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”自分のために生きること”、心が作り出す意識を越えた本当の私、自己そのものである「純粋意識」


白という色は、
よく「純粋さ」「シンプルさ」
「清潔さ」を連想させます。
日本でも古来より
穢れなき色として、文化と
密接に関わってきました。


「純真」は
心にけがれがなく清らか、
「無垢」も、
あかがなく汚れがないこと、


そして、白無垢の白い色にも
色々な意味が込められていたようで、
室町時代より前の平安朝時代には、
白色は神聖な太陽の光にたとえられ、
生まれ変わりを意味する
婚礼の衣装に使われていたそう。


古代の日本人にとって、
「白」は純真無垢
「しゅんしんむく」で潔白を表し、
神事に関係ある神聖な色として
特別な存在でした。
この伝統は現在に至るも
変わっていません。


人間の成長や発達については、
思弁的議論から科学的研究
(発達心理学や人格心理学などの知見)
に至るまで、多種多様な見解が、
また多くの場合、成長や発達は、
階層的、段階的にとらえられています。


たとえば、
「ピアジェによる知能の発達論」
「コールバークによる道徳性の発達論」
「エリクソンのライフサイクル論」
「マズローの欲求階層論」
さらに、シュタイナーの
「人智学における七年周期発達論」、
ウィルバーの
「アートマン・プロジェクト論」など、
さまざまなものがあります。


教育学
(人間に知識や教養を与えたり、
能力の向上を促す行為)のなかでは、
成長や発達に加え、関連分野の
議論を引きながら、しばしば、
開花、成熟、 自己実現、進化、
変容などが語られます。


たとえば、
成熟(オルポート)、
自己実現(マズロー、 ロジャーズなど)、
生成(オルポートなど)、
プロセス(ホワイトヘッド)、
個性化(ユング)、
進化(ド・シャルダン、ベリーなど)、
自己組織化(ヤンツ)といった
概念を援用して、
奥行きのある議論が展開されます。


”変化するのは人間だけではなく、
世の中にあるすべてのものが変化して
たえず変化する世界のなかで
個々の人間もまた変化する”


”この世界にあっては、
あらゆるものが生まれては滅し、
来ては去り、何も永続するものはなく、
たえず変化している”


”あらゆるものが
一時的な現象として
存在するにすぎない。
人間もまた同様である。
人間の身体はもとより、
感情や思考もたえざる変化の
なかにある”


変化する世界のなかで、
その内側から人間の変化する姿を
見ている教育学は、
世界の内の立場に立って、
人間と世界の変化をとらえる営みを
展開してきたといえますし、
成長や発達という名のもとで、
そうした「変化の法則性」を
見いだそうとしてきたものです。


それらすべてに共通しているのは、
人間の「生」を動的な形成の視点から
見るということです。
このように人間の「生」を
人間形成の視点から見るというのは、
「生」の諸現象に内在している
人間形成的の意味を明らかにする
ということです。


ただ、世界内の立場から
生の変化について語ることは、
現実の半面しかとらえていない、
これに対し、神秘思想はしばしば、
世界内で変化する「生」ではなく、
それとはまったく次元を異にする、
世界そのものを超出した
「現実」について語っています。


そこでは、何も変化しない、
普遍的で絶対的な相が語られる、
しかし、
人間形成を主たる関心事とする教育学は、
そうした面にふれることがない、
つまり、両者は決して相性よく
並び立つようなものではなく、
むしろ、著しい対称をなしている
といえます。


教育学の言説は、
変化しない絶対相をとらえることはなく、
他方で、絶対相についての語りは、
変化する局面に着目することはない。
神秘思想においては、
変化する局面は真に存在するものではなく、
あらわれや幻想とみなされる、
つまり、両者はまったく対称的な見方を
示すのです。


こうした変化しない絶対相への着目を、
ここでは「世界外」の視点と定義します。
この視点では、
変化する世界(世間)の中からではなく、
そうした世界を超え出たところで
現実を見るからです。


ただし、この定義自体は、
あくまでも「世界内」の立場から、
そうした見方をとらえた
相対的な呼び方にすぎないですし、
「世界外」の絶対的視点では、
それに対するいかなる外部も存在しない。
実際には「世界外」として
括られる特定の領域があるわけでは
ありません。


そうした世界外の現実を
「純粋意識」ないし「純粋な気づき」
(pure awareness)と言いたい、
それが、物質的現実ではなく、
意識そのものであり、
その意識が個々の意識内容に
限定されておらず、純粋なので、
純粋意識(気づき)と
呼んでおきたいと思います。


世界外の純粋意識は、
すでにいつでもあるものであり、
生じて滅するものではなく(不生不滅)、
変化することなく(不変)、
限りがない(無限)。


これに対して、
私たちの通常の日常意識は、
分節化され、個々の意識内容に同一化し、
さらにその内容を対象化して
とらえています。
こうしてさまざまな対象からなる
日常的現実がつくりだされて
いるのだと思います。


自分が何を決定しようと、
その背景には自分だけの
「倫理観」「価値観」があります。
それが
「いいことなのか」
「よくないことなのか」と
是非を問わずにここまできました。


人間らしい幸福とは、
自分にとっての『価値』を
実現した結果として
達成される状態だと思っています。
ですから、
自分の価値を実現しようと思えば、
当然のこととして困難に
直面することがあります。


たとえば、
独立して事業を起こそうと思えば、
幸運だけで成功することはなく、
新しい取り組みに失敗はつきものです。
失敗するのは気分の良いものでは
ありません。
しかし、”失敗”を客観的に観察し、
学習することによって
次の成功(成長)が生まれます。


