【中編小説】兄弟と遊弋書庫1/4
(あらすじ)異邦の王子ダームダルクは、傲慢ケチ博士のもとでの修行が嫌になり、博士の発明した滑空機械を盗んで脱走。ところが嵐のせいで機械は壊れるわ、人外の者をのせた船に不時着するわ、とかく自由への道は険しい。そんな七転び八起きの冒険活劇×幻想怪奇。
夜、館の中
通路のさきで音がした。
垂幕を引きあけ、壁龕に飛びこむ。
ダームダルクは何かを踏みつけた。神経を張りつめていたからこそ気づけた、わずかな応力だ。
バネじかけにのった石が、致死の罠へ通じているのだろうか。
心臓は早鐘をうつ。三拍ですら永遠だ。
耳をすます。何かが動いたりこすれたりする音はしない。
踏んだ途端に跳ねあがる罠と、踏んだ足を持ちあげたときに動く罠、博士なら後者を好むにちがいない。恐怖で獲物をなぶるために。まるで猫だ。
『そりゃないぜ、大将』
胸のなかで、ハトラが文句をたれて、心臓を甘噛みした。声は骨をつたってダームダルクの耳にとどく。外にもれるおそれはない。
おそるおそる、すり足で長靴をどける。窓のない通路からもれこむ、燐なしの燐光をたよりに検分したが、からくりらしいものはみつからない。
靴底を見ると、フナムシが一匹、つぶれてはりついていた。
「どれどれ」胴着をはだけたところから、ハトラが顔を出した。
ハトラは真っ黒な鼻と、銀線細工のようなひげをひくつかせた。かすかに血の透けてみえるおかげで、煙ったすもも色の口紅を思わせる三角耳も動かした。さらに緑の目いっぱいに広げたぬばたまの瞳で虫をあらため、
「この島のじゃない。シンダランのだ」
「しいっ」ダームダルクの忠告よりも、胸元から首を出しているハトラが、胸にきざまれた黒猫の刺青に変わるほうが早かった。
『博士の荷物にまぎれてたんだな。こないだ陸揚げしたやつがクサい』
拱廊の左手から、死体の継ぎ接ぎ人形が鎖帷子の裾をひきずってあるく、耳ざわりな音がやってくる。
垂れ幕が隠してくれるのは、くるぶしまでだ。
動くべきだろうか。壁に両手を突っぱれば、両足を持ちあげるなどたやすい。だが、じっとしているべきかもしれない。向こうは目ではなく耳であたりを探っているのかもしれない。館には虚ろな眼窩をもつ人形もいる。蝙蝠の群れは見かけなくなった。夕方になるたびに無数に湧いて出ていたのに、ひと月前に突如として姿を消した。
迷っているあいだに音が目の前を通りすぎた。
右へ右へと遠ざかっていき、やがてかすれて消えた。
『ほぉら、おれの読みどおりだろ』
垂れ幕をめくって左右を見わたす。左も右も進むべき道ではないことは学んでいたが、人形たちをよけつつ息をころして進むうちに、この通路に行きつかざるをえなくなっていた。
布を揺らさないようにして壁龕へ首を引っこめると、何かが頭をなでたような気がした。
上を向いても誰もいないが、見上げたかいはあった。壁龕は天井をもたず、四角い煙突のような作りになっている。通路を照らすのと同じ光が、縦穴から暗闇を追いはらっている。光は途中で消えて穴の行くすえは見通せないが、しばらく上にすすんだところには、横穴らしい暗がりがある。
両手を突っ張り、体と両足を持ち上げた。次は両足に力を込めて、両手を持ち上げる。熱帯の太陽が館をさんざんに火あぶりにしたはずなのに、縦穴の壁は冷たい。じきに指がしびれてくるだろう。
『出口は下だぜ』
「わかってる」
規則正しい拍子でいけば、おもいのほか楽な道のりだ。
『天に昇るって感じだよな。落っこちたら本当に昇天だけど。まさか死ぬ気じゃないよな、大将?』
死ななくても、怪我はするような高さまできた。横穴まであと十拍といったところだが、指の感覚はにぶってきた。
ふたたび、何かが頭をなでた気がした。
見上げると、水晶玉が浮いていた。壁をこすらんばかりの特大のもので、直径の三分の一ほどある模様が一つほどこしてある。
