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【中編小説】兄弟と遊弋書庫【まとめ読み】

(あらすじ)異邦の王子ダームダルクは、傲慢ケチ博士のもとでの修行が嫌になり、博士の発明した滑空機械を盗んで脱走。ところが嵐のせいで機械は壊れるわ、人外の者をのせた船に不時着するわ、とかく自由への道は険しい。そんな七転び八起きの冒険活劇×幻想怪奇。

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主要登場人物
(別ウインドウで開いたり、スクショを取ったりしてご活用ください)
ダームダルク・博士の弟子
バーキャルク・ダームダルクの弟
ツァフ博士・・島の魔術師
ハトラ・・・・博士の使い魔。刺青
ハルムト・・・博士の小作人。子供
船長・・・・・遊弋書庫の乗員
庭師・・・・・同上

夜、館の中

 通路のさきで音がした。
 垂幕を引きあけ、壁龕に飛びこむ。
 ダームダルクは何かを踏みつけた。神経を張りつめていたからこそ気づけた、わずかな応力だ。
 バネじかけにのった石が、致死の罠へ通じているのだろうか。
 心臓は早鐘をうつ。三拍ですら永遠だ。
 耳をすます。何かが動いたりこすれたりする音はしない。
 踏んだ途端に跳ねあがる罠と、踏んだ足を持ちあげたときに動く罠、博士なら後者を好むにちがいない。恐怖で獲物をなぶるために。まるで猫だ。
『そりゃないぜ、大将』
 胸のなかで、ハトラが文句をたれて、心臓を甘噛みした。声は骨をつたってダームダルクの耳にとどく。外にもれるおそれはない。
 おそるおそる、すり足で長靴をどける。窓のない通路からもれこむ、燐なしの燐光をたよりに検分したが、からくりらしいものはみつからない。
 靴底を見ると、フナムシが一匹、つぶれてはりついていた。
「どれどれ」胴着をはだけたところから、ハトラが顔を出した。
 ハトラは真っ黒な鼻と、銀線細工のようなひげをひくつかせた。かすかに血の透けてみえるおかげで、煙ったすもも色の口紅を思わせる三角耳も動かした。さらに緑の目いっぱいに広げたぬばたまの瞳で虫をあらため、
「この島のじゃない。シンダランのだ」
「しいっ」ダームダルクの忠告よりも、胸元から首を出しているハトラが、胸にきざまれた黒猫の刺青に変わるほうが早かった。
『博士の荷物にまぎれてたんだな。こないだ陸揚げしたやつがクサい』
 拱廊の左手から、死体の継ぎ接ぎ人形が鎖帷子の裾をひきずってあるく、耳ざわりな音がやってくる。
 垂れ幕が隠してくれるのは、くるぶしまでだ。
 動くべきだろうか。壁に両手を突っぱれば、両足を持ちあげるなどたやすい。だが、じっとしているべきかもしれない。向こうは目ではなく耳であたりを探っているのかもしれない。館には虚ろな眼窩をもつ人形もいる。蝙蝠の群れは見かけなくなった。夕方になるたびに無数に湧いて出ていたのに、ひと月前に突如として姿を消した。
 迷っているあいだに音が目の前を通りすぎた。
 右へ右へと遠ざかっていき、やがてかすれて消えた。
『ほぉら、おれの読みどおりだろ』
 垂れ幕をめくって左右を見わたす。左も右も進むべき道ではないことは学んでいたが、人形たちをよけつつ息をころして進むうちに、この通路に行きつかざるをえなくなっていた。
 布を揺らさないようにして壁龕へ首を引っこめると、何かが頭をなでたような気がした。
 上を向いても誰もいないが、見上げたかいはあった。壁龕は天井をもたず、四角い煙突のような作りになっている。通路を照らすのと同じ光が、縦穴から暗闇を追いはらっている。光は途中で消えて穴の行くすえは見通せないが、しばらく上にすすんだところには、横穴らしい暗がりがある。
 両手を突っ張り、体と両足を持ち上げた。次は両足に力を込めて、両手を持ち上げる。熱帯の太陽が館をさんざんに火あぶりにしたはずなのに、縦穴の壁は冷たい。じきに指がしびれてくるだろう。
『出口は下だぜ』
「わかってる」
 規則正しい拍子でいけば、おもいのほか楽な道のりだ。
『天に昇るって感じだよな。落っこちたら本当に昇天だけど。まさか死ぬ気じゃないよな、大将?』
 死ななくても、怪我はするような高さまできた。横穴まであと十拍といったところだが、指の感覚はにぶってきた。
 ふたたび、何かが頭をなでた気がした。
 見上げると、水晶玉が浮いていた。壁をこすらんばかりの特大のもので、直径の三分の一ほどある模様が一つほどこしてある。
 目玉模様だ。
 と、気づいたときには目があっていた。
 模様は、だんだんと大きくなってきた。
『顔ちかいよ。いや、目が近いのかな』
 昇るときとは逆の動きをする。昇るときよりも早く繰りかえした。
 目玉はあとをつけてくる。ただただ降りてくる。音もたてずに。
 次第に床が近づいてきた。音を立てるのを覚悟で飛びおりた。
 全身をバネにして衝撃を殺す。
 ふりかえりもせず、壁龕からまろびでる。
 ダームダルクは、独房同然の自室に逃げもどった。

朝、鳥小屋

 草原の大王カーガーンは、東の海岸から西の山麓、西南の砂漠に至るまで、馬を進められるかぎりことごとく征服した。
 ともに戦功をあげた王子たちは、大勢の戦士と家族、家畜を引き連れ、各地に散った。みな乳にも肉にも小麦にも困らず、奢侈品にもことかかない暮らしぶりである。征服者たちは暴虐でこそなかったが、困窮はしなかった。
 中には不遇をかこつ兄弟たちもいた。生まれるのが遅く、波に乗り遅れた者たちだ。戦功がないものだから、旗を掲げても戦士は集まらない。人が集まらないから、自由に使える土地にもありつけない。隙間に入り込んで窮屈な暮らしに甘んじる気にもなれず、兄弟間の争いに負けて敗走することは屈辱だった。
 だからダームダルクは南方の熱地に活路を求めた。捲土重来を夢見て。
 一つ気がかりな噂がある。父王は不死身だというのだ。兄弟や甥、叔父なら何人も没していたが、王が崩御したとは聞かない。

§

 ダームダルクは箒でずっとおなじ場所を掃いていた。
「床磨きに精が出るねえ」
 朝日が差しこむ鳥小屋のすみでハトラが笑う。にやにやしたまま。後ろ足でわらくずを動かして、抜け穴を隠している。
 小鳥たちは、黒猫のせいで恐慌をきたした。
 あるものは喉が張り裂けんばかりに鳴く。別のものは羽が千切れんばかりに飛びまわる。金網にぶつかるものも、柱にぶつかるものもいる。気絶して墜落したものだっている。
 そんな鳥たちをながめて、ハトラは喉を鳴らしている。
「出してやれよ」ダームダルクは皿に餌と水をついでまわる。
「逃げたらどうする?」
「わしが得をする。仕事が減るし、きっと博士は猫よけのまじないをしかける。魔法を学ぶにはうってつけよ」
「そいつはいい。大草原と大山脈、大海原を越えるの旅のはてに猫よけの術を学ぶ。歌になるぜ」
「おぬしこそ、あらゆる海でねずみどもに悪夢をみせておきながら、いまじゃただのしゃべくり屋じゃないか」
「おたがい、乗る船を間違えたのさ」
 ハトラは耳をかいた。ダームダルクは肩をすくめた。
 小屋の戸口をたたく音がした。
 振りむくと、木戸の鉄格子ごしに顔がみえて、すぐ下に消えた。子どもだった。
 ふたたび顔がみえて、戸をたたく音がした。
 とびあがって、窓の高さまで顔を持ちあげているらしい。小作人の息子で、たしかハルムトという名だ。昨日もきたし、おとといもきた。
「芋をありがとう」と言ってはみたが、子どもは木の扉を叩きつづけた。
「おつかいは終わったんだ。帰ったほうがいい」
 返事はない。まえは、どの小作人もすなおに聞きいれて、来た道をもどってくれたのだが、この頃はそうもいかなくなってきた。
 用具一式を放りだし、戸口へ駆けつける。
「外で話そう」と言ったが、向こうはかまわず話しはじめた。
「骨をかえして、ください」
 博士の実験台たちは、人の胸骨から餌をついばみ、頭蓋骨から水をのむ。取りかえしたいのがどの骨か、見当はついた。
「あなたは博士に顔がきくんでしょう」
「買いかぶりすぎだ」
「早く帰ったほうがいい。昨日みたいに三つごまかしていいから」
「おかあさんの骨なんです」扉を両手で叩く音がした。
「四つでもいい、ココヤシでもいいぞ」
「そんなのいりません」
「鍵なんてないんだぞ」
「人のものを勝手にとってはだめって、お母さんがいってました」
 ダームダルクが骨を持ち出さない理由とは大違いだった。そもそも同じ理由だったら、博士の館のそばで長居はしない。
「いいから帰れ」扉をあけようとしたが、動かなかった。ハルムトは戸に体を押しつけているらしい。
「どうしようもないんだよ」なおも扉に力を込めるが、駄目だった。
 馬鹿力だ。
「骨じゃなくたっていいでしょう。お芋でたりないなら、お皿もお納めしますから」
「そういう道理が分かってるなら、さっさと帰れ」扉はびくともしない。
「いや、です」
 鉄格子ごしに、輪縄がみえた。上から降りてきたのだ。
 次の瞬間、扉のつっかえがとれた。
 勢い余ったダームダルクは、両手を前に突きだした格好で転んだ。
 歯を食いしばって顔をあげると、縄が子どもを引っ立てていくのがみえた。ハルムトは首から縄を外そうともがくが、かなわない。
 ダームダルクは立ち上がって駆けだした。
 綱は速度をあげた。子どもの顔に一瞬だけ苦悶の表情がうかび、すぐに体から力が抜けた。綱は手近な木の太枝に、一方の端を引っかけた。
 まだ大きくなれるはずの体が、軽々と地面から持ちあげられる。
 首の骨の折れる音が、木立に吸い込まれた。
 ハルムトは振り子のようにゆれるだけで、指一本うごかしはしない。
「もういいだろう。この子は死んだんだ。盗賊でもないのに、盗賊みたいにして」と、ダームダルクは綱に用心深い目線をそそぎながら、亡骸に手を伸ばした。
 すると綱はひとりでにほどけた。ダームダルクの両腕に、まだ温かい子どもの重みが飛びこんできた。
 ダームダルクは農場へ向かおうとしたが、綱が道を塞いだ。横一直線になって、宙に浮いている。よけようとしても無駄だった。鳥小屋へと戻ることはできたが、埋葬穴は掘らせてもらえず、遺体は野ざらしになった。いずれ博士の実験台になるということだ。
 ハルムトが持ってきたかごには、大人ですら担ぐのを嫌がるほどの量が詰まっていた。
 ようやく、扉のことを思いだした。
 駆けもどると、鳥小屋の前にハトラがすわっていた。木戸は閉まっている。そういえばそういう猫だった。一瞬だけ、ハトラの顔に得意そうな表情が浮かんだが、ほんのわずかの間だった。
「大将、いい忘れてたんだけどさ。このあと実験なんだ」伝言を終えると、黒猫は胸に飛びこんできて、刺青に化けた。
『もう、あれに賭けるしかないぜ』ハトラのぼやきが体のなかにひびいた。

