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VERITAS Seminarii [ヴェリタス・セミナリー]第三楽章 「Eucharist〈1〉」

恵みが来ますように。 この世が過ぎ去りますように。

ελθετω χάρης και παρελθετω ο κόσμος ουτος
『十二使徒の教訓』 106
講談社文芸文庫

プロテスタントにおける聖餐の回復は、私たちにとって、 果たして無意味なことであろうか。 

主日礼拝の現場では、少なくとも月に一度、若しくは、年に数えるほどの執行となっている。 

無論、毎週、聖餐式を執行する教会もあるが、 説教 = 言葉の祭儀(シナクシス、 συνακσις) と比較して、聖餐式(ユーカリスト、ευχαριστω)は形式的・儀式的に衰退している可能性が高い。

聖餐の教義学的文法と聖餐の執行の考察は後述するが、 聖餐の実体 (substance)が事実上の立場や態度 (stance) に退行しているという問題を提起したい。

ローマ・カトリック教会のミサにおいて、 プロテスタントは聖体拝領に与ることができないし、祝福の祈りを受けることが可能なだけである。

聖職者の使徒的継承が存在しない、即ち、 プロテスタントは「教会」ではないという扱いだからだ。第二バチカン公会議によれば、キリスト者の「共同体」に過ぎない。

カトリックの司祭による聖別の祈りだけが、パンを聖体に変化させるという実体変化説、 及び 聖職者中心主義(clericalism)。

そのような聖体拝領に対して、プロテスタントの聖餐式はドナティスト論争を引用するまでもなく、一体、「人効的」 (opus operantis) に過ぎないのか。

たとえ、「事効的」 (ex opus operantis) だったとしても(牧師の資質、執行者の躓きが問題にならなかったとしても)、聖餐式の現場では極度の霊的客観主義に加えて、一人ひとりが聖餐を明瞭な意味で味わっているか否かは別にしても、聖餐共同体として、キリスト教会は共通理解が実現しているかは巨大な疑問符が付く。

[テモテへの手紙 第一 2:5]

神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3
[ホームページ]
https://graceandmercy.or.jp/app/

キリストの仲保者性は唯一だと信じながら、 プロテスタントは 「人効的」 な有効性を牧師に限定していると断言できる。

[使徒の働き 2:4]

すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3
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「人効的」な聖餐を、聖書の「パン裂き」 (κλω、 クロー)と同一視するならば、初代キリスト教会における 「家々の教会」 の拡散を説明不可能にさせてしまう。

ステファノの殉教の後、 激しい迫害下でエルサレム教会はどうなったか、聖書の証言を聞いてみよう。

[使徒の働き 8:4,5]

散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。
ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3
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言うまでもなく、強制的に「散らされて行った人たち」 (Saonopá) は 「御言」(入óyoçの単数形)を 「述べた」 (suayyedIEW エバゲリゾー)であり、そのままだと「喜ばしいことを伝える」 だが、対格的用法なので「~を福音として伝えた」 という意味であろう。

他方、将来的に教会職務の 「伝道者」となった七人の 「執事」 の一人、ピリポは「キリストを先触れとして知らせた」 「キリストを宣教した」 という意味であり、キリストの陰府下降の箇所で同じ言葉が使われている。

[ペテロの手紙 第一 3:19]

その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3
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「宣べ伝える」は「κηρυσσω」 (キリッソー)という言葉が使われており、「ευγγελιζω」(エバゲリゾー)よりも強い意味を持っている。

だから聖書は教会職務の変化を明示して「散らされていった人々」と「伝道者」の宣教に職務的な差異があったことを知っていた。

[エペソ人への手紙 4:11]

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3
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話を元に戻すが、 キリストの仲保は唯一であり「人なる」 という挿入句がある。

「人」は「肉」 (σαρξ、サルクス) や 「体」 (σωμα、ソーマ) でなく 「人間」(ανθρωπος、アンスロポス)が使われているのは何故だろうか。聖職者の「人効的」 な聖別の祈りを否定するためである。ネストレ・アーラント27版のギリシャ語校訂本ではこの箇所は引用文となっている。

神と人間の聖餐において、 キリストこそ唯一の仲保者であることは間違いない。

スイス改革派の牧師フォン・アルメンは次のように書いている。

「もし聖餐のできごとの事実性が人間の能力にではなく、 神の仲介に依存しているとしても、そのことは、 教会のうちにおける、 また、 教会のための、 キリストの奉仕者たちの必要性をそこなうものではない」
 F.アルメン著『聖餐論』 136
日本キリスト教団出版局