目玉模様だ。
と、気づいたときには目があっていた。
模様は、だんだんと大きくなってきた。
『顔ちかいよ。いや、目が近いのかな』
昇るときとは逆の動きをする。昇るときよりも早く繰りかえした。
目玉はあとをつけてくる。ただただ降りてくる。音もたてずに。
次第に床が近づいてきた。音を立てるのを覚悟で飛びおりた。
全身をバネにして衝撃を殺す。
ふりかえりもせず、壁龕からまろびでる。
ダームダルクは、独房同然の自室に逃げもどった。
朝、鳥小屋
草原の大王カーガーンは、東の海岸から西の山麓、西南の砂漠に至るまで、馬を進められるかぎりことごとく征服した。
ともに戦功をあげた王子たちは、大勢の戦士と家族、家畜を引き連れ、各地に散った。みな乳にも肉にも小麦にも困らず、奢侈品にもことかかない暮らしぶりである。征服者たちは暴虐でこそなかったが、困窮はしなかった。
中には不遇をかこつ兄弟たちもいた。生まれるのが遅く、波に乗り遅れた者たちだ。戦功がないものだから、旗を掲げても戦士は集まらない。人が集まらないから、自由に使える土地にもありつけない。隙間に入り込んで窮屈な暮らしに甘んじる気にもなれず、兄弟間の争いに負けて敗走することは屈辱だった。
だからダームダルクは南方の熱地に活路を求めた。捲土重来を夢見て。
一つ気がかりな噂がある。父王は不死身だというのだ。兄弟や甥、叔父なら何人も没していたが、王が崩御したとは聞かない。
§
ダームダルクは箒でずっとおなじ場所を掃いていた。
「床磨きに精が出るねえ」
朝日が差しこむ鳥小屋のすみでハトラが笑う。にやにやしたまま。後ろ足でわらくずを動かして、抜け穴を隠している。
小鳥たちは、黒猫のせいで恐慌をきたした。
あるものは喉が張り裂けんばかりに鳴く。別のものは羽が千切れんばかりに飛びまわる。金網にぶつかるものも、柱にぶつかるものもいる。気絶して墜落したものだっている。
そんな鳥たちをながめて、ハトラは喉を鳴らしている。
「出してやれよ」ダームダルクは皿に餌と水をついでまわる。
「逃げたらどうする?」
「わしが得をする。仕事が減るし、きっと博士は猫よけのまじないをしかける。魔法を学ぶにはうってつけよ」
「そいつはいい。大草原と大山脈、大海原を越えるの旅のはてに猫よけの術を学ぶ。歌になるぜ」
「おぬしこそ、あらゆる海でねずみどもに悪夢をみせておきながら、いまじゃただのしゃべくり屋じゃないか」
「おたがい、乗る船を間違えたのさ」
ハトラは耳をかいた。ダームダルクは肩をすくめた。
小屋の戸口をたたく音がした。
振りむくと、木戸の鉄格子ごしに顔がみえて、すぐ下に消えた。子どもだった。
ふたたび顔がみえて、戸をたたく音がした。
とびあがって、窓の高さまで顔を持ちあげているらしい。小作人の息子で、たしかハルムトという名だ。昨日もきたし、おとといもきた。
「芋をありがとう」と言ってはみたが、子どもは木の扉を叩きつづけた。
「おつかいは終わったんだ。帰ったほうがいい」
返事はない。まえは、どの小作人もすなおに聞きいれて、来た道をもどってくれたのだが、この頃はそうもいかなくなってきた。
用具一式を放りだし、戸口へ駆けつける。
「外で話そう」と言ったが、向こうはかまわず話しはじめた。
「骨をかえして、ください」
博士の実験台たちは、人の胸骨から餌をついばみ、頭蓋骨から水をのむ。取りかえしたいのがどの骨か、見当はついた。
「あなたは博士に顔がきくんでしょう」
「買いかぶりすぎだ」
「早く帰ったほうがいい。昨日みたいに三つごまかしていいから」
「おかあさんの骨なんです」扉を両手で叩く音がした。
「四つでもいい、ココヤシでもいいぞ」
「そんなのいりません」
「鍵なんてないんだぞ」