でも、もし、失敗したときに
「幸せ」という
”気分かどうか”によって、
物事を判断していたら
どうなっているでしょうか。
長期的な成功や成長、
発展や繁栄は不可能になって
しまうでしょう。


「頭のよさ」とは一般的に
目に見えるかたちで表されることが
多いのではないでしょうか。


しかし、今まで多くの
心理学者や脳科学者、
そして教育学者が
「頭のよさ」や「思考」を
定義しようとしてきましたが、
「頭のよさ」についての
定義はありません。


頭のよさは生まれつきであり
変えることができない、
あるいは、頭がよい人は、
間違いを避けて正解に
だどり着くのが上手だ、


たとえば、このように思い
決めてかかっていると
いうことはないでしょうか。


実は世の中のほとんどの人が
同じ誤解をしています。
ところが実際は逆で、

"頭がよい人はたくさんの間違いに
ぶつかったから正解がわかる”


どんなに
挫折や不運に直面しても、
簡単に諦めずに自分の道を進む人たちは、
幸せな気分などに囚われていない、
失敗しても、成功(成長)するまで
続けていく、
それは実現したい『価値』が
自分にとって大切なものだからです。


人は『価値』を実現して
幸せを達成します。
これが『客観的事実』であり、
つまり、『幸せは結果』です。
反対に、幸せを目指しても
幸せは手に入らない。
幸せは正当な目的たり得るものですが、
決して人生のガイドにはならない。


諸星大二郎さんの漫画に
「夢見る機械」という作品が
あります。
主人公の少年のまわりの人間が、
両親も隣人も学校の先生も、
誰も彼もがドリームマシーンという
装置に入って自分の夢を
仮想現実として生きていて、
街を歩いているのはすべて
身代わりのロボットに
置き換わっています。


ここで戯画的に描かれているのは、
人の幸せが気分であるという
”幻想”であります。


なぜ、現実の生活を全て捨てて
ドリームマシンに入る人間が
いるのか、それは人間として
生きることの放棄に他ならない、
もし、
気持ちのいいハッピーな気分を
味わうことが、すなわち、
人間の幸福であるなら、
ドリームマシンに入って
幸せな気分に浸るほうが
効率的だからです。


しかし、人間は現実の中で
生きています。
ドリームマシンの中で
生きているわけではない、
人間が人間らしく生きるためには、
自らの意志で合理的な
『価値』を選択し、


自らの努力や行動によって
『価値』を実現し、学習し、
成長していくほかない、
これは決して時代遅れになった
古くさい価値観の蒸し返しなどではなく、
クリエイティブ階級と
非クリエイティブ階級の
大きな違いにも相当する、
決定的な要因だと思っています。


クリエイティブ階級は、
決して、ごく一部のエリートの
呼称ではなく、
自分が創り出したいものを見出し、
自分で創り出すことを選択した
人たちです。


人が人として生きていくためには、
長期間にわたって自分の価値を
創り出さなくてはならない、
そして現代社会において
それは誰にでも可能だということです。


非凡な才能や高い地位、特権など
必要なく、自分の選択でそれが
可能であり、逆に選択しない場合は
不可能なことなのです。


衣食住、移動手段など、
様々な面で量的に満ち足りた人類は、
「量」から「質」の時代へ
進んでいます。
現代は本当に豊かな時代です。


私たちは豊かさのなかで、
さまざまな「選択肢」を
もつようになりました。
それを自由と呼ぶ人も多いでしょう。
しかし、それは裏を返せば、
これだといえるたしかなものが
なくなったということが
いえるのではないでしょうか。

「アイデンティティの危機
(identity crisis)」とは、
現代人がその豊かさのなかで
たしかな他者とのかかわりを見失い、
自分を実感できなくなっている
ことをいいます。


自己理解に寄与することを目指して
アイデンティティ概念を
捉え直すことを試みるときは
まさに今この瞬間からでは
ないかと思うのです。


「アイデンティティ危機」とは、
意識としての自分が
こうして生きている自分に
「違和感」を持つことであり、
「アイデンティティ達成」とは、
意識としての自分がこうして
生きている自分に
「納得感」を持つことである、


すなわち、
アイデンティティ危機を
克服していくことは、
子どもから大人への過程をたどる
青年期(境界人、第二の誕生、
人格の再構成など)において、
社会の中の自分の居場所を探す中で、
アイデンティティの達成を
目指していくプロセス、


現代は情報過多といわれる時代、
世界中のありとあらゆる情報から
自分が本当に必要なものを選び、
その真偽を確かめ、
将来起こる事態を予想し、
その対処法を考える力が
求められることから、
論理的に考える力が必要不可欠
だといわれています。


情報は、論理的で、誰もが
その言葉通りに受け取れるもので、
そこに”感情”は発生しません。
情報伝達とコミュニケーションは、
異なります。


”人間ならば誰にでも、現実の
すべてが見えるわけではない。
多くの人たちは、見たいと欲する
現実しか見ていない”


ローマ帝国の礎を築いた
古代ローマにおける最大の英雄
「ユリウス・カエサル」が
こう言ったのは、
今から2000年以上前。
昔から、人間とは、
自分の見たいものしか
見ようとしない生物で
あるようです。


人間は現実を見ているつもりに
なっていても、自分の意識した
ものしか見ていないもの、


つまり、
私たちのこれからの
「再選択」の累積にかかってきます。
変わるだけの土台ができたとしても
私たちが「何を選択するのか」
それによって左右するわけです。


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