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VERITAS Seminarii

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神の像と類似性

神の像と類似性

神化思想において、創世記1章26節は非常に重要な聖句です。

「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」"(創世記 1章26節、新改訳2017)

第一に、「われわれのかたちとして」とあるが、この「かたち」はギリシア語聖書では「εικων」(エイコーン)が使

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VERITAS Seminarii[ヴェリタス・セミナリー]第六楽章「Eucharist〈4〉」

VERITAS Seminarii[ヴェリタス・セミナリー]第六楽章「Eucharist〈4〉」

聖体的礼拝

さて、カトリックのミサは「聖体的礼拝」 とも言われるが、 パンとぶどう酒は「これはわたしの体である」「これはわたしの血である」という、主の言葉を直接的に字義通り解釈されることによって成立する。

しかしその結果は叙階された司祭による聖体の聖変化であるのは前述した。キリストの大祭司職は永遠であり死というものがないため「後継者」も「継承者」も不要なのである。

このように確かに私たちは祭

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VERITAS Seminarii[ヴェリタス・セミナリー]第五楽章「Eucharist〈3〉」

VERITAS Seminarii[ヴェリタス・セミナリー]第五楽章「Eucharist〈3〉」

批判的精神の形成

プロテスタントの将来について、私たちは悲観的になるしかないのだろうか。

ローマ・カトリック教会に対する批判的精神の形成がプロテスタントの存在意義だとしたら、その役割は終わったのだろうか。信仰義認、聖書の母国語による翻訳、典礼における母国語の使用云々。

北イスラエル王国が人工的な祭壇をサマリアに設置し、王が職制を定めてしまい、南ユダ王国より先に滅びてしまった。

プロテスタン

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VERITAS Seminarii[ヴェリタス・セミナリー]第四楽章「Eucharist〈2〉」

VERITAS Seminarii[ヴェリタス・セミナリー]第四楽章「Eucharist〈2〉」

キリストの十字架の犠牲と同化

更に加えて、聖餐の現場では「什一献金」や「食料援助」、「その他の捧げもの」が伴うが、資本主義的なキリスト教に汚染されたユーカリストでは「献金」だけがクローズアップされることに違和感を覚えてしまう。

同時に聖書は第一テモテ書5章17節で 「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうで

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VERITAS Seminarii [ヴェリタス・セミナリー]第三楽章 「Eucharist〈1〉」

VERITAS Seminarii [ヴェリタス・セミナリー]第三楽章 「Eucharist〈1〉」

プロテスタントにおける聖餐の回復は、私たちにとって、 果たして無意味なことであろうか。 

主日礼拝の現場では、少なくとも月に一度、若しくは、年に数えるほどの執行となっている。 

無論、毎週、聖餐式を執行する教会もあるが、 説教 = 言葉の祭儀(シナクシス、 συνακσις) と比較して、聖餐式(ユーカリスト、ευχαριστω)は形式的・儀式的に衰退している可能性が高い。

聖餐の教義学的文

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VERITAS Seminarii [ヴェリタス・セミナリー] 第二楽章 「キリストに導くための横断性」

VERITAS Seminarii [ヴェリタス・セミナリー] 第二楽章 「キリストに導くための横断性」

キリストの受肉(incarnation)はキリスト教において、どのように位置付けられるだろうか。キリストの受肉を祝うクリスマス、キリストの復活を祝うイースター、聖霊降臨による教会の誕生を記念するペンテコステは三大祝祭日とされるが、しかし本来、受肉と復活と聖霊降臨を同一の地平に並べて、霊的な優劣をつけることはできるのだろうか。

或る説教者は受肉よりも復活が大切であると強調して、真理に優劣をつけるこ

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VERITAS Seminarii [ヴェリタス・セミナリー]第一楽章 「キリスト神秘主義」

VERITAS Seminarii [ヴェリタス・セミナリー]第一楽章 「キリスト神秘主義」

序文

竪琴音色キリスト教会において、VERITAS Seminarii はキリスト教神学と聖書の予備的な共同研究をする〈対話〉の場である。カール・バルトは『ローマ書講解』の中で次のように述べている。

神学に限らず、私たちの仕事は予備的であるからこそ、相互に共同体的次元の協力を不可欠としている。純粋無垢な個人的次元の主義主張へと転落するならば、神学的な予備的作業としての〈対話〉を既に諦めたことに

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