「人のものを勝手にとってはだめって、お母さんがいってました」
ダームダルクが骨を持ち出さない理由とは大違いだった。そもそも同じ理由だったら、博士の館のそばで長居はしない。
「いいから帰れ」扉をあけようとしたが、動かなかった。ハルムトは戸に体を押しつけているらしい。
「どうしようもないんだよ」なおも扉に力を込めるが、駄目だった。
馬鹿力だ。
「骨じゃなくたっていいでしょう。お芋でたりないなら、お皿もお納めしますから」
「そういう道理が分かってるなら、さっさと帰れ」扉はびくともしない。
「いや、です」
鉄格子ごしに、輪縄がみえた。上から降りてきたのだ。
次の瞬間、扉のつっかえがとれた。
勢い余ったダームダルクは、両手を前に突きだした格好で転んだ。
歯を食いしばって顔をあげると、縄が子どもを引っ立てていくのがみえた。ハルムトは首から縄を外そうともがくが、かなわない。
ダームダルクは立ち上がって駆けだした。
綱は速度をあげた。子どもの顔に一瞬だけ苦悶の表情がうかび、すぐに体から力が抜けた。綱は手近な木の太枝に、一方の端を引っかけた。
まだ大きくなれるはずの体が、軽々と地面から持ちあげられる。
首の骨の折れる音が、木立に吸い込まれた。
ハルムトは振り子のようにゆれるだけで、指一本うごかしはしない。
「もういいだろう。この子は死んだんだ。盗賊でもないのに、盗賊みたいにして」と、ダームダルクは綱に用心深い目線をそそぎながら、亡骸に手を伸ばした。
すると綱はひとりでにほどけた。ダームダルクの両腕に、まだ温かい子どもの重みが飛びこんできた。
ダームダルクは農場へ向かおうとしたが、綱が道を塞いだ。横一直線になって、宙に浮いている。よけようとしても無駄だった。鳥小屋へと戻ることはできたが、埋葬穴は掘らせてもらえず、遺体は野ざらしになった。いずれ博士の実験台になるということだ。
ハルムトが持ってきたかごには、大人ですら担ぐのを嫌がるほどの量が詰まっていた。
ようやく、扉のことを思いだした。
駆けもどると、鳥小屋の前にハトラがすわっていた。木戸は閉まっている。そういえばそういう猫だった。一瞬だけ、ハトラの顔に得意そうな表情が浮かんだが、ほんのわずかの間だった。
「大将、いい忘れてたんだけどさ。このあと実験なんだ」伝言を終えると、黒猫は胸に飛びこんできて、刺青に化けた。
『もう、あれに賭けるしかないぜ』ハトラのぼやきが体のなかにひびいた。
屋上
ダームダルクが館の屋上に出ると、大振りで濃緑の葉を風が揺らす音がきこえてきた。より遠くでは青緑の海が白波をたてていた。貿易船にはうってつけの北東風が木立のあいだを吹きぬけ、顔にぶつかってくる。
屋上のへりには青銅の手すりがある。蜘蛛や蝙蝠をかたどった細工がほどこしてあり、朝日を浴びて眩しいほどにかがやいている。
南西と北東にだけは手すりがない。
島のはずれにある海蝕洞を目の端に収めつつ、ツァフ博士が待つ南西側へ小走りする。博士は離れていても目立つ大きさの柘榴石の指輪をはめていて、南国の鳥をおもわせる長衣を風にはためかせていた。
「その荷物は?」
博士は眉間にしわをよせて、ダームダルクを指差してきた。
「最大積載量とやらを試したいと、言っていたと思うのだが」
「中を見せろ」
「大したものは入れてない」ダームダルクは背負い袋をゆすった。
「見せろ」
うつむくと、刺青のハトラと目があったが、猫は無言だった。
言われるとおりに中を見せると、博士は鼻をならした。
「探検用具一式、か。私の島に押しかけてきた時の荷物のようだが…」博士は荷物をまさぐって「堅パンが多いな。重量試験なら石でもつめておけばいいものを。だいたい、私がわけてやっている食事を、栗鼠みたいにこそこそと隠してためこむとは、どういうつもりだ?」
「先生に似たのさ」
