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【マインド】なんでもかんでも「多様性」って言うな。

前提として。

多様性の受容は絶対。
多様性の否定をしてはいけない。
そんなこと当然なこと。

「多様性、はんたーい!」
そんな話をしたいのではない。

多様性の概念をちょっと勘違いして認識してるんじゃないかってことに出会したので、記しておく。



例えば清掃の時間に、掃除をしないでサボっている生徒がいたとする。
掃除をするよう指導することの是非について、議論の余地はあるのだろうか。

例えば化粧をしている生徒がいたとする。
化粧をしないよう注意し、場合によってはその場で化粧を落とさせる指導に対して、生徒が異議を申し立てるという状況は妥当なのだろうか。

私は教育職に就いているので、生徒を「育てる」という立場にある。
ちょっとここで、清掃活動の存在について改めて考えてみる。

清掃活動の教育的意義は、多岐に渡る。
思いつくままに並べると(順不同)、環境美化・衛生面、協働性、自主・自立性、責任感、勤労意識向上、愛校心促進、感謝の気持ち、などなど。
(学習指導要領に明記されているが、ここでは割愛)

上記に挙げたものは、場所が学校限定でなくても、そして教職関係者の立場でなくても、納得できる観点であるはず。

さらに私が個人的に大切にしている清掃活動の意義は、「規範意識の向上」である。
普段使用している場の環境整備を「自分たちの手で」行い、衛生状態を「自分たちで」保っていくことが当然であるという意識を持ってもらいたい。
朝、歯を磨くのが当然であるかのように。

私自身は内発動機づけ信者なので、清掃の時間を日課の一部にして仕組み化することで「結果的に、規範意識が向上する」という外発的な動機づけの流れに正直、若干の違和感がある。
でも、さまざまな価値観を持つ生徒がいる中で、人格形成の大切な期間に、仲間と協働しながら清掃を行うことで自然に生まれてくるプラスの意識の存在価値は相当大きいと感じている。
残念ながら、義務感で我が家の掃除をセカセカ行っている私なんか比較の土俵にも上がらない。
そのくらい、学校の清掃活動の意義は大きい。

それが、昨今の「多様性」の意識浸透の弊害かなんか知らんけど、信じられない状況が起きたとしたら。

※ここからはフィクション(仮)としてお読みいただきたい。
掃除をサボる生徒へ対して掃除をするよう促したときに返ってくる反応が、もしも次のようであったら。

「いろいろな考え方があっていいでしょ。掃除しなくても良いっていう考え方もアリ。多様性だよ。」

それは、違う。
多様性を誤って認識している。
または、恣意的に「多様性」の概念を盾にして、自分の行動を正当化しようとしているだけ。
小賢しいっていう言葉も、もったいなくて使いたくない。

確かに、「多様性」の考え方には、「異なる価値観を認め合いながら社会生活を送っていく」ことの重要性はある。

「掃除しなくて良い」っていう価値観を、許容するべきなの?
それは違うよね、勘違いしてはいけない。

自分が、1つの場で、他者と共に生活を送る構成員のひとりであることを認識すること。
その場には、しっかりとルールや規則が存在している。
集団で生活する上では、それらを遵守することが秩序や節度が守ることにつながっているという共通理解を持つこと。

掃除をしないという選択をする生徒がいれば、その選択がその人の価値観の一部として形成される。
そしてその行動が許容されるならば、それが正当であると周囲は認識せざるを得ない。
その考え方に同調する人の数が増えれば、生徒は「掃除する」「掃除しない」の選択をできるというおかしな前提が出来上がる。
そして、人が社会性を身につけていく発達段階に置いて、元来備えるべき能力や感覚は育たないまま大人になっていく。

おかしいよね?

多様性は、属性や志向が違う他者を互いに認め合うこと。
学生でもティーン世代であっても、その掛け合いの中で生まれる新たな価値観がちょっとしたイノベーションを生み出す可能性を大いに秘めていることは折り込み済み。
若いからといってもナメてはいけない。
私はその威力を何度もこの目で見てきた。

そのスタートラインにも立てないのだよ、
清掃活動放棄を、「多様性」を理由にするなんて。

人は、何でもかんでも「自由」を手に入れられるわけではない。
ルールがあるから、自由がある。
規律を守ってこそ、自由になれる。
何も守っていない人は、自由なんて説いてはいけない。

それを、誰が若者に教えるのか?
大人だろ。

子どもたちは、大人をよく観ている。
大人を評価している。
良くも悪くも。

「いろいろな考え方があっていいでしょ。掃除しなくても良いっていう考え方もアリ。多様性だよ。」

こんな言葉が聴こえてきたら、私たちがまず立ち止まってみるべき。
一体何が、こんな言葉を言わせてしまったの?

解は、私たち大人だよ。
そして、社会。

確かに、社会は確実に成熟してきている。
私が学生だった頃には信じられないような豊かな社会。
でも、豊かさと反比例して、本当に大切なことを子どもたちは拾えなくなっているのかもしれない。
指南する立場の大人でさえ日々迷ったり悩んだりしているのだから、そりゃあそうだ。羅針盤が不安定なのだから。

キャッチーな言葉がひとり歩きしてしまって、個々が勝手に抱くイメージだけで概念が社会に存在すること。
その危険性をひとしきり感じてしまった。

掃除をサボることを許容することの良し悪しはわかりきっている。
大人はブレてはいけない、ちゃんと伝えるのだ。
なぜ掃除するのかを、躊躇わず。

学校は、生徒が大人になる前に身を置く、小さな社会。
ルールや規律の存在意義を身につけていく。
そういう意識の中で、健全な社会が形成されていく。
その土台があって初めて、多様性の考え方が生きていく。

そう考える私は、今日もブレずに伝える。
「化粧してるよね?落としましょう。理由は・・・」

子どもたちは、ちゃんと見ている。
なんで自分にそんな話をしてくれるのかを。
そして、して来ない大人との差を感じ取っている。
真剣に伝えてくる人と、その選択をしない人の違いだって、きっと。

「人は変わらない」なんて嘆いてる場合ではなくて、
これからの将来を背負う人に、ちゃんと向き合える人でありたい。

そう思った出来事にふと出会ったので、備忘録として残しておく。
自分は立派な大人だなんてまだまだ言えないけれど、「この人、社会を主体的に生きているな」と生徒に思われたいなって思った。
大人は社会の中でどういう役割を担っているのか?
大人自身が考えなくちゃ、と切に思う。
当事者なのだから。

では、また!

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