掌編小説『札束風呂の湯加減は?』

        あらすじ

結婚してもうすぐ一年を迎えようかという夫婦。夫が自宅マンションに帰ると、妻が死んでいた。風呂場の、なぜか札束一杯の浴槽の中で。どこにこんな大金があったのか。そして、どうしてこんな死に方を?

         本文

 結婚してもうすぐ一年になる。だから会社からの帰り道では、紙婚式の祝いをどうしようか考えていた。
 中古マンションの自宅に帰り着き、妻の名を呼んだが返事がない。室内は暗くて、でも履き物は残っている。家中あちこち探す。嫌な予感が大きくなる。防犯カメラはないし、エントランスの自動ドアにロック機能はない。高くてももっとましなマンションを探すべきだった。
 後悔の渦に巻き込まれながら、探しに探して、最後に行き着いた。風呂場の浴槽の中に妻を見付けた。
 妻は死んでいた。頭の後ろ辺りから血が流れていた。
 そして何故か、浴槽は万札で一杯だった。

 警察を呼んでから、色々と気が付いた。
 うちにどうしてこんな大金があるんだ。そもそも本物の一万円札なのか? 全部真札? だとしら数枚くすねても分からないんじゃないか……とまでは思わなかったが。

 浴槽から出された妻は、さすがに全裸ではなく、仕事に出るときによく身につけるスーツ姿だった。ただ、わざわざ袖をまくり上げ、スカートの裾も大きくまくれ上がっていた。
 札束風呂にリアルに入るなら、服の着用は必須だろう。肌にお札が触れたって気持ちよくはないし、むしろ不快なはず。下手すると、お札の縁で肌を切って出血を見るかもしれない。それなのに何故、腕や足を露わにしていたのか。事実、外から見える肌には傷がたくさん見られた。

 奥さんにはこういう趣味があったんですかと、無神経な刑事に無神経な質問をされた。無論、否定した。金の出所についても知らないと答えるほかなかった。刑事の話しぶりでは、どうやら全て本物の一万円札のようだった。

 しばらくして別の刑事が報告に来た。洗面台のネジが複数緩んでおり、外して調べてみたところ、壁に穴があいていた。穴は入口こそ狭いものの奥行きがあり、横にも広がっていたので、金が隠してあったと考えれば辻褄が合うという。
 入れ違いにまた別の刑事が来て、一万円札は全部で二十二万九千四百三十七枚あったと告げた。あの札束風呂に、二十三億近い金が使われたのか……。

 刑事達がごにょごにょと話をし出したので、聞き耳を立てていると、三十億円横領殺人事件という言葉が漏れ聞こえた。
 十年ぐらい経つだろうか。某仮想通貨を運営する社長が行方をくらました。仮想通貨を約三十億円とも言われる現金に換え、自らは死んだように装ってとんずらを決め込む計画だったが、側近の一人と仲間割れして、本当に命を落とした。その殺害犯は逮捕されたが、金は行方不明になっていた。
 有名な未解決事件の一つだが、まさかあの事件の金が、うちの壁に隠されていた?
 前の入居者について問われたが、何も知らなかった。刑事達はマンションの管理会社に問い合わせるようだった。

 あとは刑事から聞いた事後報告のようなものである。
 前の入居者である男性は、交通事故死していた。両親が地方から出て来て、遺品を整理し、そのまま引き払った。両親は息子が犯罪に手を染めていることも、大金が隠されていることも知らなかったに違いない。
 大いに慌てたのが、犯罪仲間の連中。事の次第を知るや、すぐさま次の住人として入居を試みたはずだが、一歩遅かった。そう、我々夫婦が先に契約したのだ。
 全く運が悪い。犯罪者連中の運ではない。我々の方だ。こんな部屋を借りられることになったばかりに、妻は犯罪に巻き込まれ、命を落とす羽目になったのだ。せめてあの日、妻の仕事が早めに切り上がることなく、定時に帰ったのなら、侵入していた犯人と鉢合わせすることはなかったろうに。

 疑問がまだ残っていた。
 犯人達は、どうして金を持ち出さなかったのか。それどころか、札束をわざわざ浴槽にぶちまけた理由は?
 刑事が説明する。
「犯人の一人が白状した話から想像を交えて状況を再構築すると、次のようになる」
 早めに帰宅した妻は、室内から聞こえる物音で異常を察知し、咄嗟にスマホを構えた。動画なり写真なりで犯人とその行為を撮影し、即座にネットに上げられるようにした。これを材料に犯人らを追い出そうと試みた。
 が、犯人グループの一人が動揺のあまり暴走。妻は後ろから殴りつけられ、命を落とす。その際の衝撃でスマホは落下し、壊れたが、もしかすると画像(動画)ファイルは送信されたかもしれない。
 そして何よりも犯人達を不安に陥れたのは、撮影された画像の正確なところを掴めないことである。紙幣番号が映っていたら、そのお札は使えない。だがどの番号が映ったのか? これではマンションの外へ運び出せたとしても、危なくて使えない。確実に映ってない札のみを持ち出し、あとは置いていくしかなかった。
 元の場所に隠す時間はなく、燃やすことも考えたが、あまりに大量なのと、スプリンクラーの作動を恐れて断念したらしい。
 また、一味の何名かは、札の縁で頬などを切っていた。血の付いた札を現場に残したままにすることはすなわち、DNAという証拠を残すことである。回収するにも数が多すぎるし、うっすらと付いた血はもはや見分けるのも至難の業。窮余の一策として、被害者の血で札を汚してしまえば見分けが付かなくなり、検査が甘くなるのではないかというアイディアを絞り出す。そして洗面台のすぐ隣には、浴室があった。追い込まれた犯人らが札束風呂という珍妙な発想をしたのは、自然な成り行きだったのかもしれない。

 事件で妻を亡くして以来、風呂に入るのを躊躇うようになった。心理的なものに違いないのだが、妻の死に様を思い起こして、申し訳ない気持ちに支配されてしまう。
 一度、償いのつもりで札束風呂に入ってみようと考えたことがあった。でも、仮に一万円札を千円札に置き換えても無理だと分かり、あきらめた。

 終

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