「はっ。まあいい。で、それはなんだ」博士は、ダームダルクが腰帯にさしている二本の短刀を指さした。
「護身用ですよ。落ちても、無事に帰れるように。もしも小作人たちが変な気をおこしたときのために」
「そう、変な気を起こしたときのためにな。」博士はにんまりと笑うと、懐に手を入れた。同時に、ハトラが胸から飛びだし、博士の足元にすがりついて、ニャーニャーと鳴く。
「さあさあ、腹ごしらえしましょうねー」
「おいしそうですニャー」出された干魚に、黒猫はかぶりついた。ダームダルク用の食事とはちがって、骨は取ってあるらしい。
「いいか、小僧。裏切ったら、分かってるな。神話の英雄の剣すらかすむような爪と牙をもつかわいい小悪魔が、おまえの大動脈を切りさくのは簡単なことだぞ。おまえとちがって…」
話しながら、博士がかたわらの滑車じかけをあごで示すと、ダームダルクは綱にとびついて、せっせと引きはじめた。黙って話をきいていたら吹きだしそうだった。
滑車から垂れる綱は、縦穴にのびていて、いきつく先は倉庫だ。仕事をしているあいだ、ハトラは博士のご機嫌をとっていた。
「はかせぇ、あっちのお仕事は順調ですかニャ」
「順調だよぉ。おまえは元気かい?」
「ちょっと体がなまってますニャ。また博士の船にのって、ネズミ捕りしたいですニャ」
「そうさせてやりたいのはやまやまだけど、あの図々しいおしかけ弟子の見張りをしてもらわないといけない。まったく、草喰らいの蛮人どもが、南の島にまでやってくるとは思わなかったよ」
「じゃあ、新しい船が出来ても、お留守番ですかにゃ」と、言ってハトラは海蝕洞のほうをむいた。
「おいしい魚をたくさんとってくるから、勘弁しておくれ」博士もう一匹、干魚を出した。
「ニャーーア」猫は喉を鳴らした。
「おい、まだか?」
「いまおろす」
やっと、荷物が縦穴からでてきた。
綱を留め具に結んで、荷降ろしにかかる。
「私の大発明に傷をつけるなよ」
ダームダルクは、荷台にのった滑空機械にそっとふれた。竹の構造材や、青銅のネジをつかった折りたたみ機構に必要以上の力をかけないように、絹布の翼をひっかいたりしないようにしながら、屋上におろす。羽毛のようにとまではいかないが、背負ったまま走ったり跳ねたりできるほど軽い。
「大発明なら、なぜわしをつかう?独り占めすればいいだろう」
「いかにも蛮人らしい考えよ」博士は嘆息した。「兄弟団の魔術師にふさわしい大計画ともなると、とにかく金がかかる。金だ。金をあつめるために、何がいる?」
「さあ」博士にとって、金は稼ぐものではないらしい。
「看板だよ」と、もう何度目かしれない説明がはじまった。
「私にとってはつまらなくても、富貴の人々にとっては魅力的な別の仕事を作るんだ。魔術の色をうすめて、説明のつく機械じかけのように見せかければ、人々の好奇心は恐怖にまさり、投機熱もでる。現に金は舞いこんできている。機械をつくってもあり余るほどの金がな。空飛ぶ軍隊をのぞむ傭兵隊長、そうした兵士たちに城壁を越えさせまいとする領主、貴様のような秘境探検の夢にとりつかれた輩、それに僻地に薬をとどけたいという貧乏医者まで、滑空機械に注目している」
演説に答えるかのように、北東から烈風が押しよせた。
「わしなら滑空機械だって秘密にするが…」
「隠すだけ無駄さ。こんなもの、私でなくても他の誰かが作る。だったら誰よりも早く手をつけて、第一人者としての富と名声をほしいままにするほうがいい。だろう?」
「ごちそうさまですニャー」
「よし、それじゃあお目付け役を頼んだよ。代わりをつかまえてくる面倒は、もういやだからね」
「水はこわいけど、がんばりますニャ」ハトラは博士に喉を撫でさせてやってから、ダームダルクの胸にとびこんだ。
「この子に一滴でも塩水をつけたら、後悔させてやるからな」