屋上

 ダームダルクが館の屋上に出ると、大振りで濃緑の葉を風が揺らす音がきこえてきた。より遠くでは青緑の海が白波をたてていた。貿易船にはうってつけの北東風が木立のあいだを吹きぬけ、顔にぶつかってくる。
 屋上のへりには青銅の手すりがある。蜘蛛や蝙蝠をかたどった細工がほどこしてあり、朝日を浴びて眩しいほどにかがやいている。
 南西と北東にだけは手すりがない。
 島のはずれにある海蝕洞を目の端に収めつつ、ツァフ博士が待つ南西側へ小走りする。博士は離れていても目立つ大きさの柘榴石の指輪をはめていて、南国の鳥をおもわせる長衣を風にはためかせていた。
「その荷物は?」
 博士は眉間にしわをよせて、ダームダルクを指差してきた。
「最大積載量とやらを試したいと、言っていたと思うのだが」
「中を見せろ」
「大したものは入れてない」ダームダルクは背負い袋をゆすった。
「見せろ」
 うつむくと、刺青のハトラと目があったが、猫は無言だった。
 言われるとおりに中を見せると、博士は鼻をならした。
「探検用具一式、か。私の島に押しかけてきた時の荷物のようだが…」博士は荷物をまさぐって「堅パンが多いな。重量試験なら石でもつめておけばいいものを。だいたい、私がわけてやっている食事を、栗鼠みたいにこそこそと隠してためこむとは、どういうつもりだ?」
「先生に似たのさ」
「はっ。まあいい。で、それはなんだ」博士は、ダームダルクが腰帯にさしている二本の短刀を指さした。
「護身用ですよ。落ちても、無事に帰れるように。もしも小作人たちが変な気をおこしたときのために」
「そう、変な気を起こしたときのためにな。」博士はにんまりと笑うと、懐に手を入れた。同時に、ハトラが胸から飛びだし、博士の足元にすがりついて、ニャーニャーと鳴く。
「さあさあ、腹ごしらえしましょうねー」
「おいしそうですニャー」出された干魚に、黒猫はかぶりついた。ダームダルク用の食事とはちがって、骨は取ってあるらしい。
「いいか、小僧。裏切ったら、分かってるな。神話の英雄の剣すらかすむような爪と牙をもつかわいい小悪魔が、おまえの大動脈を切りさくのは簡単なことだぞ。おまえとちがって…」
 話しながら、博士がかたわらの滑車じかけをあごで示すと、ダームダルクは綱にとびついて、せっせと引きはじめた。黙って話をきいていたら吹きだしそうだった。
 滑車から垂れる綱は、縦穴にのびていて、いきつく先は倉庫だ。仕事をしているあいだ、ハトラは博士のご機嫌をとっていた。
「はかせぇ、あっちのお仕事は順調ですかニャ」
「順調だよぉ。おまえは元気かい?」
「ちょっと体がなまってますニャ。また博士の船にのって、ネズミ捕りしたいですニャ」
「そうさせてやりたいのはやまやまだけど、あの図々しいおしかけ弟子の見張りをしてもらわないといけない。まったく、草喰らいの蛮人どもが、南の島にまでやってくるとは思わなかったよ」
「じゃあ、新しい船が出来ても、お留守番ですかにゃ」と、言ってハトラは海蝕洞のほうをむいた。
「おいしい魚をたくさんとってくるから、勘弁しておくれ」博士もう一匹、干魚を出した。
「ニャーーア」猫は喉を鳴らした。
「おい、まだか?」
「いまおろす」
 やっと、荷物が縦穴からでてきた。
 綱を留め具に結んで、荷降ろしにかかる。
「私の大発明に傷をつけるなよ」
 ダームダルクは、荷台にのった滑空機械にそっとふれた。竹の構造材や、青銅のネジをつかった折りたたみ機構に必要以上の力をかけないように、絹布の翼をひっかいたりしないようにしながら、屋上におろす。羽毛のようにとまではいかないが、背負ったまま走ったり跳ねたりできるほど軽い。
「大発明なら、なぜわしをつかう?独り占めすればいいだろう」
「いかにも蛮人らしい考えよ」博士は嘆息した。「兄弟団の魔術師にふさわしい大計画ともなると、とにかく金がかかる。金だ。金をあつめるために、何がいる?」
「さあ」博士にとって、金は稼ぐものではないらしい。
「看板だよ」と、もう何度目かしれない説明がはじまった。
「私にとってはつまらなくても、富貴の人々にとっては魅力的な別の仕事を作るんだ。魔術の色をうすめて、説明のつく機械じかけのように見せかければ、人々の好奇心は恐怖にまさり、投機熱もでる。現に金は舞いこんできている。機械をつくってもあり余るほどの金がな。空飛ぶ軍隊をのぞむ傭兵隊長、そうした兵士たちに城壁を越えさせまいとする領主、貴様のような秘境探検の夢にとりつかれた輩、それに僻地に薬をとどけたいという貧乏医者まで、滑空機械に注目している」
 演説に答えるかのように、北東から烈風が押しよせた。
「わしなら滑空機械だって秘密にするが…」
「隠すだけ無駄さ。こんなもの、私でなくても他の誰かが作る。だったら誰よりも早く手をつけて、第一人者としての富と名声をほしいままにするほうがいい。だろう?」
「ごちそうさまですニャー」
「よし、それじゃあお目付け役を頼んだよ。代わりをつかまえてくる面倒は、もういやだからね」
「水はこわいけど、がんばりますニャ」ハトラは博士に喉を撫でさせてやってから、ダームダルクの胸にとびこんだ。
「この子に一滴でも塩水をつけたら、後悔させてやるからな」
「分かってる」
 ダームダルクは機械の点検にかかった。布や支柱、螺子の締め具合を確かめると機械を背負い、こんどは翼を開いたり閉じたりして、風に対して十分な強度があるかを確認した。
「始めろ」博士は蝋びきの石版をもち、鉄筆を振った。
 ダームダルクは翼を展張し、北東を睨みつけた。
 向かい風にむけて疾走する。
 走って、走って、走って、屋上の縁は間近だ。
 踏み切る。
 一瞬の浮遊感。
 急降下。博士からの視線を切る。高さを速さへ。
 角度を緩めつつ左旋回。館の北側の角を回り込む。
 南西に海。だが、まだ敷地のなかだ。
 左手の石壁にはびこる草の蔓が宙を横切って迫る。
 上からは建材のかけらが降ってくる。
 追い風が味方した。
 機械は一気に加速する。
 横っ飛びであらゆる追手を振り切る。
 たった一息のあいだに、眼下の景色は目まぐるしく変わった。
 屋敷を取り囲む木立から、芋の畑と小作人たち、ココヤシの並ぶ浜辺。風にのってきた博士の罵声を引き離し、またたく間に海岸線を越える。鮫たちがわざとらしいまでにヒレを見せびらかして泳ぐ哨戒線だって、なんの邪魔にもならなかった。
 自由だ。
 と、先に呟いたのがハトラかダームダルクなのかは分からない。声に出したかどうかすらはっきりしない。空と海にむけて勝鬨をあげる気にはなれなかった。
 島には、まだ囚われ人がいる。

