぬ。
この世界から消えて、いなくなる。

それは想像することもうまくできないけど、
たぶんきっと確かなことだった。


私は今では言葉になってしまったピアノを
言葉として、ひとりで弾く。
沢山のことがわからないけど私はわからないまま
まだここで生きていて、
いろんなことを忘れながら生きていて、
たまに思い出したり
何も思い出せなかったり
それすら忘れてしまったり
呼吸を繰り返しながら意識せずとも動く心臓の音に生かされて動いている。

いつかいなくなってしまった
あの人の出てくる夢を見た。
そこでは私も笑って、
あの人も笑って、
誰も泣いてなんかなくて、
みんながただ笑っていた。

それは夢の話だと人は言うだろうけど、
きっとどこか遠くの明るい午後の部屋の中では
今も本当にその時間は存在していて
そこでは誰も死なないし
誰も泣くこともない。
みんなはちゃんとそこにいて、
誰もそこからいなくならない。
そういうただの明るい場所がある。
かなしみでもよろこびでもない
この世界とはちがう角度で差す光の
その光と光が交差する場所。

宇宙のほとんどすべてのことがわかっていないのに、
そんな時間と空間がないのだと
一体誰に証明できるだろう?
宇宙はひとりの心の中にすべてしまえるかもしれないし、
ひとりの心をひらいてみたら
宇宙の中でさえ、収まることができないかもしれないのに。


思い出して、あなたがそこにいると思う。
それならいつでも、あなたはそこにいる。

どこにもいなくなりはしない。
その光の中に、あなたはいる。
私のそばで音もなく笑う。


私はいつでも小さなこどもの頃に戻って
裸足のまま地面に足をつけ
どこまでもつづく草原を駆けて
青空の下でずっとそこで待っていてくれた
あなたとまた出会う。

いつの間にかあなたのことを
ずっと忘れて生きていたよ、と
でも、私が忘れていても
あなたはちゃんと覚えていてくれたんだね。

そんな短い会話をして
私たちは別れる。

けれどさびしくはない。
それはたぶん変わることのない時間の中で
何度も繰り返されることであるから
いつでもまた会える。
何度でも巡り会う。


言葉になったピアノはもう壊れることも
死ぬことも古くなることも捨てられることも
忘れられることも消えることもなく
私のそばで、私の声をきいて
私もまたピアノのこぼす声に耳をすまし、
向かい合って、言葉を交わす。

私は空の星を指差す時のように
人差し指ひとつを出して
ピアノの鍵盤に指を置き、
そっとそれを押して
ひとつのうたを演奏する。

何度でも私はその小さなうたを歌う。
ピアノはそれを何度でも鳴らしてくれる。

いつまでもいつまでも
その音は消えることなく
空には星が瞬き、
何度も夜と朝が繰り返され、
私たちはひとつのうたを歌いつづける。



























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