「分かってる」
ダームダルクは機械の点検にかかった。布や支柱、螺子の締め具合を確かめると機械を背負い、こんどは翼を開いたり閉じたりして、風に対して十分な強度があるかを確認した。
「始めろ」博士は蝋びきの石版をもち、鉄筆を振った。
ダームダルクは翼を展張し、北東を睨みつけた。
向かい風にむけて疾走する。
走って、走って、走って、屋上の縁は間近だ。
踏み切る。
一瞬の浮遊感。
急降下。博士からの視線を切る。高さを速さへ。
角度を緩めつつ左旋回。館の北側の角を回り込む。
南西に海。だが、まだ敷地のなかだ。
左手の石壁にはびこる草の蔓が宙を横切って迫る。
上からは建材のかけらが降ってくる。
追い風が味方した。
機械は一気に加速する。
横っ飛びであらゆる追手を振り切る。
たった一息のあいだに、眼下の景色は目まぐるしく変わった。
屋敷を取り囲む木立から、芋の畑と小作人たち、ココヤシの並ぶ浜辺。風にのってきた博士の罵声を引き離し、またたく間に海岸線を越える。鮫たちがわざとらしいまでにヒレを見せびらかして泳ぐ哨戒線だって、なんの邪魔にもならなかった。
自由だ。
と、先に呟いたのがハトラかダームダルクなのかは分からない。声に出したかどうかすらはっきりしない。空と海にむけて勝鬨をあげる気にはなれなかった。
島には、まだ囚われ人がいる。
夕方、大洋
問題があった。
助けとなった追い風が、構造材をひしゃげさせていた。
『ただで助けてくれるほど、風はお人好しじゃないよなあ』
北東風は機械をひたすらに南西へ、地図に書くことといったら海蛇だけのところへ押しながしていた。夕日の色にそまりつつある海には、白い帆も航跡も見当たらない。機械と太陽がうねる水面に近づいていくにつれ、先の見通しがきかなくなってくる。
『洞窟のほうに賭ければよかった』
「あそこに何があるんだ?」
『知らないよ』
「だったら、そんな大博打より…」
『大博打なら、配当もでかい』
ハトラが文句を垂れながしつづけるなか、ダームダルクは喉の渇きを唾でごまかしていた。水袋は背負い袋のなかで、飛んでいては取りだせない。腹も鳴っていた。
北西にまがれば陸だと、なんども話してはみたが、ハトラは頑として受けつけなかった。壊れかけの翼が折れたらどうする、そのうち船が見つかるかもしれないと、あくまでも直進を主張しつづけた。
右前方に、船影がある。
「わしの目が狂ったか」真っ赤な夕陽が目どころか顔一面を焼きにかかっていた。
『おれには舷を接しての戦いの真っ最中に見えるけど』
「じゃあ本物か、幻でなく」
『どっちも狂ってんのかも』
手前、北寄り、風上に陣取っているのは私掠船らしく、旗をかかげていない。三本檣で船首よりに横帆を、あとの二本に縦帆をそなえている。
南寄りの船は奇妙だった。見たこともない形をしている。櫂も帆柱もなく、船首と船尾の区別が全くつかない。航跡さえあれば見分けがついたかもしれないが、いまは止まっていた。もしも真上からみたら、樽の側板みたいな形をしているのだろう。知っている船型のなかでもっとも近いのは、箱船だった。
海賊は焼き討ちを図っているらしい。箱船の上に松明の明かりがいくつもあるが、炎は点々としたままで広がっていない。
見た目より、どちらの味方をするかこそ重要だったが、箱船は無視するには大きすぎた。
長さも幅も桁違いだ。二隻まとめて見ると、三本檣の帆船は一人乗りの手こぎ舟になった。
箱船の前後の長さといったら、甲板の後端から槍を投げたところで、真ん中にすらたどりつかないだろう。左右の幅は、並みの帆船の全長と同じくらいある。
それでも、箱船は異様なまでに細長い船だった。前後に長すぎる。
箱船は上構もおかしい。