夕方、大洋

 問題があった。
 助けとなった追い風が、構造材をひしゃげさせていた。
『ただで助けてくれるほど、風はお人好しじゃないよなあ』
 北東風は機械をひたすらに南西へ、地図に書くことといったら海蛇だけのところへ押しながしていた。夕日の色にそまりつつある海には、白い帆も航跡も見当たらない。機械と太陽がうねる水面に近づいていくにつれ、先の見通しがきかなくなってくる。
『洞窟のほうに賭ければよかった』
「あそこに何があるんだ?」
『知らないよ』
「だったら、そんな大博打より…」
『大博打なら、配当もでかい』
 ハトラが文句を垂れながしつづけるなか、ダームダルクは喉の渇きを唾でごまかしていた。水袋は背負い袋のなかで、飛んでいては取りだせない。腹も鳴っていた。
 北西にまがれば陸だと、なんども話してはみたが、ハトラは頑として受けつけなかった。壊れかけの翼が折れたらどうする、そのうち船が見つかるかもしれないと、あくまでも直進を主張しつづけた。
 右前方に、船影がある。
「わしの目が狂ったか」真っ赤な夕陽が目どころか顔一面を焼きにかかっていた。
『おれには舷を接しての戦いの真っ最中に見えるけど』
「じゃあ本物か、幻でなく」
『どっちも狂ってんのかも』
 手前、北寄り、風上に陣取っているのは私掠船らしく、旗をかかげていない。三本檣で船首よりに横帆を、あとの二本に縦帆をそなえている。
 南寄りの船は奇妙だった。見たこともない形をしている。櫂も帆柱もなく、船首と船尾の区別が全くつかない。航跡さえあれば見分けがついたかもしれないが、いまは止まっていた。もしも真上からみたら、樽の側板みたいな形をしているのだろう。知っている船型のなかでもっとも近いのは、箱船だった。
 海賊は焼き討ちを図っているらしい。箱船の上に松明の明かりがいくつもあるが、炎は点々としたままで広がっていない。
 見た目より、どちらの味方をするかこそ重要だったが、箱船は無視するには大きすぎた。
 長さも幅も桁違いだ。二隻まとめて見ると、三本檣の帆船は一人乗りの手こぎ舟になった。
 箱船の前後の長さといったら、甲板の後端から槍を投げたところで、真ん中にすらたどりつかないだろう。左右の幅は、並みの帆船の全長と同じくらいある。
 それでも、箱船は異様なまでに細長い船だった。前後に長すぎる。
 箱船は上構もおかしい。
 左右非対称だからだ。箱船は船体中央、右舷の端に楼をたてている。およそ三階だてらしい。船尾楼のように士官が詰めているのかもしれない。船首と船尾がわからないが、ひとまず右舷ということにした。
 三階建ての屋上には二つのものが立っている。
 一つ目は帆柱のようだったが帆はない。ただ一本の横木があるものの、桁というには短すぎる。見張りが登るのかもしれないが、人影もない。
 もう一つは塔のようだ。高さはさきほどの柱と同じくらいだが、太さが段違いだ。上構の半分ほどの大きさである。おそらく断面が楕円になった真っ直ぐな柱のような形だろう。まるで城郭の防御塔だが、天辺は黒一色で何もなく、誰もいない。
 じりじりと高度が下がってきている。
 南東側を通りすぎつつ、ダームダルクは船首ないし船尾を観察した。
 両船の乾舷には大差がある。舷を接するといっても、実際に接しているのは、私掠船の中央斜桁と箱船の甲板だった。風が斜桁を押しやり、箱船の上縁にぶつけている。
 またしても箱船の姿におどろかされた。甲板が海に張りだして、船体の幅を超えている。箱船を輪切りにしたらラッパの先端のように見えるはずだ。
 戦いの様子は、まるで攻城戦だった。私掠船の水兵たちは、梯子ではなく、引っかけ鈎をつけた綱をとりつけてよじ登り、切り込みをかけている。
 箱船の張りだしに、いくつか弩砲が積んであるが、もはや飛び道具の出る幕はなかった。
 船たちは右後ろに流れ去ってゆく。
 風をとらえて高度をあげると、支柱が悲鳴を上げた。
「曲がるぞ。もうもたない」
 ハトラは声にならない悲鳴をあげた。
 体重をずらすと、翼があちこちで軋みをあげて、とうとう一番端の竹が折れたが、なんとかして針路を真反対にできた。
 向かい風が機体を持ちあげ、額の汗を吹きとばし、火照った顔を冷やしてくれた。
 前下方に、北西から南東にかけて横たわる箱船がある。上構を無視すると真っ平らな甲板である。どんな船にもある舷弧がない。
 落日を背にして近づくと、舷側に二種類の穴が無数にあるのがわかった。
 一つは丸く小さな穴で窓のようだ。穴がところどころで黄金色に光り、透明な玻璃をはめていると示していた。どの穴も横一直線に並んでいる。同じ形の穴が、高さをかえて平行にあいている。縦の間隔は一定のようだが、横の間隔は不規則だった。櫂を出すための穴とは思えない。
 もう一つは四角い穴だ。大きさは、手こぎ舟がおさまるか、それより大きいくらいだが、中は空洞のようだった。
 穴と窓を除けば、船体は徹頭徹尾、灰色だった。甲板も、上構もだ。色塗りの手間をかけて地味な船をつくる物好きがいるとは、信じられなかった。
 次から次へと湧きだす疑問を追い出す。とにかく降りるのだ。
 降りる先は、箱船一択だ。針路も北東のまま。向かい風に向けて降りる必要があるし、私掠船は箱船の陰にかくれている。箱船の船体を横切るかたちでいながら、実際には横切らずに甲板に落ち着かなければいけない。
『大将、ちゃんと降りてくれよ。落ちるなよ、ぶつかるなよ』
 もしも左右や高さをまちがえたら、船体や三階建ての楼に衝突するか、溺れるかだ。
 甲板上の戦いは乱戦だった。誰ひとりとして空飛ぶ機械に気づいたようすはない。日没が迫りつつある。
『どっちの味方につくんだ?』
「箱船だ」
『やだねえ。強きをくじきって気持ちがないのかい?』
「大きな船ほど乗員が多い。じきに私掠船は負ける」
 いよいよ船が大きくなってくる。男たちの雄叫びにまざって、女の勝鬨が耳に飛びこんできた。
 甲板には三種類の動く影がある。
 一つ目は、お揃いの衣装を着た者たちだ。剣の腕前はまずまずのようだ。
『あいつら、靴下でも被ってんのか?』
 ハトラのいうとおりだった。誰一人として目鼻立ちがはっきりしない。それでいて十分に戦っているから、視界をふさぐような真似をしているとは思えなかった。
 中でも目立つのは、庭師がつかうような両手持ちの鋏を振り回して、当たるを幸い暴れまわっているものだ。上から下まで、熱地の太陽が作り出す影のように真っ黒で、体つきからすると女だ。一人殺すたびの勝鬨が、推測を裏づけた。
 二つ目は、角材を組みあわせた人形だった。腕を水車のように振りまわし、相手を容赦なく叩きのめしている。切りつけられても動きは鈍らず、火をかけられても、焼け落ちる寸前まで動いていた。
 あいにくと、箱船の乗員は、顔を隠した戦士たちと木偶人形たちのようだった。どちらも箱船の楼に飛び込もうとする者を退けるように動いている。
『死体の人形よりましかな』
「でも、降りるしかない」ハトラの言うとおり、博士の館の人形をおもいだした。
 最後は海の荒くれ男たちだ。片手には海刀や斧、もう片手には松明。二対一に持ちこんだり、仲間が甲板によじのぼるまでの時間を稼いだり、手練の動きだ。
 戦況は私掠船に有利のようだった。箱船は大きさの割に、数が少ない。
『やっぱ箱船の味方?』
「恩を高く売ってやる」
『いかにも、魔法の船って感じだもんな』
「先生は博士だけじゃない」
『でも、大穴だぜ。こりゃ』
「海賊が、遅れてきた来たやつにおいしいところを渡すか?」
 引き返せる一線を超えた。
 ダームダルクは、箱船の上構のわき、舷側ぎりぎりのところを見据えた。私掠船の男が一人、背を向けて母船へなにごとか叫んでいる。
 半ば墜落するような角度で飛びこみ、引き起こす。
 竹の折れる派手な音がした。
 絹布の翼がはためき、後ろに流れる。
 男が振り返る。
 胸板に飛び蹴り。
 速さという速さが、相手の体に叩きこまれた。
 男は宙に浮き、甲板の外へ。
 ダームダルクは背中から甲板に落ちた。下は砂っぽい土だった。それも花壇だ。木ではない。いくつもの花を下敷きにしていた。間違いない。地植えの花だ。一、二歩あるけば、土ではなく別の素材の甲板に踏み出す程度の、こじんまりとした花壇だ。
「まだ飛びだすなよ」
 留め具を外し、機械をおろす。背負い袋もおろして、壊れた翼にのせた。風に飛ばされたりしなければ、なんとか修理できるかもしれない。宵闇のせまる大海原の只中で、わけも分からぬ船にいるのだ。どんなものでも手元においておきたかった。
「あれはまだか?」私掠船の男が、一人駆けつけ、訊ねてきた。
 ダームダルクは短剣を投げて黙らせた。
『あれってのが、祝い酒と肴だったらいいよな』
 得物を抜きとり、倒れた男からは斧を奪って口に咥える。火のついている松明もさらいとって駆けだし、帆船へむけて跳んだ。

敵船

 甲板から中央斜桁へ飛びうつらんとしたまさにその瞬間だった。
 突風が帆船を揺らし、ダームダルクの目算をあざわらった。
 宵闇もまた、距離の計算を狂わせた。
 揚綱めがけた片手が空を切る。
 遥か下には甲板だ。
 ダームダルクは空振りの勢いを逆手にとった。
 空中で半身をひねり、腕を斜桁にからめる。
 脱臼をおこしそうなほどの衝撃。
 斧の柄を歯型がつくほどに食いしばる。
 足を振りあげ桁にまたがるなり、松明に帆布を味見させた。
 海の匂いがしみついた厚手の布を、炎の舌がなめていき、煙をあげる。もう片方の手で斧を振るって、桁を吊りあげて支える揚綱を一本、さらに這いずって、もう一本と断ちきる。
 斜桁が自重で沈みこむ。しなる円材をとおして、あと一本きりとなった揚綱の緊張が伝わってきた。
 ダームダルクは、桁の上を主檣から離れる方向へはいずっていく。
 たちのぼる煙が目に染みたし、足も熱い。
『これじゃ燻製だ』ハトラがわめくのと、
「火事だ!」甲板で声があがるのは同時だった。
 投げ棍棒がいくらかとんできたが、どれも的を外していた。
『はやくずらかろう』
「ちょっと待ってろ」
 ふたたび斧を口でくわえて、斜桁の端ちかくにたどりつく。
 わずかに手加減をして、最後の揚綱に切りつけた。
 もはや綱は桁の重みに耐えられない。一本、二本と、より糸が切れていく音がするなか、斧を口にもどす。すかさず、空けた手で切りつけたところより上の綱をつかむ。
 桁を何度も蹴りつけて、綱の断裂を加速させる。ダームダルクが長靴を打ちおろすたび、橙色の毛布と化しつつある帆がゆらめく。火勢はいや増すばかりだ。
 四度目の蹴りが、とうとう揚綱を断ちきった。
 中央斜桁は音をたてて主檣を滑りおちる。男たちの悲鳴。誰かが飛び込んでの水音。覆いかぶさるようにして、猛火の幕が甲板を彩った。
 いまやダームダルクは、振り子のように主檣めがけて飛んでいる。煙にむせびながらも首をよじり、主檣との間合いを目算した。船一番の円材に叩きつけられる刹那、綱をいっそう強く握りしめ、両足で主檣を蹴りつけた。
 弧を描いて飛ぶ。
 手を離す。
 後方斜桁が迫る。
 揚綱に取りついた。
 両足を桁にのせ、片手をもっとも船尾よりの揚綱にかけて、三点で体をささえる。
『ああ、もう、大将っ』
 ハトラがわめくなか、ダームダルクは身をかがめて帆へ火をつけた。揺れる桁のうえで慎重に平衡をとり、より後檣にちかい次の揚綱へ移ろうとしたとき、
「人形め、叩き壊してやる」
 海賊の怒号が飛んできた。
『大将を角材人形と間違えるなんざ、ヤキが回ってるね、ありゃ』
 声の主はみるみるうちに檣楼をよじのぼってくる。
「いや、てめえ、陸者だな。どっちにせよ高くつくぜ」
 相手の腰には海刀がある。服も髪も焼け焦げだらけだ。斧で口がふさがっているのは分かってるだろうに、相手は喋りつづける。
「手ぇ放してみろよ」海賊の顔が、斜桁の根本近くにきた。
 敵があざ笑うのにあわせて、ダームダルクは松明を下にむけた。相手がなおも笑ったところで、松明を高く投げあげる。
 空いた手で斧をつかんで振りあげる。最上段の構えこそ最高と信じているかのように。
「ハトラ、頼む」言い終わらないうちに、胸から黒い稲妻が飛びだす。
 海賊の視線は炎にきらめく刃に釘付けになったままだ。決して油断してはいけない爪と牙、それに気づいたときには、手遅れだ。
 声にならない悲鳴があがる。
 海賊の顔に真っ赤な線が走る。
 檣から敵の手がはなれる。
 ダームダルクは斧をくわえなおし、手を火傷しながら松明をつかみとった。ほぼ同じくして、甲板に重い物の落ちる音がした。
『煙臭くなっちまう』黒猫は跳びもどって、ふたたび胸の刺青と化した。
 ハトラの文句にうなずいたおかげで、ダームダルクは命拾いした。
 煙のなかから投槍が飛びだし、さきほどまでダームダルクの頭があった場所をかすめた。
 なかば反射で跳び、前方の揚綱をつかんだ。ふたたび松明を帆に近づける。布は猛然と燃えているが、甲板に落ちてはくれない。
 下では男たちの怒声と、木の爆ぜる音が響きわたる。煙が生きているかのように膨れ上がったが、灰色の雲ごしでさえ業火を捉えることができた。鯨油の燃えるにおいと、火酒の香りとが混ざった悪臭が鼻をついた。
『火攻めもおじゃん。宴会もおじゃん』
 槍のきたほうへ松明を投げすて、ダームダルクは腰の短剣を抜いた。
 氷のような刃を、つかんでいるところより上にあてがう。
 二度三度切りつけ、綱を断つ。
 無事な揚綱はあと一本だ。
 短剣をしまい、今度は斧だ。
「人形め、この野郎」ふたたび後櫓を、海賊がのぼってくる。
 かまうことなく、ダームダルクは斧を振りかぶった。
 綱めがけて投げつける。
 ぶつんと、いう音とともに、足場が消えた。
 滑落する桁が炎と人とを巻き込む。
「息止めとけ」
『水はイヤだあぁ』
 ダームダルクは、ふたたび振り子となった。
 後檣を力いっぱい蹴りつける。
 前下方に舵が見えた。
 綱を手ばなす。
 船尾を越す。
 海へ。