しかし、その先には何の論述もないため、 私たちは途方に暮れ、 取り残された気分になる。

キリストが唯一の仲保者だとわかり、 聖餐奉仕者たちが不可欠な点も理解できたのだが、両者はどのようにリンクするのだろうか。

しかしながら、そのような問い以前に、唯一の仲保者と奉仕者たち(ανθρωπον、複数形) の結合以前に、聖餐は深刻な様相を呈する。

本来、聖餐式において、 キリストを信じる信仰者にどのような変容が生じるかと言うと、実体変化説、 共在説、 想起説など、 聖餐論の袋小路に迷い込む必要はない。

キリスト教古代から聖餐は「エピクレシス」 (επικλησις) と「アナムニシス」(αναμνησις) という祈りが意識されていた。 

「エピクレシス」 は「神への呼びかけ」であり、神の働きが聖別と交わりに必要だと示すものだ。

聖別に関係するか、 交わりに関係するかで、 それぞれ聖別のエピクレシース、 交わりのエピクレーシスと言える。
J.ユングマン著 『古代キリスト教典礼史』244頁、平凡社

実際、聖餐の様々な式文において、エピクレシスとアナムニシスは併記されており、 教会の伝統を踏襲している。

[コリント人への手紙 第一  11:23,24]

 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、
感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3
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「記念」には「αναμνησις」 (アナムニシス)が使われており、他に「思い出すこと」「記憶」という意味がある。

アルメンによれば 「アナムニシス」 は以下のように意味されている。

「過去のできごとに、 それの第一義的な効力を回復させるために、 それを儀式によって喚起することであり、さらにまた、 その執行によって記念されるできごとそのものの中へ、 記念する人々を投げ入れることである」。
 F.アルメン著『聖餐論』 32
日本キリスト教団出版局

「過去のできごと」 「記念されるできごと」 とは、キリストの十字架の死と復活を思い出すことであるが、 聖餐式の記念はキリストと受洗者群、且つ、 陪餐群である私たちを霊的に同化させる。

パンとぶどう酒は、キリストの体と契約の血であり、聖餐式という場で私たちは「一つ霊」の如く交わる以上に、キリストの中の永遠の命に満たされながら、互いに愛し合う。

だから、 F.アルメンの次の言葉は真実である。

「キリストの命令には従わなければならないという理由で、聖餐を守ることを認めるということは、 決定的に弱い。 
なぜなら、イエスが聖餐を制定し、 それを守るように命じたもうのは、一定の儀式を設定し、 命令を与えることを好んでされたのではないということは明白だからである。 
イエスは宗教的審美主義者でも暴君でもない」。
 F.アルメン著『聖餐論』 131
日本キリスト教団出版局

聖餐を「交わり」として考える時、即ち、「κοιγωνια」 (コイノニア)は約束を伴うものである。

誰かに 「主にある交わりをしよう」 「愛餐を共にしませんか」 「一緒に祈りましょう」と言いながら、仮に相手との約束を破り、交わらず、 共に食事をせず、祈らない......これが聖餐の諸共同体の間で生じている分裂なのである。

しかし、聖餐の相互・共同陪餐の困難さを「分裂」と考えるか、 「多様性」と了解するかによって事情は変わるのではないか。

聖餐の諸共同体の間の「一致」を考える時、聖書の次の一言に尽きる。

[エペソ人への手紙 4:3,4,5,6]

平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。
主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3
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「一致」は日本語だと「いくつかのものの間に違いがなく、ぴったり合うこと」 (大辞林)だが、ギリシャ語の 「ενοτις」 (エノティス)は 「一致することでなく一つである現実」という一元論であり、 多元論の中の表象的な一致ではない。

だから、私たちは聖餐式で「コムニオ」 (communio) という神学的思考を捨てたくなる誘惑に、明確に妥協なく抵抗しなければならない。 

どんなに聖餐の諸共同体の間に、神との交わり、 自分自身との交わり、 キリスト者と隣人の交わりが成立していなかったとしても(或いはその中の特定の交わり)、「κοινωνια」 (コイノニア)の聖餐神学は聖餐の諸共同体間の神学的な受け皿として機能しているし、キリスト者たちの各教団教派の垣根を越える交わり、 神との交わりという現実を反映したものと言える。

だが残念ながら、諸教派共同陪餐(intercommunion)に関して、 諸教会は分離状態にある。

主との交わりを互いに信じ、 神の家族 (οικος)として互いに建て上げることができるのに、何故、 聖餐の共同陪餐が不可能なのだろうか、 それを許さないのは誰であり何であろうか。

平信徒たちの洗礼における一致は、 根本的な仕方では、異議をさしはさみえないものであるが、しかしその聖餐における一致は不可能とされる。 
この平信徒たちが、キリストによって与えられ、 キリストの名によって聖餐をつかさどる権能を監督することを可能にするものは何であるかを新しく検討する機会を、特権意識にとらわれないで、 奉仕の精神をもって、 検討することを聖職者たちに要求しはじめている、その手きびしい呼びかけのゆえに、この重みは軽減されてゆくのであろうか。
 F.アルメン著『聖餐論』 109
日本キリスト教団出版局

聖餐の諸共同体間の差異は、 本稿の主題的な考察対象ではないが、 各教団教派を「分裂」か「多様性」 の二項対立さえも邪魔であるなら、 聖書の言葉に頼ることにしたい。

[コリント人への手紙 第一  7:24]

兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3
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結局、聖餐はキリストのパンと血に与り、 キリストの十字架の死を 「思い出す」(αναμνισις、アナムニシス)ことであり、 主の臨在を祈り求めることである。

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