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どの科目が一番おもしろい勉強か (7)

引用ということについて

大学の修士論文や博士論文の審査基準の1つに、引用論文数があるようです。また、研究業績としては、自身の発表論文の引用数が評価につながるようです。それだけ、研究の世界においては、引用する、引用される、ということが評価において重要なわけです。
さて、個人で勉強する上では、読んでいる書物に引用が多いのと、引用が少ないのでは、どちらがおもしろいと思うでしょうか。その人が、その科目において、どのあたりの位置にいるかによっても変わってくるかもしれません。例えば、近代日本文学論のような本を読んでいる時に、他の批評家はこういう論評も出しているなどという引用があって、かつ、それを自分が読んだことがあると、うんうんそうだよな、などと著者への共鳴度が高まっていくでしょう。よりマニアックな読者にとっては、引用は多くの魅力を持つことでしょう。
ただ、書物によっては引用が大半で、著者自身の見識はごくわずかというものもあるように思います。私の意見を大きく言ってしまうと、書物における引用の多用はおもしろさを妨げる方向に働くのではないかと思っています。引用の多さは、差分の強調につながります。以前まではこういう風に言われていたが、この点で私の見解は異なると。
数式的に書くと
 t(引用)+  Δt(著者の見解)
のように表すことができると思います。著者の見解を差分として提示するという形です。(Δという記号は数学の中で差分を示すために使われます)
仮に引用があったとしても
 t(著者の見解)+  Δt(引用)
のように著者の見解が主で、引用が従であればよいのですが、実際には引用が主となっている書物も多く見られるように思います。
差分が強調され過ぎると、差分が上乗せされる本体がぼやけてしまいます。本体が知りたいと思っているのに、本体が他の引用中心でおざなりになっていると、その科目の王道への興味がそがれてしまうように思います。
書物は、他人の書物などに依存すべきではない、と言っているわけではありません。他人が書いたさまざまなものを読み、その中から自分自身の見解を作り上げていくのは自然な営みです。ただ、学術論文ではなく、一般向けの書物であれば、他人が書いたものを、自分のものにした上で表現されたものの方がおもしろいだろう、ということです。自分のものにするということは、粒度を細かくして自分の中に取り入れるということです。すり鉢ですりつぶして、粉状にして料理に加える。カレーで例えるならば、スパイスとして、カレールーの一部と化す、といったところでしょうか。引用は、丸ごと加える野菜や肉と言えるでしょう。
引用が少ない方がおもしろいという点は、科目間の違いとして現れるでしょうか。これは、科目間というよりは、科目の中でどのような教材、書物を使って学ぶか、ということかと思います。例えば、哲学などは、その性質上、ほとんどが引用となりがちであり、過去の哲学者の分析に多くの労力が割かれます。ただ、現在においても、歴史上の哲学者の考えを自分のものにされ、自分の言葉で自分の見識として、表現されている著者はいると思います。そういう人の書いた本はおもしろいですし、哲学も興味深いなと思うことがあります。その科目において、どのような人に出会えるかということも、おもしろいかどうかの大きな要素なのでしょう。もしかしたら、おもしろいと思わせてくれる人に出会いやすい科目というのはあるかもしれませんね。その科目における有名な本流の書物があり、誰もが知っている尊敬できる大家がいるなど。それでも、その評価の位置づけは月日と共に変わりますから、固定的に判断することは難しいかもしれませんね。
今回は、この辺までで。

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