夕方、漂流する四人

 もはや母は、うわ言をつぶやくことすらやめて、朽ちはてるのを待つ野ざらしの屍のように横たわっていた。罰当たりだ。と、おもったけれども、臥せっていてくれるほうがありがたかった。矢ぶすまにされて船とともに燃やされた父の幻をおいかけ、不安定な筏の上をうろつかれるのは迷惑だった。
「仇はとってやる。海神の娘たちにかけて」女の人がいった。頬に向こう傷があって、眼光の鋭い人だ。
「舟のも」その妹だという人もいった。一瞬だけ母のほうを見て「親父さんの分もな」
 ぼくは、なんとなくうなずくだけだった。
 二人とも、ぼくたちとおなじ丸腰で、ぼくよりも小柄なのに、目つきに迫力がある。漁で鍛えたと称して力こぶを見せつけてまわる、故郷の大人たちだって震えあがるにちがいない。海賊だって、この女の人たちには手を出さなかった。
 海賊がぼくをさらわなかったのは、きまぐれだろう。たとえ干魚の切れっぱし、ひれ一枚でも、食い扶持がへるのが嫌だったのかもしれない。
 日没が迫っていた。北と西のどこをみても陸地はない。南は見るだけ無駄だった。詩人が語る海獣すらあらわれない。
 東をながめたとき、ぼくは血の気が引いた。
「鮫か?」「怪我してるとかじゃないよな?」女の人たちにも不安がうつったらしい。
「か、か、帰らずの…島っ!」
 母がひきつけを起こしたように立ちあがって東を指さしている。恐怖が母の全身をわななかせていた。叫び声といっしょに最後の気力も飛びだしたらしい。母は音をたてて倒れた。
「捕まって!」
 筏が揺れる。どうせなら海に落ちてくれればと、いう心の声を、海神がききつけたにちがいない。声を奥深くにおしこんで、悔い改めます、許してくださいと誓ったけれども、手おくれだった。
 どうにかこうにかして持ちなおしたあと、ぼくだけがずぶ濡れだった。許してもらえたからこのくらいですんだのだろうか。
「帰らずの島ってさ、ツァフ博士の島のこと?」お姉さんのほうが、髪をまとめていた手拭をぼくに差しだした。
 ツァフと、いう名前が出たとたん、妹のほうがなにかいった。ぼくの知らない言葉だったけれど、悪態なのはわかった。二人とも身ぶるいしたが、水しぶきのせいではなさそうだった。
「たぶん。でも、ツァフ博士って?」
 女の人たちは顔を見合わせて、無言のうちに相談しあっているようだった。どうやら、帰らずの島は、漁師町だけの迷信ではなかったらしい。
 星々と、南から北にかけて連なる島影が、母のいったとおり、帰らずの島に近づきすぎていると教えてくれた。
 日は暮れていた。夜の女神の外套が、僕たちを島の眼から隠してくれるように願ったけれども、その宵闇がどうしようもなく空腹を抱えているのだという気がした。
 東から、地響きのような音がきこえてきた。心臓を押しつぶすような響きだ。音の源がどこなのか、これからどうするのか、誰もいわなかったが、みな分かっていた。
 お姉さんたちは素手で水をかきはじめていた。悪あがきだとおもったけれども、ぼくもおなじようにした。
 振りかえると、帰らずの島の端に、もう一つあたらしく島ができたようだった。見間違いかとおもったが、あるはずのない島はたしかにあって、しかもどんどん大きくなって、いや、近づいてきていた。大波を先導にして。
「なんだありゃあ」
「知るかっ」
 女の人たちは死にものぐるいで手をうごかしていた。ぼくはあっけにとられて、手がとまっていた。
 漆黒の大うねりが迫りきて、筏をひっくりかえした。
 海に投げだされる瞬間、三本の手がぼくに伸びてきた。お姉さんたちと、母さんだった。誰の手をとればいいのかと迷ったかどうか一瞬に、海がぼくをとった。

夜、海上

『水浴び、気持ちいいかい?』胸にこもったまま、ハトラがいった。
 やけどした足に塩水がしみて、楽しむどころではなかった。ツァフ博士のもとでの修行、いや、虜囚生活では眺めるだけだった海にいまや存分に浸かっているとは皮肉だ。
 燃える船からの臭いに顔をしかめつつ息を吸いこむと、ダームダルクは潜水した。私掠船からの報復をかわすなら、いっそ二隻まとめて船底くぐりをするのが一番だが、無茶がすぎる。
 どれほど箱船の喫水は深いのか。三本檣の帆船を手こぎ舟にみせるほどの船だ。想像さえできない。星明かりをたよりに箱船にそって泳いでいく。息継ぎにあがったときでもまだ、箱船は動いていないようだった。
 物音に振り返ると、私掠船の最期だった。燃えさかる船体が風に煽られ、箱船に衝突したらしい。あらゆるものが海の藻屑となり、炎は海面に行きあたり、死に絶えていった。
 箱船への延焼は皆無だ。箱船の甲板から、いくつもの人影が落ちていた。殺されて投げおとされたのだろう。生きていても帰る場所があるまい。
 ひたすら前に泳いだ。潜水をやめて、抜き手を切る。しばらくのあいだ、ハトラは皮肉めいて喉をならしていたが、やがてその音もやんだ。
 前方に錨鎖が垂れている。大振りの帆船がみなそうであるように、鎖は錨鎖穴へと続いている。
 ようやく箱船の端、右舷船首のあたりにたどり着いたらしい。
『早く上がろうぜ、乾いた床が恋しいよ』
「待て」ダームダルクは立ち泳ぎになった。「こいつは魔法の船だ。あれだけの炎に煽られても無事なんだぞ。密航者よけの呪いがかけてあっても不思議じゃない」
『水難よけもかかってるかな』
 ダームダルクは腰帯から短刀を二本抜いた。鎖ではなく船体側板をにらみ、振りかぶって船体に突きこむ。
 鋼同士がぶつかる音がした。
 思わず短刀を取りおとした。拾う間もなく、得物が夜の海に消える。
 船体は鋼でできている。恐怖と好奇心がないまぜになって、体を突き動かした。背伸びして手探りすると、鋼の板を重ねあわせて鋲でとめてあるとわかった。聞いたこともない造船法だが、手触りはたしかだった。
 立ち泳ぎで波にあらがいながら、一本だけになった短刀を腰帯にしまう。落としたり腹を切ったりしないように手を動かしたが、内心では箱船が気になってうずうずしていた。
 両手を空にすると、ダームダルクはありったけのおまじない、験担ぎ、祈り、その手のものを唱えて、錨鎖をつかんだ。
 あとは拍子抜けするほど簡単だった。船体相応の図体をした鎖であるほかは普通だ。首を突っ込むまえに、錨鎖穴を観察してはみたが、見張り番の気配もない。

船内

 錨鎖庫にはいりこんだ。船体に打ちよせる波の音が遠ざかり、かわりに低くて周期のある唸り声のようなものがきこえてきた。例の木偶人形らしき足音はなかった。
 部屋には得体のしれない明かりがある。蛍火のような光が、天井や壁にぽつぽつと灯っていて、手を近づけても熱くない。
 天井は高い。なんなく背伸びができるし、ダームダルクはそうした。
 床は鉄張りで、継続する振動が伝わってきた。内壁もまた鉄で、床と同じように震えている。うねりによる揺れとは別の得体のしれないものではあったが、痛いとか熱いとかではないのだから、歓迎すべきだった。
 巻揚機は見当たらない。鎖が伸びていく上の甲板にあるのだろう。振動をのぞけば、部屋の中でも外でも、物音ひとつしなかった。
 密航者らしく錨鎖の山の陰にかくれ、ぐしょ濡れの服を脱ぐ。短剣を差しこんだ腰帯と下着だけになると、ため息がでた。
 部屋の出入り口は一つきりだ。鉄だけでつくった扉で、びくともしない。かんぬきも無い。
『舵輪みたいなのがあるぜ、この扉』
 たしかに、扉の中央に輪っかがある。まわすと、何かが緩んだ。
 耳をあてる。音はしない。
 扉を押すと、今度はあいた。
 さきは通路で、人が二人並べる程度の幅だ。明かりも同じようなものだ。道は、ところどころで折れ曲がったり十字路になったりしていて、ときには扉もみかけた。ありふれた木戸で、輪っかはない。反対側からは音も明かりも漏れてこない。
 ときには扉なしで、いきなり通路から部屋へと開けることもあった。
 そんな部屋の一つに踏みこむ。雑然とした物置のような部屋で、中には船らしい備品あるいはがらくたが無数に転がっていた。帆布、樽、綱、索留栓などだ。
 部屋の反対側にも、同じく扉のない出入り口がある。
『見張りならヤダよ。さっきからおれはタダ働きだもん』
 仕方がない。樽板を数枚引っぱりだして、戸口の前に積みあげた。うっかり屋には通じるだろう鳴子だ。
「静かすぎないか?」
 勝利の宴に興じている気配もないし、船らしい生活のにおいもない。
『幽霊船かも』
 ダームダルクも、ハトラの見解になびきかけていた、助けてやった恩を売りつける前に、取引相手のことを知る必要がある。
 部屋をあさりつづけるうちに、松材の大箱を見つけた。蓋の代わりに帆布をかけてある。
 布をとりのけると、ほこりが舞いあがって中身があらわになった。油つぼ、角灯と灯芯、黄ばんだ包帯、折りたたみの釣り竿と釣り針、上質な絹糸や年季の入った鍵開け道具一式などなど、探検道具だ。カビこそ生えているが、堅パンもある。
 興味深いのは、箱の中身が整理整頓されていることだ。この物置部屋の主と、箱の主がおなじとは思えない。覆いにつもっていたほこりからして、最後に箱が使われた随分と昔のことなのは明らかだった。
 反対側の戸口から部屋を出ると、十字路に行き当たった。正面はしばらく進んだところで柵が立っている。左右は真っ直ぐな通路で、先の方で折れ曲がっているようだ。
 ひょい、とハトラが胸から飛びだし、正面へかけていった。
「おい」と呼びかけても停まってはくれない。
「大将、舞踏会だぜ」猫は尾っぽをふっている。
 ダームダルクは左右を見渡し、十字路を横切った。ハトラの後ろに立ち、柵の向こうを見下ろす。
 向こう側は劇場のように広大な吹き抜けだった。ハトラが舞踏会と言い表したものは、火の玉あるいは人魂による仮装大会、演目は立体五目並べと算盤の組合せとでもいったものだった。もっとも、石あるいは珠の数は五どころか無数であった。
 火の玉は透明感のある色をしている。一番多いのは黄緑色で、次が橙で、赤も目立った。常に同じ色のままでいるのもあれば、はげしく明滅するものもあったり、色をかえるものもあった。
 とりわけ目立つのは赤だ。それまで黄緑や橙だったものが、突如赤くなったかと思うと、風前の灯のようにゆらめいて消えてしまう。すると、桟敷席から吹き抜けめがけ、新たな火の玉が飛びこんでくる。
 新参者は、迷うことなく空間の一点を占め、やがて上下左右に動き、止まり、また動きと、繰りかえした。初めから赤い玉というのは、みあたらなかった。
 動く珠もあれば、一箇所にずっと留まるのもある。動きは全てが直角であり、格子にそった動きだった。でたらめとはおもえなかったが、容易に規則を見いだせる動きでもなかった。観察すればするほど、人魂たちが何らかの公式に従っているようにおもえてきた。
『おしゃべりもせず黙々と働いて、楽しいのかね』
 ハトラは見物をやめて、胸に舞いもどった。
 ダームダルクが十字路まで引きかえすと、右手から物音がした。小さく、遠い音だ。
「あっちなのか?」右手にいる何者かがいった。答える声はないが、足音がした。一人より多い。
 ダームダルクはとっさに短剣を抜き、通路の左手に放りなげた。落ちるより早く通路を引きかえし、振りかえって伏せた。
 遠くで金属がぶつかる音がすると、
「あっちだ」と、追手が駆けつけてくる。同じ声だ。
 十字路を二つの影が走り抜けたとき、全身の毛が逆立った。
 最初は犬のような存在だった。綱を編みあげて犬の形にした、とでもいった姿であり、曳き綱はつけていない。見えたのは一瞬。すぐ左手に消える。
 続いてきたのは、角灯をさげた者で、箱船の甲板にいた乗員らしき姿だった。ただ前と違うのは顔がみえた、いや、見えなかったことだ。黄色い灯火が照らし上げる顔は、覆面ではなく、のっぺらぼうだった。目鼻もなければ口もないが、紛れもなく声を発している。
「逃げても無駄だ」
 人らしきものと、犬らしきものからなる追手たりは、音だけを追って左手へ消えていった。やがて足音がやみ、つづいて何やらぶつぶついう声がしたが、ふたたび動き出した。足音はするが、遠ざかる方向であり、とうとう何も聞こえなくなった。
 片目だけを角からのぞかせてみたが、見えるのは通路の蛍火だけだった。
 いつ追手が無駄足に気づくか分からない。ダームダルクは震えをこらえ、右手の通路へ駆けこんだ。