左右非対称だからだ。箱船は船体中央、右舷の端に楼をたてている。およそ三階だてらしい。船尾楼のように士官が詰めているのかもしれない。船首と船尾がわからないが、ひとまず右舷ということにした。
三階建ての屋上には二つのものが立っている。
一つ目は帆柱のようだったが帆はない。ただ一本の横木があるものの、桁というには短すぎる。見張りが登るのかもしれないが、人影もない。
もう一つは塔のようだ。高さはさきほどの柱と同じくらいだが、太さが段違いだ。上構の半分ほどの大きさである。おそらく断面が楕円になった真っ直ぐな柱のような形だろう。まるで城郭の防御塔だが、天辺は黒一色で何もなく、誰もいない。
じりじりと高度が下がってきている。
南東側を通りすぎつつ、ダームダルクは船首ないし船尾を観察した。
両船の乾舷には大差がある。舷を接するといっても、実際に接しているのは、私掠船の中央斜桁と箱船の甲板だった。風が斜桁を押しやり、箱船の上縁にぶつけている。
またしても箱船の姿におどろかされた。甲板が海に張りだして、船体の幅を超えている。箱船を輪切りにしたらラッパの先端のように見えるはずだ。
戦いの様子は、まるで攻城戦だった。私掠船の水兵たちは、梯子ではなく、引っかけ鈎をつけた綱をとりつけてよじ登り、切り込みをかけている。
箱船の張りだしに、いくつか弩砲が積んであるが、もはや飛び道具の出る幕はなかった。
船たちは右後ろに流れ去ってゆく。
風をとらえて高度をあげると、支柱が悲鳴を上げた。
「曲がるぞ。もうもたない」
ハトラは声にならない悲鳴をあげた。
体重をずらすと、翼があちこちで軋みをあげて、とうとう一番端の竹が折れたが、なんとかして針路を真反対にできた。
向かい風が機体を持ちあげ、額の汗を吹きとばし、火照った顔を冷やしてくれた。
前下方に、北西から南東にかけて横たわる箱船がある。上構を無視すると真っ平らな甲板である。どんな船にもある舷弧がない。
落日を背にして近づくと、舷側に二種類の穴が無数にあるのがわかった。
一つは丸く小さな穴で窓のようだ。穴がところどころで黄金色に光り、透明な玻璃をはめていると示していた。どの穴も横一直線に並んでいる。同じ形の穴が、高さをかえて平行にあいている。縦の間隔は一定のようだが、横の間隔は不規則だった。櫂を出すための穴とは思えない。
もう一つは四角い穴だ。大きさは、手こぎ舟がおさまるか、それより大きいくらいだが、中は空洞のようだった。
穴と窓を除けば、船体は徹頭徹尾、灰色だった。甲板も、上構もだ。色塗りの手間をかけて地味な船をつくる物好きがいるとは、信じられなかった。
次から次へと湧きだす疑問を追い出す。とにかく降りるのだ。
降りる先は、箱船一択だ。針路も北東のまま。向かい風に向けて降りる必要があるし、私掠船は箱船の陰にかくれている。箱船の船体を横切るかたちでいながら、実際には横切らずに甲板に落ち着かなければいけない。
『大将、ちゃんと降りてくれよ。落ちるなよ、ぶつかるなよ』
もしも左右や高さをまちがえたら、船体や三階建ての楼に衝突するか、溺れるかだ。
甲板上の戦いは乱戦だった。誰ひとりとして空飛ぶ機械に気づいたようすはない。日没が迫りつつある。
『どっちの味方につくんだ?』
「箱船だ」
『やだねえ。強きをくじきって気持ちがないのかい?』
「大きな船ほど乗員が多い。じきに私掠船は負ける」
いよいよ船が大きくなってくる。男たちの雄叫びにまざって、女の勝鬨が耳に飛びこんできた。
甲板には三種類の動く影がある。
一つ目は、お揃いの衣装を着た者たちだ。剣の腕前はまずまずのようだ。
『あいつら、靴下でも被ってんのか?』
ハトラのいうとおりだった。誰一人として目鼻立ちがはっきりしない。それでいて十分に戦っているから、視界をふさぐような真似をしているとは思えなかった。
