人という字は、 ─3Dプリンターのワークショップを考える話
はじめに
「人という字は、人と人が支え合ってできている。」
かの有名な金八先生の名言が最初に飛び出したのは、1985年12月27日放送の「3年B組金八先生スペシャルⅣ イジメられっこ金八先生」内のワンシーン。「人という字は、人と人が支え合ってできている。人と人の間で磨かれ、人は人間になれる。」こう続く台詞はその後劇中で何度も使われることになり、金八世代ではない年齢層にも引き継がれる馴染み深いフレーズになった。実際の「人」という漢字は支え合っているわけではなく、「ひとりの人が立っている象形文字がその成り立ちである」とのちに武田鉄矢さん本人が解説しているが、今回この名言を引用したのは、本当の漢字の成り立ちを追求するためではない。
前回、新工芸舎によるワークショップ「新工芸入門」に際して書いたレポートで、ちゃんと自分たちの生活を作っていこう、という趣旨の記事を書いた。例えば棚を買う時、「まあちょっと違うけどこれでいいか 時間ないし」と半ば諦めながらそのちょっと違う棚を買う。みたいな妥協を伴う消費をいったんやめてみて、手の届く範囲のものを工夫したり観察して自分なりに生活環境を組み立てていこう、そんな趣旨だった。
「自分で作ってみたらちょっと斜めになったけど、めっちゃサイズぴったりやわ」そんな感覚は、けっこう楽しいし「生活」できてる感じがする。木材を買ってきて組み立てるだけで、自分の部屋をカスタマイズできた気持ちになる。新工芸舎による石と3Dプリントを組み合わせたシリーズや、彼らの制作から学べる身のまわりをアセンブルする考え方、何より石と対話するような時間は、現行の生産体制や社会を取り巻くシステムに抵抗するための一手になり得る、そんなことも添えて書いた。
とはいえ、いちいち生活する上でそんなこと考えてられないし、つまるところものづくり界隈の認識でしかない部分もある。こうした考えをたとえば一般家庭にまで溶け込ませるためには、もう少しクッションが必要そう。
けど、金八先生なら。
人という字を、ただの象形文字ではなく「何かと何かを支え合わせることでひとつのコンポジションを生む行為」と捉えた金八先生の思想なら、身の回りにあるものを組み合わせながら主体的に生活を形作るためのヒントに近づけるのではないだろうか。
3Dプリンターの話
ここから本題に入るが、ぼくらはこのマシーンについてどれだけ知っているだろう。樹脂が積み重なることで何でも作れる未来の機械。なんとなくそんなイメージを抱かせる3Dプリンターに、ぼくらはあんまり用事がない。自由に使えたらそりゃ便利だろうとも思うけど、何を作ればいいのかも、どう使えばいいのかもよくわからない。そんな声を、FabCafe Kyotoでもよく耳にする。
京都・五条に店を構える私たちFabCafe Kyotoは、ものづくりスペースとカフェ、そしてミーティングスペースなどが一ところに集まる不思議な場所だ。おいしいコーヒーやジンジャーエール、ちょっとしたおやつやトーストが食べられたり、デジタルファブリケーションと呼ばれる工作機械、例えばレーザーカッター、UVプリンター、刺繍ミシン、そして、3Dプリンターが揃っている。ドリンクを頼んでデスクワークに励んでもいいし、がっつりベニヤ板をカットしにきてもいい。機材には時間ごとの料金設定があり、講習会を受ければ誰でも事前予約をして利用することができる。そう、3Dプリンターを除いては。
FabCafe Kyotoでも数年前までは3Dプリンターの一般利用を行っていた。けど、そのサービスは今いったん停止している。使いにくる人がいないから、いや、正確には「使い道がわからないから」が正解だろうか。ソフトの種類が多くて扱いが難しい、一部の人だけの特権的なコンテンツっぽい、単に敷居が高そう、など3Dプリンターへの抵抗感にはいろんな原因がある。が、問題の本質はその壁を乗り越えようとする、滾るほどの「欲望の行き先」がないことではないだろうか。