甲板

 上りの梯子を二度、下り階段を一度。心の中で舌打ちをするうちに、ようやく上り階段だ。
 音を立てないようにのぼっていくと、かすかだが潮騒の音がした。
 さらにすすむと、短剣が転がっていたので間にあわせの武器とした。錆びてはいるが、剣は剣だ。歩調を早めてのぼっていく。音はますます強くなり、月明かりもさしてきた。
『大将、妙じゃないか』
「そんなに海が嫌いか。甲板に出たって、落ちるわけじゃないぞ」
『おれが嫌いなのは濡れることだよ。シケてさえいなけりゃ、甲板はおれの庭だ』
「じゃあいいじゃないか」とはいったものの、ダームダルクは足をとめて、ハトラの話に耳をかたむけた。
 猫がいいたいのは、こういうことだった。
 錨鎖庫の高さから二階のぼったら、天井のあるところだった。次に一階おりた。もう一階のぼったら、天井があるところに出るはずだ。いきなり甲板に出るのはおかしい。
「長さが違うんだろうな。この階段は、これまでのより長い気がする」
『そんな階段をつくる、つくらせる奴の頭の中を考えてみろよ』
「ああ、用心するさ」だからこそ、ダームダルクは上りをいそいだ。真っ直ぐな階段で、見張りにはちあわせしたくなかったからだ。
 とうとう外に出ると、潮風の気持ちのいい三日月の夜だった。見張りの気配はどこにもなかった。甲板はすっかり片付いていて死体は見つからない。血の跡こそ残っているが、怯えるほどのことではなかった。追手を恐れて船内を逃げ回っていたのが、嘘のようだった。
 半裸の体を堂々と、乗組員らしく背筋をのばし、広々とした甲板を見渡す。不時着した場所の見当は容易についた。三階建てらしい詰め所と、その上にそびえる帆桁もどきと塔のおかげだ。
 もはや驚くこともない鉄張りの甲板を踏みしめて、落ちた場所まで向かう。
 やはり、不時着したのは花壇だった。もともとは幾何学的な配列に植えてあったらしい花を、ことごとく駄目にしてしまったようだ。どの花も茎が折れたり、つぶれたりしていた。
 ひょいとハトラが飛びだし、花壇で砂浴びをはじめた。
「いいねえ、ここ、いいねえ、いい。すごくいい」
 砂は流木で囲いを作ったなかに収めてある。木枠の角は、見事な細工で隙間なく継ぎ合わせてあった。
「ふざけてる場合か?」
「他にどうしろと?」
 滑空機械と、背負い袋はどこにもなかった。

隠れ家のひとつ

 噂にきいていた飛ぶように進む小船はいまだに見つからない。噂を語った野郎をなんとののしってくれようか、どう落としまえをつけてやろうかと、夢中になって考えていたのがいけなかった。
 不意に船室の扉を開けられた。
 入ってきた野郎の姿には、もっと驚かされた。
「兄者。…っ、どうした、その、…っ、まるで、…っ、裸じゃないか…ッハッハッハッハッハッ…ハーハッハッハ」
 あとはもう、笑い転げるしかなかった。とっさに棍棒をつかんだのも馬鹿らしい。棒きれは部屋のすみに放りだして、ひたすらに笑った。
 入ってきた兄のダームダルクは、野盗のように短刀を構えてこそいたが、身につけているのはほとんど肌着だけだ。
 俺の笑いがおさまると、
「久しぶりだな、バーキャルク」兄は挨拶をよこし、
「武器を捨てたうえに笑い転げるとは、新手の命乞いだな」と、面白くなさそうな顔で短刀を鞘に収めた。
「扉も閉めてくれよ、果し合いであれ話し合いであれ、邪魔が入るのはごめんだ」
 兄はすなおに従った。その胸には、前につるんでいたときにはない、黒猫の刺青があった。
「兄者よ、食うか?」枕元の袋から干した魚を二枚だし、寝台の端にほおり投げると、一瞬だけ刺青が動いたような気がした。気のせいにちがいないが、気に入らない。
「わしは、いらん」兄はどこか苦々しげな顔で、魚をにらんでいた。
「毒なんてないぞ」
 兄は無言だった。
「まあ、楽にしてくれよ。兄者は天から落っこちてきた英雄だからな、殺すなんてもったいない。甲板に突っこんだ滑空機械は、兄者のだろう?あの機械の発展可能性を見せてもらって、ありがたいかぎりだよ」
「この覗き屋め」罵り言葉で隠してこそいるが、滑空機械ときいて、兄はおどろいたようすだった。
「用心深い密航者は観察を欠かさないのさ」
「おぬしは何を知っている?」
「兄者には運がなかったことを」
「実力がある」兄は鼻をならした。
「運はなかった。知ってるか?この遊弋書庫は、幽霊船、化け物どもの船とよんだっていいが、速いんだぞ。四本檣が帆を一杯にしたって追いつけないんだ。もし、動いてればな」
「わしが滑空機械を御したほうが速いさ」兄は笑った。
「だからだよ」俺も笑い返した。「動いてるこの船を、真後ろから追いかけるようにしていれば、あんな無様にはならなかったろうよ」
「いま、おぬしは無知を露呈したぞ」
「なに?」
「滑空機械は、向かい風に真正面から着地するものだが、船というのは向かい風にむけてまっすぐは…」と、兄は眉根を寄せた。
「この船は風や海流に逆らって動けるんだ。さっきみたいに襲われたときは、ふつうなら風上にむけて全力で突っ走る。するとやはり、停まっている書庫に降りる羽目になった兄者は、運がなかったことになる」
「おぬしもまた運がなかったな。その書庫とやらで兄弟水入らずとは。取り巻きどもはどうした?」
 兄は視線をはずすことなく部屋のすみにいった。受けとれとでもいうかのように、棍棒をけってよこしてくる。
「その書庫だよ。兄者が俺を殺せない理由はそこにある」棍棒は無視した。「この書庫に惹かれて来るやつは多いが、生きて出るやつはまずいない。だが、俺には生きて出るための知恵がある」
「なら、知恵とやらを吐かせてから始末する」兄は短刀に手を近づけた。
「始末できるか?」袋に手を突っこんでみせると、兄は動きをとめた。実のところ袋のなかに武器などない。
 俺は指を三本立てた。
「水とメシの隠し場所、厠にうってつけの穴への行き方、それに乗客名簿は俺が持っている。どの船室に誰がいるか、知りたくはないか?」
 乗客名簿といったとき、兄の顔がぴくりと動いた。
「そうだ、名簿があれば、会いたいやつに会える。聞きたい話が聞ける。知りたいことを知れる」
 兄の素振りを見れば、乗客に興味を持っているのは明らかだった。
「おぬしが寝たすきに盗むことだってできる」
「待て、兄者。持っていると言うのは嘘だ。本当は隠している。見つけられるようなところじゃない。水とメシとて侮れないぞ。この船に煮炊きの香りがないことは気づいているだろう?」
 兄はうなずいた。
「まともな船で、陸に上がらず何日も海で過ごす船なら、一つくらいは厨房があって、温かい飯で水夫たちの機嫌をなだめるようになっているものだ。だが、この船は違う。分かるよな?」
「続けろ」
「乗客から魔法の知恵を聞きだしたところで抜け出せずに、飢えと渇きで死んではしょうがないだろう」
 どうやら兄は話し合いをする気になったらしい。
「船のことを教えるから命は見逃せ、と?」
「手短に言えばな。見廻りの目を盗んでものを貯めこんじゃ隠し、でもって他の密航者からも守ってのける。大仕事だぜ」
 兄はあごで続きをうながしてきた。
「この船じゃ、綱だの板切れだのは、湧いてきたみたいに転がってるが、水とメシだけは見つからない。真水は雨のときに集めるほかないし、食料も釣りだけでは心細い。都合よく漂流してくることなんてめったにないから、あとはほかの密航者が持ち込んだものを盗むか、殺して奪うか。飢えに苛まれた奴らが何をしでかすか…。ぜんぶ覚悟のうえで来たんだろう?」
「手を組めと?」
「そのとおり」
 兄は不承不承といったようにうなずいた。そこで俺は、約束した三つのうち二つまで教えた。水とメシ、それと厠への道だ。
 教えたのは、ちゃんと目的地にたどりつく回り道だ。曲がるべき角、上がるべき階段、開けるべき扉、その手のことが二つか三つ、多くなるような道だ。念を入れて、同じことを二回も教えてやった。
 それでも、三つ目の約束を忘れさせることはできなかったらしい。
「名簿のことはどうなった?」
「いきなり三つも親切にされたら、かえって不安にならないか?」
「まあいい。だがな、おぬしがわしを殺さない理由をまだ聞いていない。命を助けてやった貸しを作ろうというなら…」話しながらも、手は短刀のすぐそばだ。
「俺はな、ツァフの爺さんに貸しがあるんだ。そいつを返してもらうためには、兄者に生きていてもらったほうが都合がいい」
 案の定、ツァフの名前は役に立った。
「どういう関係だ?」
「滑空機械計画に出資したのさ。銀山と銅山の利権を譲ってやった。兄者みたいに、墜落しても死ななかった奴の話を、あの爺さんは絶対に聞きたがる。改良に役立てたり、売り込み文句につかったり。落ちても安心とかなんとか言ってな」
「ずいぶん詳しいじゃないか」
「出資者の役得さ。配当を渋ると、金も集まらない。そういう道理を爺さんは分かってる」
「味方の味方は味方、か」
「そういうことさ」
「わしにはケチなジジイに見えたがな」兄は舌打ちをした。
「やっぱりな。爺さんが弟子をとったという噂をきいた。あれは兄者だろ」
 兄はうなずいた。
「でもって、こんなとこまで、つかいに出された。賭けてもいいがな、無事に帰ったところで、あの爺さんは労いの言葉なんてよこさない。つぎの用事をいいつけるだけだぜ。そうやって兄者が丁稚奉公してるうちに、俺は傭兵隊をつくって国盗りをして、兄者は島で報せをきいて歯噛みするのさ。」
「おぬし、滑空機械でなにをする気だ?」
「いろいろさ。精鋭を城塞に降下させて一瞬のうちに占拠させたり、檣楼からでも見えない水平線の先にいる敵艦隊を探させたり、敵陣の上に飛ばして毒蛇の雨を降らせたりしてもいいな。そのうち、将軍でも提督でもない、空飛ぶ兵隊を専らにする官職だってできるはずさ」
「俗だな。わしなら軍隊などという面倒は人にまかせて、秘境へ魔法をあさりにいくぞ。どんな船乗りもこえられない船殺しの渦潮をこえたり、どうやって引き上げたのか説明のつかない巨石たちの高嶺に行ったり…」
「わかったわかった。俺たちは王子、どうせ目的は同じなんだ。手段の違いくらいは尊重しようじゃないか」
 酒瓶をすすめると、兄はうけとった。ぐいと一飲みして、満足そうな吐息をもらす。
「青狼印か」兄は手ばなすのが惜しそうに、瓶をかえしてきた。
「もっと飲みたきゃ、生きて出るこった」
 兄は肩をすくめると、くれてやった干物をとって、部屋を出た。
 見おくってすぐ、俺は部屋を引きはらう準備をはじめた。約束したのは、互いが互いを殺さないということだ。密告の禁止は約束してない。いずれにせよ、いつかはツァフの爺さんが兄の口を封じるだろう。
 水とメシに、邪魔にならない程度の道具一式を持って部屋を出た。名簿なんて噂にすぎない。

