白いかなしみ ~幸いなるかな悲しむ者~

ふってきた!
初雪よ。
つもるといいわね。
あたしさ、雪みると思い出すこと、いろいろあんのよね。
なんてことないあたしにも、それなりに、あんの。
ね、きいてくれない? あんたにだけは、きいてもらいたいの。
一杯、おごるからさ。

もうずいぶん前よ。
小雪がちらちら舞ってたわ。
となり町のお寺の縁日でね、おみくじひいたら「待ち人きたる」なんて、うれしいこと書いてあるからさ、あたし奮発して、小さな素焼きのお守りのほかに、屋台でほかほかのやきいも買いこんだの。
紙袋ごしのぬくもり抱きしめて、さあ帰ろって歩きだしたそのとたんよ。黒いものが上からスッと前髪かすめたの。反射的にのけぞって、しりもちついたあたしの目の前で、ガシャンと落ちて砕けたのは、こんな大きな屋根瓦。間一髪とはあのことね。
すぐさま若い男が庫裏の屋根からおりてきた。はしごにほとんど足もかけずに、ひらりと飛ぶようにしてさ。
「けが、しませんでしたか!」
「お守りが割れたおかげで無事だったわ」
「くつはこれですか?」
「ありがとさん」
目があうと、こいつがまあ、みめうるわしき瓦職人でさ。
「やきいも。おひとつ、いかが?」
これが、あたしたちふたりのなれそめよ。

同棲までは、あっというまだった。
ひかれあうところがあったの。
彼、音彦っていうのよ。みなしごでね。自分を捨てた親の顔、ちっともおぼえてないんだって。ほうぼうたらいまわしにされたあげく、施設に入れられ、そこでひどくいじめられたらしいわ。
あたしも母子家庭なの。そんでもっていじめられっ子でね。
ランドセルしょって、しょんぼり帰ってくると、母親が知らないおじさん、つれこんでてさ。ふとんの中から、しっしって犬でも追っぱらうみたいな手つきしてさ。
そういう古傷、あのひととあたためあったの。

音彦は学校へもろくすっぽゆかず、ずるずるとワルの世界に片足つっこみ、薄よごれた夜の街をさまよいあるいては、ケンカだバクチだなんのって、おまわりさんのお世話になったことも、一度や二度じゃなかったそうよ。
けれどある日、夕ぐれの光のなか、川の岸辺でひとり、草の上にひざをかかえてすわってるとき、わかったんだって。
オレはまちがってる。オレはまちがってるんだ、って。
そのとき心の奥にまで夕日がさしたようで、うまれてはじめてきれいな涙がひとすじ頰をつたった。彼、そんなふうに話してた。

とはいえ足を洗った音彦に対して、世間は甘くなかった。
汗まみれで重いもの運んで泥まみれで穴掘って生きて、とうとうポケットさぐっても五円玉が一枚ってとこまで追いつめられた音彦は、ぐうぐう鳴るすきっ腹かかえて、神社の大きな木にもたれかかってたの。
ふと見あげると、本殿の瓦のふきかえやってる。それがリズミカルで手ぎわよくて、風をうけてさも気持よさそうで、これだとひらめいたって話、何度もしてくれたわ。

「弟子にしてください!」
おりてきた親方にその場で地面におでここすりつけて頼みこんだ音彦。ほほえましいじゃない。
かくして弟子入りして、いっぱしの職人めざして、まじめに働いて働いて、屋根から瓦おっことして、あたしと出会ったってわけ。

あたしたち、身を寄せあって、懸命に生きたわ。
ほら、いうでしょ。わかちあえば、苦しみは半分になる。そしてしあわせは倍になる。それなのよ。
貧乏なんて問題じゃなかった。
しあわせだった。
アパートの外階段かけあがる足音きいて、ああ今日も落っこちずに帰ってきてくれたって、うれしくなったりさ。はずれかけの作業着のボタン、つけなおしてあげたりさ。毎朝、たまごやき焼いて、「おべんと、わすれてるよ~」って追いかけたりしてさ。
思いだすのは、そんなことばかり。
でもね、あたしの人生のなかで、ひときわ輝いてるの。あの半年。たった半年だけが。

あっけないものね。しあわせって。
音彦は、ひとを殺した。兄弟子(あにでし)を殺したのよ。
兄弟子はね、ネコがわけもなくトカゲをいたぶるように、日ごろから陰に陽に音彦を傷つけ、遊んでいたの。
ことばでさげすまれても、仕事のしくじりをなすりつけられても、なくなったおかねのことで濡れぎぬを着せられても、なぐられたって蹴られたって、音彦はひとりでこらえてた。あたしにはなにも打ちあけてくれなかったけど、心は踏みにじられて、血だらけだったのよ。
そしてあのできごと。
現場のお昼休み、音彦がおべんとのふたをあけると、背後からのびた手が、それをかっさらった。
「毎日毎日、めざわりなんだよ」
兄弟子はそう言って、おべんとにつばを吐きかけた。音彦は立ちあがった。
「なんだ、チンピラ。その目つきは。オイみなしご。こんなままごとで、ひとなみのくらし手に入れたみてえに思ってんのか。つけあがってんじゃねえ」
おべんとが川にほうりすてられ黒い水に沈んだ瞬間、音彦は自分をおさえきれなかった。とっさに兄弟子を押し倒し、馬乗りになった。そして首をしめたのよ。
「施設でいじめられた記憶が……突然ありありと……よみがえってきて……」
裁判でぽつりぽつりと語る音彦のことば。うつむいたうしろ姿。
傍聴席であたし、いろんな思いがこんがらがって胸にあふれて、とてもその場にいられなかった。
懲役八年。
音彦は刑務所に入った。
あたし、待ったわ。
毎週のように面会にかよった。
だって、ほかにだれもいない。
音彦にも。あたしにも。

面会でなにを話したか、あらかた忘れちゃったけど、いつだったかしら、自由時間はどうやってすごすの?と、彼にたずねたことがある。
そしたらね、聖書を読んでるというの。ほんとかな?と思って、あたし、ためしにきいてみた。
「聖書のなかでいちばん好きなことばは、なに?」
音彦はちょっと照れくさそうにはにかんでみせて、こうつぶやいた。
「さいわいなるかな かなしむもの そのひとは なぐさめられん」
音彦が教えてくれたんだもの。あたし、これだけはそらで言えるわ。

仮出所が近づいた最後の面会のとき、音彦はうなだれていた。
「オレ、とんでもないこと、やっちまったよな」
声が消え入りそうだった。
「それをつぐなったんでしょ。八年もかけてさ。堂々と出てくりゃいいのよ」
はげましながら、あたし、ひしひしと感じた。彼の心に深く刺さったとげの痛みを。

いよいよ出所という前日。
あけがた電話が鳴り、あたしはハッとしてめざめた。
刑務所からのしらせだった。
音彦は、首をくくり、自殺したの。
カーテンをあけると、窓の外は雪だった。
雪って、かなしみに似てるのよ。
ひとつひとつは軽くても、しんしんとふりつもる。
ふりつもった雪は重たくて、つめたくて……
とかしてあげたかった。
あのひとの凍てついた白いかなしみ。

さいわいなるかな 
かなしむもの
そのひとは
なぐさめられん

神さま、きいてくれて、ありがとう。

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