ものが作られる発端には、誰かの「あんなこといいな、できたらいいな」が存在する。それを自分で作っちゃうのか誰かに任せるのか、ものを形にするルートは何通りかあるけど、何にせよ、その欲望が良質なものであればあるほど、生まれるものもいい感じになる。大事なのは何を切望するかで、人々の欲望をどう醸成できるかがデザイナーの役割だよってことを、グラフィックデザイナーの原研哉さんは「欲望のエデュケーション(教育)」とかって呼んでる。教育って聞くと偉そうにも聞こえるけど、ただ3Dプリンター使ってください!と声高に叫ぶだけじゃなくて、「自分もこんなの作りたい」「この人がこれ作れてんなら自分もこれ作れんじゃね」いろんな人にそんな感覚をもたせてあげることが、ぼくらのミッションだったりするんじゃないか。
ぼくらの生活を豊かにしてくれるはずのマシーンと、まだみんなはあんまり仲良くなれていなさそう。だから、3Dプリンターの旨味をなるべく味わえるような入り口を作ることで、なんかいろいろできそうじゃん、とみんなに気軽に思ってほしい。そんな考えから、下記のように3Dプリンターや出力できる造形物の旨味を洗い出し、気軽に参加できるワークショップの骨子を組み立てることにした。
既製品にはない、自分だけのものが作れる
任意のものがぴったりはまる
必要な形を、必要な時に、必要な分だけ作ることができる。
ざっくり書くとこんな感じ。医療分野への応用など工業デザインの側面から書くともっといろいろな旨味があるのだけど、3Dプリンティングの入り口から考えると、「ごく私的なニーズを満たす立体物が簡単に作れる」この一言に尽きるんじゃないだろうか。例えば、Twitte上でささやかなムーブメントになっている「#生活治具」というハッシュタグでは、3Dプリンターを持っている人たちが、家の中や暮らしの中の個人的な不便を、自分でモデリングした造形物で解決している様子をアップしている。
配線をまとめるための治具、目薬ケース、ドアノブを回しやすくするための自助具などなど、どれも丁寧なモデリングや小さな工夫に満ちたものばかりだ。壁と配線、目薬とテーブル、ドアノブと手、いろんなものとものの境界をつなぐジョイントとして機能するそれらは、同時に、生活に飲み込まれないための小さな抵抗にもなり得ている。酒は飲んでも飲まれるな、暮らしはせども飼い慣らされるな。社会のシステムと一間の距離を置き、自分で生活を形作る。一見、私的で小さな造形物に見えるだけのこれらの治具やジョイントたちには、暮らしに対して能動的に生きることの大切さが潜んでいる。
彼らの活動にも大きく影響を受けながら、なるべく参加者が自分の生活や人生と3Dプリンターを近づけて考えられるようなワークショップにできるといい。
人という字は
3Dプリンターの旨味として存在する「私的なピッタリ感」。それから、「ジョイント」としての機能をもつ造形物が出力できる点。これらの要素を最大化しながら、「好きなアクリル棒を」「好きな角度に」組み立てることのできるジョイントを制作してみる。
モデリングしたものを画面の中で組み立てて、出力物をまた机の上で組み立てる。バーチャルとリアルの間を往復しながら、「ぴったりはまること」と向き合い続ける。支え合うとは、つながり合うとは、そんなことを考えながら、ぼんやりと机の上の三つ脚オブジェを見つめる。
支え合うアクリル棒たちは、そのどれかひとつが欠けても自立することはできなくなる。その頼りなさがなんだか愛おしく、思わず「人という字は、」と往年の名言を呟いた。人という字は、人と人が支え合うことでできている、ちょうど、このアクリルたちのように。
生活を自分の手で組み立てていくということ。結び、束ね、重ね、身の回りのなにかを繋ぎ合わせ形づくることは、かつて人間が生きていくために行なっていた原初のクリエイティブではないか。新工芸舎が、生活治具のハッシュタグが、そして、金八先生が教えてくれたこと。「人という字は、」まずはその言葉を借りて、「つくる」をほどいてみることにした。
3Dプリンターワークショップ「人という字は」5/14(土) 10:00-16:00
@FabCafe Kyoto
定員 4名 参加費 2500円
持ち物 思い入れのあるプロダクト2つ、モデリングソフト「ライノセラス」体験版をインストールしたPC
https://fabcafe.com/jp/events/kyoto/220514_hitotoiujiha
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