哲学者たち

 ダームダルクは弟と間にあわせの休戦を結ぶと、船内探索にもどった。
 弟の誤解を解く気はなかった。ダームダルクが博士の命令に甘んじていると思いこんでいるなら、そのままにしておくほうが愉快だ。
 教えられた部屋までの道筋では、なんども見廻りたちを見かけたが、実力と運の両方が味方についてくれた。
 水と食料の隠し場所は、弟の部屋からみてひとつ下の階層にあるようだったが、確信は持てなかった。場所によって梯子と階段の長さがちがうのは、この船では当然のことらしい。
 高さよりもわからないのは、平面で見たときの現在位置だった。ダームダルクは何度も頭のなかで見取り図をかき、そのたびに前に書いたものと食いちがう地図が完成した。
 弟が書庫とよんだこの船は、城や宮殿のようなものだ。その手のところに入りこんだときに必要なのは、どの通路がどの部屋につながるのか、といった事実確認の積み重ねだ。星や月をみて方角を見出す力ではない。故郷である北の大草原でも、イムリャの大雪嶺を越えたさきの南方でも役立ってきた技術は、船のなかでは出番がなかった。
 どのみち、これまで通ってきた廊下や部屋に窓はなく、夜空をみることはかなわなかった。
 目的の部屋にたどりつけたのは、弟がいったとおりの道順をたどったおかげだった。業腹ではあるが、反論の余地は見いだせない。
 木の扉に教わった通りの刻み目がある。横棒四つに、等間隔で交差する縦棒二本。まちがいない。中からは何の物音も、明かりも漏れてこない。
 ただの物置、というのは間違いだった。扉を開けながらはいりこむと、人影が二つみえた。ダームダルクは己の不用心を呪ったが、二人はなにもしなかった。声すらあがらない。
 上等な二人部屋だ。通路とおなじ蛍火で照らされていて、外が見える玻璃窓もある。
 中の二人は、どちらも男のようだ。片方は老年で、もう片方は青年らしい。左右に二つある寝台に分かれてこしかけている。武器はみあたらない。
 ダームダルクが後ろ手で戸を閉めると、老人が語りはじめた。
「知識の伝播が文明に腐敗と崩壊をもたらすことについての小論」と、いう前置きから始めて、聞き手のようすも見ずに語っている。
 老人と若者の顔は瓜二つだ。親子どころではない。もしも歳の離れた双子というのがあるなら、きっとそれだ。あるいは、故郷の僧が語る化身とか転輪というものかもしれない。
「島の外でもじーさんの話かよ」ハトラが胸から顔を出し、扉をあけろとせがんだ。
 まったく、ハトラの言うとおりだったし、一人のほうが質問もしやすい。
「ネズミでもとってこいよ」と、木戸をあけてやるなり、
「甲板で会おうぜ」黒猫は矢のように飛びだしていった。
 一瞬だけ垣間見えた通路に、生き物の気配はなかった。
「一つ訊ねたいことがあるんだが…」ダームダルクが切りだしたとき、老人は傷を清浄にするべく作られた火酒が、勤勉な農民や職人たちを廃人にさせたことについて、滔々と述べていた。
「おふくろを、いや、女の人をみなかったか。白い服をきていて、歳はわりと若いほうで、どことなく不思議な感じの…」
 老人は何ら反応をしめさなかった。
 もしも、ここが幽霊船なのだとしたら、母がいるのかどうかたしかめたかった。乗客名簿が手に入らないなら、乗客にきけばいい。
 だが、老人はダームダルクの質問にかまわず、ただひたすらに持論を展開している。
 もう一度おなじことを、ゆっくりと話してみたが、駄目だった。
「…と、いうようにあらゆる知識はあらゆる文明にとって害毒だと結論づけられる」老人が話を締めくくると、船がこれまでとちがう唸りをあげて揺れた。出航したらしい。
「知識の伝播が文明に拡大と発展をもたらすことについての試論」
 こんどは若者だった。主張は老人とは正反対だ。知識を遠い土地、遥かな未来につたえることで、人間はよりよい存在になれる、という話を音読のようにかたる。
 老人は反論しない。だまってこしかけたまま、微動だにしない。
「息子か?」ときいても反応はなく「父親か?」ときいてもおなじだった。
「あー、たとえば、だ」ダームダルクは若者の話にかまわず話しはじめた。「人をのせて空を飛ぶ機械があったとする。鳥みたいに羽ばたいてな。仕組みさえわかれば、知識があれば誰もが作れるものだ。そんな物があったら、やはり世の中は良くなるだろうか?」
 若者は、ダームダルクの話を意に介さず、自分の主張を述べ、ときには論敵の主張を引用しては反駁し、また持論にもどって、と相変わらずの調子だった。
 まるで話が噛み合わない。諦めて部屋をあさると、寝台の下から食料の包みと、水の入った壺、古びているがシラミのない衣服がみつかった。
 話を聞きながしながら堅パンを口にほうりこむ。塩の味だけのものを、水でふやかしながらかじりとる。腹をこわしそうな味の水が、おなじようなものなら何度も飲んできていた。満足にはほどとおいが、倒れるまでの時間は引きのばせた。
 最後のひとかけを飲みくだすときには、若者の話もおわっていた。感想も意見も求められなかった。
「よい船旅を」ダームダルクは二人に別れをつげて部屋を出た。扉は、わざと開けっ放しにした。
 人の気配がない通路を歩いていく。あとにしてきた方角から「知識の伝播が文明に腐敗と崩壊をもたらすことについての小論」という老人の声が聞こえてきた。扉の閉まる音は聞こえなかった。

なお船内探索

 甲板で会おうと、勝手に決めたハトラへ会いにいくのは一仕事だった。上り階段をみつけるよりさきに、見廻りから逃げるため下り階段をつかう羽目にあったのが運の尽き。
 道に迷ったのだ。
 いくつもの通路をとおり、部屋をのぞきこんでいく。何度となく、こちらにかまわず話しかけてくる乗客に出くわしたが、ダームダルクに傾聴する余裕はなかった。さきほどの部屋を出たあと、一度も水と食料の隠された部屋に出くわさない。飢えと渇きにつきまとわれる密航生活になるのは、間違いなかった。
 問題はそのまま、なんとかして甲板へつづく階段をみつけることができた。耳をすませながら忍び足でいき、顔半分だけを甲板にだす。潮風が額をなでた。
 途端に、ハトラが一陣の風のごとく胸に飛びこんできた。
『見張りだ!』
 慌てて頭をひっこめたが、足音はしない。
「ふざけてる場合か」
『ちがうちがう。詰め所みたいなところあんだろ。そこの、入口くぐってすぐのとこに、歩哨がいるんだ』
「何人だ?」
『一人。もっといるかも。奥の方とかに』
 ひとまず階段を降り、空き部屋に隠れた。水の入った壺と干魚をおいてやると、ハトラは喜々とした様子で胸からとびだした。水は、手を皿代わりにして舐められるようにしている。
「…んがとよ」魚にがぶりと噛みつきながら、猫が言った。
「滑空機械は?」
「見つからない」
「荷物もか?」
「ないってば」
 メシの邪魔だといわんばかり、ハトラはそっぽをむいて咀嚼をはじめた。やけに時間をかけていて、ようやく飲みくだしたかとおもうと、
「水」と、注文がくる。
「ああ、すまない」また水を汲みだす。
「手垢くせえな」
 文句をたれつつ、手のあらゆるところに、やすりのような舌を押しつけて、最後のひとしずくまで舐めとった。時間のかかる食事だが、責める気にはなれなかった。最後のひとしずくが、本当に最後となる日は、案外近そうだったから。
「わしも見てくる」
「やばいって。見つかったら、ぜったい面倒だよ。あいつら、形は人間だけど、においが違う。マジで。とにかくやばいって」
 ダームダルクは、夕陽を浴びながら剪定鋏を振るっていた女性の姿を思いだした。
「じっとしていてもな…」立ち上がろうとすると、ハトラが手に顔をおしつけてくる。魚と唾液のいりまじったにおいが、頭のなかにある何かをくすぐった。
「おぬし、何か隠してるな」答えはない。ほおっておいて、甲板に出た。
 さきのように堂々と星空の下をゆく。どこにも歩哨らしき姿はなく、いるとしたらば、ハトラのいうとおり右舷中央の巨大な上構、詰め所のような構造物のなかだろう。最上階は水面から相当に離れたところにある。
 船尾方向に足をすすめたとき、ハトラが何を隠していたかわかった。
 島だ。島影だ。
 水平線近くに、黒黒とした影が小山のように突きでている。船は島から遠ざかるようにうごいている。距離があるせいか、船がゆっくり進んでいるせいか、島の大きさはそう変わらないが、近づいていることはありえない。
「なぜ言わなかった」部屋に戻ってすぐ、ハトラを問いつめた。
「泳ぐ、とか言いだすだろ」
「わしを馬鹿にしてるのか?海流がある」
「筏を組んで逃げるとか」
 それくらいは言っただろう。もっと早くにきづいてさえいれば。
「おれは、濡れたくない。水に近づきたくない。とにかく、離れていたい」緑柱石の双眸が、ダームダルクに狙いをさだめた。こうなったハトラは、てこでも動かない。
 そんなに水がいやなら、望みどおりはなしてやるまでだ。
「よし、望みを叶えてやる。夜明けを楽しみにしてろ」ニヤリとわらいかけると、
「とにかく、おれはもう休む」ハトラは帆布のすきまにもぐりこんだ。
 ダームダルクもまた、部屋の隅で丸くなった。

朝、詰め所入口

 翌朝、胸にハトラをしまいこむと、ダームダルクはできるかぎりのおめかしをした。水なしでこそぎ落とせるだけのフケと垢をおとし、髪に手ぐしをかけた。短剣のサビもこすっておとした。やたらと抜くつもりはなかったが、見えないところまでめかしこんだ。
『なあ、密航者から商人に鞍替えすんのか?ちがうよな?』
「何を怯えてるんだ。売れるものといったら、わしの体くらいしかないだろうに」
『とぼけんなよ。おれをネズミ捕り名人として売りつけるとか、そうやって乗組員に取り入るって手があるだろ』
「その手があったか」というと、心臓に妙な力がかかった。「落ちつけ。冗談だ。もっとマシな考えがある」
『本当だろうなあ』
 不安がるハトラを胸にいれたまま、ダームダルクは甲板でのびをして、日差しをあびた。風の強い朝だった。
 あいかわらず見張りはいない。詰め所の窓にいくつかの人影があったが、みな忙しそうにしている。甲板の変化に気づいたものはいないようだ。
 ダームダルクは行進するようにして詰め所の戸口をくぐった。
「何者だ」緊迫した声だ。相手は数歩先の角にたっている。のっぺらぼうで、一人きりだ。
「船長に伝えてくれ。海賊退治の英雄が来たと」