中でも目立つのは、庭師がつかうような両手持ちの鋏を振り回して、当たるを幸い暴れまわっているものだ。上から下まで、熱地の太陽が作り出す影のように真っ黒で、体つきからすると女だ。一人殺すたびの勝鬨が、推測を裏づけた。
二つ目は、角材を組みあわせた人形だった。腕を水車のように振りまわし、相手を容赦なく叩きのめしている。切りつけられても動きは鈍らず、火をかけられても、焼け落ちる寸前まで動いていた。
あいにくと、箱船の乗員は、顔を隠した戦士たちと木偶人形たちのようだった。どちらも箱船の楼に飛び込もうとする者を退けるように動いている。
『死体の人形よりましかな』
「でも、降りるしかない」ハトラの言うとおり、博士の館の人形をおもいだした。
最後は海の荒くれ男たちだ。片手には海刀や斧、もう片手には松明。二対一に持ちこんだり、仲間が甲板によじのぼるまでの時間を稼いだり、手練の動きだ。
戦況は私掠船に有利のようだった。箱船は大きさの割に、数が少ない。
『やっぱ箱船の味方?』
「恩を高く売ってやる」
『いかにも、魔法の船って感じだもんな』
「先生は博士だけじゃない」
『でも、大穴だぜ。こりゃ』
「海賊が、遅れてきた来たやつにおいしいところを渡すか?」
引き返せる一線を超えた。
ダームダルクは、箱船の上構のわき、舷側ぎりぎりのところを見据えた。私掠船の男が一人、背を向けて母船へなにごとか叫んでいる。
半ば墜落するような角度で飛びこみ、引き起こす。
竹の折れる派手な音がした。
絹布の翼がはためき、後ろに流れる。
男が振り返る。
胸板に飛び蹴り。
速さという速さが、相手の体に叩きこまれた。
男は宙に浮き、甲板の外へ。
ダームダルクは背中から甲板に落ちた。下は砂っぽい土だった。それも花壇だ。木ではない。いくつもの花を下敷きにしていた。間違いない。地植えの花だ。一、二歩あるけば、土ではなく別の素材の甲板に踏み出す程度の、こじんまりとした花壇だ。
「まだ飛びだすなよ」
留め具を外し、機械をおろす。背負い袋もおろして、壊れた翼にのせた。風に飛ばされたりしなければ、なんとか修理できるかもしれない。宵闇のせまる大海原の只中で、わけも分からぬ船にいるのだ。どんなものでも手元においておきたかった。
「あれはまだか?」私掠船の男が、一人駆けつけ、訊ねてきた。
ダームダルクは短剣を投げて黙らせた。
『あれってのが、祝い酒と肴だったらいいよな』
得物を抜きとり、倒れた男からは斧を奪って口に咥える。火のついている松明もさらいとって駆けだし、帆船へむけて跳んだ。
敵船
甲板から中央斜桁へ飛びうつらんとしたまさにその瞬間だった。
突風が帆船を揺らし、ダームダルクの目算をあざわらった。
宵闇もまた、距離の計算を狂わせた。
揚綱めがけた片手が空を切る。
遥か下には甲板だ。
ダームダルクは空振りの勢いを逆手にとった。
空中で半身をひねり、腕を斜桁にからめる。
脱臼をおこしそうなほどの衝撃。
斧の柄を歯型がつくほどに食いしばる。
足を振りあげ桁にまたがるなり、松明に帆布を味見させた。
海の匂いがしみついた厚手の布を、炎の舌がなめていき、煙をあげる。もう片方の手で斧を振るって、桁を吊りあげて支える揚綱を一本、さらに這いずって、もう一本と断ちきる。
斜桁が自重で沈みこむ。しなる円材をとおして、あと一本きりとなった揚綱の緊張が伝わってきた。
ダームダルクは、桁の上を主檣から離れる方向へはいずっていく。
たちのぼる煙が目に染みたし、足も熱い。
『これじゃ燻製だ』ハトラがわめくのと、
「火事だ!」甲板で声があがるのは同時だった。
投げ棍棒がいくらかとんできたが、どれも的を外していた。
『はやくずらかろう』
「ちょっと待ってろ」
ふたたび斧を口でくわえて、斜桁の端ちかくにたどりつく。
わずかに手加減をして、最後の揚綱に切りつけた。