詰め所の中

 見張りにはりつかれながらも、ダームダルクは怯えた様子を見せずに詰め所のなかをすすんでいく。三階へつづく階段をのぼっていると、声が聞こえてきた。
「復号は完了したのか?」
「あと一日といったところです」
「機関の状態は?」さっきと同じ声が、また質問した。
「さきほど確認したところ、機関出力の六割が推進に回されてます」第三の者が答えた。
 どの声も男のものだった。
「その部屋だ。おかしな真似はしないでくれ」見張りが言った。
「わかっとるとも」
 部屋に踏み込む。
「私掠船の件を話されてはどうかな?」
 逆光におもわず目をほそめつつ、部屋のなかに視線をはしらせた。
 のっぺらぼうが三人、話をやめてダームダルクをみた。乗員らしく同じような服をきて、腰に反りをうった長剣を佩いている。まるで服屋の人形だ。
 うち一人だけが、何をするでもなく窓辺に立っていて、ほかの二人よりも豪奢な装いだ。金糸の刺繍入りの帽子、房飾り付きの肩当てがついた上着、きっと船長だろう。
 二人目は、窓辺にそってならぶ卓のまえに立っている。海図らしきものが広げてあったが、乗員はなにげない動きで海図を体のかげにかくした。
 三人目は、部屋の中央にある巨大な箱を見て、首をかしげたり、うなずいたりしていた。天井までとどく高さの箱で、玻璃か水晶のように透きとおったもので出来ている。なかでは立体五目並べがくりひろげられている。昨晩、船の下層でみた光景をちぢめた模型のようだ。
 まぶしいのは逆光のせいばかりではなく、この透明な箱のなかできらめく炎のせいでもあった。
「海賊だよ。わしが奴らを始末したんだ」
「そういえば…、そんなこともあった」船長らしき者が言った。
「わしが、この、…船を助けたんだ。わしはおぬしらを立派な船乗りと見込んでおる。であるから、何の礼もなく、密航者として放りだすような真似するまいな」腰の短剣をみせつけるように、一歩ふみだした。
 背中の見張りの緊張がつたわってきたが、船長らしき者は手で制した。
「武勇伝をあますところなく聞かせてほしい」
 さっそく、敵船に乗り移っての大立ち回りを、とおもったら、ハトラが心臓に爪を立ててきた。調子に乗るなといわんばかりだ。滑空機械のことから気をそらすにはいい方法だとおもうのだが。
「私の部屋に案内しよう」船長らしき者が近づいてきた。ほかの二人は持ち場についたままだ。
「仕事中だろう?立ち話でいい」ことのしだいによっては、後ろの見張りをけりとばし、船長を人質にとるつもりだった。下手に場所を変えられてはこまる。
「貴殿は…、客人だから」
「お気持ちだけで結構。ご覧のとおり、大草原から来た蛮人だから、敷物を汚すのがおちだ」
「王も乞食も同じだよ。一緒に酒でも酌み交わそう」
「船内で迷子になるといけない」
「私は船長だよ」
「犬とか、その手のが」
 のっぺらぼうのはずの船長が、ほほえんだように見えた。向こうは懐から何かを取りだしてみせた。星型の護符だ。
「承知した」
 護符を首から下げると、船長はたったひとりでダームダルクを部屋の外につれだした。

船長室

 船長室には窓がなかった。蛍火のおかげで不自由はない。
「かけてくれ」
 ためらっていると、船長は剣帯を外して卓上においた。部屋の主の好みなのか、筆記具が並べてある。白墨や毛筆、鉄筆、羽ペン、蝋引きの石版もあれば羊皮紙もあり、飾り折りにした漉き紙さえある。
 首筋に短剣を突きつけるには十分なすきを見せつけながら、船長は棚から酒瓶と二つの椀を取りだして戻ってきた。
「年代物だよ。たしか…、数ヶ月前に流れ着いたものだ」
 瓶にくくりつけてある木札が、船長の言葉を裏付けていた。
 椀はといえば、流木をくり抜いたような、歪だが味のあるしろものだ。
「君はいつからここに?」栓を開けながら、船長がいった。
「二十年にはなる」
「たしかに、ここ…、この星に生を受けてそれくらいに見える」
 赤いぶどう酒が注がれる。室内は芳香で満たされた。
「楽しめるうちに、楽しむ。そういうものだよ」
 船長は、さきほど勧めた椅子にかけ、酒杯をかたむけた。人形でも飲み食いできるらしい。
 何もおこらない。
「楽団がほしいな」ダームダルクは部屋を見わたした。どんでん返しのような仕掛けは見当たらない。椅子もまた流木で、釘を使わずに仕上げてある。花壇を作った庭師と、この部屋の調度や酒坏をつくった職人は同じだろう。
 船長は肩をすくめるだけだった。
「わしはダームダルクだ」しかたなく席について呑んだ。舌の先から喉の奥に生きる喜びが流れ込む。
「船長は?」
「私は船長と呼ばれている。…嫁いだ女性のようなものだ。この船、遊弋書庫と不可分なのだ。乗員、乗客…、その他もろもろに対しての」
「海賊退治の報酬は?」
「護符を渡したじゃないか」
 ダームダルクは音を立てて酒杯をおいた。
「わしがこの船にお邪魔したあとで、盗まれた荷物がある」
「きのうの海賊が盗んだのではないか?…他の密航者かもしれない」
 しらをきっているのか、そもそも滑空機械のことを知らないのか、判断がつかなかった。
「渡せるような褒美は、この酒くらいだ。だいたい…、貴殿はすでに宝を得ているのではないか?」
「なに?」
「乗客たちから興味深い話を聞いただろう?」
「なかには南国の浜辺を楽しみたい乗客もいるんじゃないか?」
「残念ながら、乗客はみな禁帯出なんだ。部屋に収まっていないと…」

§

 あれこれと話を聞かされたが、重要であるとおもえたのはたった一つのことだった。
 船長はダームダルクを軟禁するつもりでいる。うまい酒が、苦くなった。
 ふいに、ノックの音がした。
「入っていい」
 やってきたのは、同じく乗員だった。体格や服の汚れからして、さきほど詰め所にいたものたちとは別人のようだ。
 乗員がなにごとか船長に耳打ちをしたが、聞き取れない。
 船長は一瞬だけ肩をふるわせて、立ち上がった。
「ダームダルク殿、ご理解いただけたと思うが、釣りと雨水の蓄えに励んでもらいたい。船の中だけで勉学に励む分には止めはしない。別の勉強でもかまわない。そういうことだ」
 船長は去り際に棚を指差した。壺がいくつか並べてある。音を立てて扉がしまり、ダームダルクだけがのこされた。
『飼い殺しだね』ハトラが言った。
「昔の剣闘士と同じさ。スパなんとかって奴」
『なるほど』
 ダームダルクは、中身が空で、なるべく安そうな、割っても惜しくない壺を持って部屋を出た。

ふたたび詰め所へ

 すれちがう乗員や、綱細工の犬には護符をみせればすんだ。いつでもなげられるようにした素焼きの壺を片手に、ダームダルクは詰め所の階段を音を立ててのぼり、三階におしかけた。
「その玻璃箱を割ったらどうなる?」
 なかには船長ふくめて六人。脅せる立場じゃないと悟ったときには、もう舌は動きだしていた。止められなかった。
 乗員がひとり、黒豹のようにうごいてダームダルクの前に立ちはだかった。女性の体つきをしていて、剪定鋏を両手でかまえている。殺気を放ち、切っ先を喉笛にむける。海賊相手に大立ち回りをしていた人形にちがいない。
「機関長、客人に無礼だ」船長が言った。
「庭師だって言ったよね」鋏の女が言った。
「庭師だよ」
「あなたは本分を逸脱している。船匠でもないのに工作をするし、だいたい船というのは庭師を乗せない」
「じゃあ椅子かえせ」
 船長は咳払いをして、
「とにかく、いまは…、そのご客人、ダームダルク殿のことだ」
「始末すればいいわけ?」研ぎ澄まされて黒光りする刃に、玻璃箱の光が反射した。
「駄目だ。彼は乗客で、君が専属の案内役だ」
 はいはい、と、いうように鋏をおろすと、庭師はダームダルクを睨みつけた。これまでに経験したことのない眼光が、目のない顔から放たれている。
「で、あんたさ、どこ行きたいわけ?」

密航者

 錨鎖庫に釣り道具をとりにいきたいと、いう願いは快諾された。
 後ろについている庭師の道案内は的確だった。はじめのうちは、事故が起きても不思議でない場所に誘いこまれて、始末されるのではないかと疑っていた。それでも、いわれた通りに十字路で折れたり、階段を上り下りしたりしているうちに、錨鎖庫にたどりつけた。何事もなかった。
 船に入り込んだ当初に見つけた箱は、手つかずのまま残されていた。竿、針、糸、どれも十分に使えるものだ。餌はきのうの干魚がある。
「なぜわしに親切にする?」返事はない。
 ダームダルクは錨鎖穴を指差した。穴と錨のあいだには、人間をひとり押しこんで海に落とせそうな隙間がある。
「腹ペコなガキのお守りとか、面倒なんだよ」
「自分のメシは自分でさがせと、いうことか」
 庭師はダームダルクの手元を見た。
「その道具、あんたの?」
「いまは、そうだ」
「ああ」それ以上の興味はなさそうだった。
「できれば、舷側に穴のあいてる場所で釣りたいんだが。あの、小船が収まりそうなところだ。海に近いほうが、かかった魚を引き上げやすい」
「もう釣ったつもりかい」そういいつつも庭師はうなずいた。
「言うとおりに歩きな」
 案内にしたがううちに、天井の低い通路に出た。海に近づいたというよりむしろ、地の底に潜っていくようだ。
「まっすぐ。途中で右に下り階段があるから、そこを降りれば釣り場」
 ほかの場所がそうであったように、上下左右全てが鉄板で作ってある。表面の塗料が熱のない明かりにぼかしを加えて反射させ、暖かみのない壁は足音を何十にも反響させる。なんとなく冷ややかな空気が流れていた。
 前方しばらくいったところで、壁が途切れている。下り階段だ。
「降りたら扉がある。用心しな」
「何があるんだ?」
「密航者だよ。あんた以外にも、たぶんいる」
「もしいたなら、他の釣り場を探すよ」
「あっそ」
 階段まであと二歩。鉄板に堅いものを叩きつける音が響いた。何かが天井から降ってくる。
「肉っ、肉っ、肉うぅぅっ」男の声だ。
 閃く白刃。血走った目。顔に唾をかけられた気がした。
 後ろから首根っこを掴まれたかと思うと、猛烈な勢いで引っ張られて床に倒された。
 視界の半分を、黒豹のような庭師の姿が占めている。
 庭師の左足は頭の高さにある。蹴り上げたらしい。何を?
 人間だ。のっぺらぼうではない。鼻があって、いまは床に倒れている。
 足の大きさからして男だが、体つきは柳のようにひょろひょろした奴だ。片手に短剣を握りしめたままで、起き上がろうともがいている。
 庭師は剪定ばさみを構え、切っ先をいつでも男に突きたてられるようにしながら、近寄っていく。
「仲間は?」
「肉っ、肉…」
「おまえだけかと、訊いたんだ」
「肉…」
 男は短剣を振りあげようとしたが、庭師が足で手首を押さえつけた。
 通路に反響。骨が折れた、いや、砕けた音だ。
 悲鳴が上がって、不意に途切れ、ごぼごぼという耳障りな音に変わった。
 庭師は得物を引きぬくと、血にかまわず男の持ち物をあさりはじめた。いくつかの品々が、無造作に床に放りだされた。船の中なら簡単にみつかる小物ばかりだったが、目立つものが一つだけあった。
 手のひら半分もない干した肉で、おそらくは男の欲しがっていた「肉」なのだろう。
 庭師は肉はほおったらかしにしたが、小物をすこし懐におさめたらしい。つづいて、犬笛をふいた。
 天井をながめると、鉄板が一枚、蝶番でもってぶら下がっていた。天井裏には管のような、綱のようなものがいくつも通っていて、血管を思いおこさせた。
 しばらくすると、通路の向こうから綱細工の犬が二頭やってきた。
 犬たちは尻尾を男の死体に巻きつけると、軽々と引いていった。
 赤黒い帯が通路に伸びていて、やがて角を曲がって消えている。あの道はどこに続くのかと、聞く気にもなれなかった。
「わしは、不意を討たれたのか?」
「口、半開きになってるけど?」
 庭師は手を差し伸べてはくれなかった。
「ところでさ、釣るなら一番上の甲板にしてくれないか?そのほうがお守りもしやすい」
「分かった」ダームダルクは、ほかには何もいえなかった。