もはや綱は桁の重みに耐えられない。一本、二本と、より糸が切れていく音がするなか、斧を口にもどす。すかさず、空けた手で切りつけたところより上の綱をつかむ。
桁を何度も蹴りつけて、綱の断裂を加速させる。ダームダルクが長靴を打ちおろすたび、橙色の毛布と化しつつある帆がゆらめく。火勢はいや増すばかりだ。
四度目の蹴りが、とうとう揚綱を断ちきった。
中央斜桁は音をたてて主檣を滑りおちる。男たちの悲鳴。誰かが飛び込んでの水音。覆いかぶさるようにして、猛火の幕が甲板を彩った。
いまやダームダルクは、振り子のように主檣めがけて飛んでいる。煙にむせびながらも首をよじり、主檣との間合いを目算した。船一番の円材に叩きつけられる刹那、綱をいっそう強く握りしめ、両足で主檣を蹴りつけた。
弧を描いて飛ぶ。
手を離す。
後方斜桁が迫る。
揚綱に取りついた。
両足を桁にのせ、片手をもっとも船尾よりの揚綱にかけて、三点で体をささえる。
『ああ、もう、大将っ』
ハトラがわめくなか、ダームダルクは身をかがめて帆へ火をつけた。揺れる桁のうえで慎重に平衡をとり、より後檣にちかい次の揚綱へ移ろうとしたとき、
「人形め、叩き壊してやる」
海賊の怒号が飛んできた。
『大将を角材人形と間違えるなんざ、ヤキが回ってるね、ありゃ』
声の主はみるみるうちに檣楼をよじのぼってくる。
「いや、てめえ、陸者だな。どっちにせよ高くつくぜ」
相手の腰には海刀がある。服も髪も焼け焦げだらけだ。斧で口がふさがっているのは分かってるだろうに、相手は喋りつづける。
「手ぇ放してみろよ」海賊の顔が、斜桁の根本近くにきた。
敵があざ笑うのにあわせて、ダームダルクは松明を下にむけた。相手がなおも笑ったところで、松明を高く投げあげる。
空いた手で斧をつかんで振りあげる。最上段の構えこそ最高と信じているかのように。
「ハトラ、頼む」言い終わらないうちに、胸から黒い稲妻が飛びだす。
海賊の視線は炎にきらめく刃に釘付けになったままだ。決して油断してはいけない爪と牙、それに気づいたときには、手遅れだ。
声にならない悲鳴があがる。
海賊の顔に真っ赤な線が走る。
檣から敵の手がはなれる。
ダームダルクは斧をくわえなおし、手を火傷しながら松明をつかみとった。ほぼ同じくして、甲板に重い物の落ちる音がした。
『煙臭くなっちまう』黒猫は跳びもどって、ふたたび胸の刺青と化した。
ハトラの文句にうなずいたおかげで、ダームダルクは命拾いした。
煙のなかから投槍が飛びだし、さきほどまでダームダルクの頭があった場所をかすめた。
なかば反射で跳び、前方の揚綱をつかんだ。ふたたび松明を帆に近づける。布は猛然と燃えているが、甲板に落ちてはくれない。
下では男たちの怒声と、木の爆ぜる音が響きわたる。煙が生きているかのように膨れ上がったが、灰色の雲ごしでさえ業火を捉えることができた。鯨油の燃えるにおいと、火酒の香りとが混ざった悪臭が鼻をついた。
『火攻めもおじゃん。宴会もおじゃん』
槍のきたほうへ松明を投げすて、ダームダルクは腰の短剣を抜いた。
氷のような刃を、つかんでいるところより上にあてがう。
二度三度切りつけ、綱を断つ。
無事な揚綱はあと一本だ。
短剣をしまい、今度は斧だ。
「人形め、この野郎」ふたたび後櫓を、海賊がのぼってくる。
かまうことなく、ダームダルクは斧を振りかぶった。
綱めがけて投げつける。
ぶつんと、いう音とともに、足場が消えた。
滑落する桁が炎と人とを巻き込む。
「息止めとけ」
『水はイヤだあぁ』
ダームダルクは、ふたたび振り子となった。
後檣を力いっぱい蹴りつける。
前下方に舵が見えた。
綱を手ばなす。
船尾を越す。
海へ。
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