猫とねずみ

 庭師のいうとおりにして上へむかう途中、ある物置部屋をとおっていると、ハトラが突然に飛びだした。
 物陰にとんでいく。姿が見えなくなったと思いきや、チューッと、短い悲鳴が聞こえた。
「しまった」と、ハトラの声がした。「しまった」ダームダルクも言った。
 おもわず庭師のほうを振りむいたが、向こうは一切動じた様子がない。
「まあ、船には、ネズミも、猫もいるものだから。そう、きっとどこかでまぎれこんだんだろう。この船も、たまには港で、荷物を積んだりするんだろう?」
「あんた、船長の話きいてなかったの?」
 言われてみれば、なにか話していたような気もするが、軟禁されるということで頭が一杯で、ろくにきいていなかった。
 まもなく物陰からハトラがあらわれ、ネズミを一匹、床に放りだした。
「いやあ、おれもヤキがまわったのかね」そういって、獲物にかぶりつく。黒猫が口を利くという光景が、ありありと庭師のまえでおきた。
「…」庭師の沈黙が、ダームダルクに追い打ちをかけた。
「ああ、いや、その…」
「大将。どうかしたか?」
「どうかもなにも」
「もうちょっと泳がせとくべきだったなって、おれも思ったよ」
「おい、わしらの立場が分かってるのか?泳がされてるのはこっちだ。この鉄のいけすのなかでな」
 あろうことか、ハトラはニヤリと笑った。
「おれはさ、ネズミのことを言ったんだよ。殺さずに生かしとけばよかった、でもつい体が動いちまって気づいたときには仕留めてた。だから、『しまった』なんだよ。生かしときゃ、増えてくれて、おれだけはこの船でメシに困らずにすんだかもしれなかった。なのに、殺しちまった」たまらないというようにかじりつく。
「別に、ネズミは一匹で増えるわけじゃないぞ」
「わあってるよ。大将。失礼だなあ」
 ハトラは不服そうだった。ダームダルクも、八つ当たりだと分かっていた。不意を討たれた悔しさを、猫にぶつけているだけだ。
「ネコ君」と、庭師が言った。「そのネズミのつがいなんて、いないんじゃないかな。あたしは、この船ながいけど、ネズミなんて初めてだ」
「え、ウェっ」ハトラが何かを吐き出した。ネズミの耳だ。あまり見たいものではないが、庭師は平然としている。耳には、金の輪がついていた。
「このネズミも、誰かの使い魔。いや、ただ飼われてただけかな」ハトラはそういいつつ、爪でもって肉と金属とを選り分けている。「でもまあ、生かしとけばなあ。ネズミとり、たのしいからなあ」
「もし生かしていたら、ネズミが伴侶を得て子孫繁栄のなかで、おぬしだけ独り身だぞ」
 精一杯のイヤミのつもりだったが、
「だからなに?」ハトラは首を上げて見かえしてきた。
「べつに、雌に興味とかないし、乗る船さえ間違えなけりゃ、雌がいるかどうかなんて二の次さ」
「あたしもそうおもうよ」庭師が賛同した。
「ちょっと前まで付きあってやってたジジイは、嫌そうな顔してたけどな。『生物種としてあるまじき』とかなんとか言ってさ」
 ダームダルクには、ハトラが真似したのはツァフ博士のことだと見当がついた。おもいだしたくもない相手のことをおもいだし、またしても船を乗り間違えたことで落胆はしていたが、ハトラの見解を否定するきもなかった。
「わしの兄弟にも、そういうのがいたよ。王位なんてどうでもいいといって、砂漠の絵を熱心に描いてた」
「た?」庭師が言った。こころなしか、身を乗りだしたような気もした。
「殺されたのさ。王子だからな」
 ハトラは、もう食事をおえていた。金の耳輪が転がっていたが、だれも拾わなかった。

釣り

 外は曇りだった。明るいといえば明るいが、あらゆる場所に影がおちているともいえた。
 すわりこんで長い長い釣り糸をたらしていると、庭師がなにごとか呟きはじめた。
「古王国式墳墓の戸口真贋を鑑定する手段…、黄金墳墓を包み隠す陽炎の防壁を見出しかつ欺く呪言…済民王の治世七年における大市場での砂塵よけ長衣の仕立て屋とその料金一覧…ふーん、墓荒らしが先人の知恵を求めてやってきた、と」
「何をしている?」
「なにって、さっきのやつが、どんな話を聞いてきたのか、気になってさ」
 庭師は黒革張りの手帳をかかげた。角がすり減っていて、使いこまれたようすだ。さきほどの、飢えた男の持ち物なのだろう。
「話?」
「あんたが読んでもいいよ。他の乗員には内緒で」
「皮肉か?」
「こういうの嫌い?」
「読んでどうなる」
「あっそ」
 庭師はまた頁をめくり始めたが、最後までは読まず、海に投げすてた。
 かすかな水音が聞こえてようやく、読んでおけばよかったと悔やんだが、ほんの一瞬の気分にすぎなかった。道半ばで果てた競争相手の手帳を手がかりに、墳墓から黄金をかすめとるという空想は、輪郭線さえ完成せずにかき消えた。
「大将、大物をたのむよ」と、ハトラが言い、庭師のあしもとにすりよった。人見知りするたちだとおもっていたが、そうではなかったらしい。猫の気まぐれかもしれないし、猫を見る目がなかったのかもしれない。
「お姉さんのさあ、好き勝手やってる感じが、たまんないんだよね。船長?だからなに?みたいなとこ」
「やっぱり、わかる?乗客の話を聞いてたらさ、いろいろ面白くってね。造園とか木工とか」
「機関長ってのがどんな仕事なのかわかんないんだけど、花の世話をするの?」ハトラが、崩されたままの花壇のほうを見やった昼間の明かりでみると、索漠としたな灰色の甲板にたいして、実にちっぽけなオアシスだった。
「いやいや、仕事じゃない。趣味さ。仕事は船に必要だからやることで、趣味では自分に欠かせないことをやる」
「ふーん。で、海のど真ん中で、どうやって花壇作るわけ?」
「船が河口域に入るたびに砂をさらってさ、塩が抜けるまで雨にさらして、それでもってようやく流木で作った枠に注ぎ込んで…」
「種は?おれは鳥が食いに来る実のなる木がほしい」
「海鳥が食べるのは魚だよ」と、庭師は害のない笑いをして話しつづけた。「種は風まかせだったり、持ち込まれた果物を試してみたり、いろいろ。何年もかけてね」庭師もまた、かき乱された花壇を見た。
「海賊ってのは荒っぽいからねえ」ハトラが言った。ダームダルクは脇にいやな汗を感じていたが、滑空機械のことはまだ秘密のままだった。
「ネコ君のいうとおり、海賊というのは迷惑なやつだ。ただ、乱戦のさなかに踏み荒らされたって感じじゃないんだよな。足跡の付き方がなんかひっかかるし、それに…」
「花壇なら、わしが直す。客の身に甘んじるつもりはない」ダームダルクは海を見つめたまま話をさえぎった。
 ある程度は本心からの言葉だった。本心の半分は、家賃を払わない居候になることを恥とする気持ちであり、のこり半分は職人の仕事を台無しにしたことにたいする詫びであった。
 そもそもの半分は、滑空機械のことから注意をそらすための言葉だ。もしかするとそのうち、博士が量産を成功させるのかもしれないが、空を飛べる機械を自分だけのものにしておきたかった。
「あたしがやる。楽しみを他人に譲る気はないし」庭師はちらと詰め所を見て「独り占めってのは、楽しいだろう?」と言った。
 ハトラはといえば、会話にあきたらしい。いまでは甲板に降りた海鳥に目線をすえている。
「殺さなくてもよかった」
「殺さなかったら、あんたが死んでたよ。そしたらあたしゃ大目玉だ」
「他にやり方はあったろう」
「どんな?」
「釣りのコツを教えて、あんなことをせずに食っていけるようにするとか。乗客にも、釣りについて語りたいやつが、一人くらい、いるんじゃないか?」と、言ってから、皮肉に気づいた。機械を独り占めすることばかり考えていたのに、いまはコツを共有しろといっている。
「船長が認めないさ。『知識の漏洩だ』とかなんとかいうに決まってる。それにさ、あんただってそのうち余裕がなくなるよ。一人死んで、そのぶん自分のメシが増えた、そう思うほうがラクじゃないかな?」
「乗員にメシの心配をされる密航者になるとはな。獄に繋がれた盗人とて、賄賂を出さねばメシにありつけないというのに」
 ハトラは、じりじりと鳥に近づいていた。
「そんなに今の境遇が不満?」庭師はダームダルクの首にある護符をさして「殺されて死ぬ心配がいらないってのは、結構いいもんじゃないかな。陸ではそうもいかないってことくらい、あたしらも知ってる」
「極限の状況でも、自分だけの力でやってこそ、真の戦士だ。わしの兄弟には…」
 庭師は大笑いした。
「こそ泥、せいぜい、気取ったところで盗賊どまりの奴が、戦士とか、笑えるよ。ならあたしは海の女王だ」
 まだ当たりはこない。
 水面までの距離、つまりは糸が長すぎて、魚が餌にちょっかいを出した時の手応えが、糸をのぼってくるあいだに消えさるのだろうか。握るところをかえたり、竿をおとす寸前まで掴む力を弱めたり、糸そのものを手にとってみたり、工夫はしてみたが、いっこうにかからない。
 異変に気づいたのは、場所を変えようかと船尾をみたときのことだ。
「夜中のうちに針路を変えたのか?」
 昨晩の島が、今日もまた船尾に見えた。見た目は昨日よりも大きい。船が後ろ向きに進んでいるのかともおもったが、風の向きが否と告げていた。島は切り立った崖を船にむけているようだった。
「いや、ずっと同じだけど」
「じゃあ、あれは…」陸は思いがけないほど近くにみえる、いや近づきつつあるような気さえする。立ちあがろうとすると、肩に万力のような重みがかかった。だん、と甲板に押さえつけられる。
「逃げていいとは言ってない」
「鳥が逃げちゃったじゃん」ハトラの抗議をききながら、ダームダルクはかろうじて自由な片手で船尾をさした。
「大将、泳げってんならごめんだよ」
「人はいるか?船はあるか?」
「だからさあ…」ハトラの声がとぎれた。同時に庭師の力もゆるんだ。
「なんだ?逃してくれるのか?」
 返事はない。首をよじってみあげると、庭師も船尾に注意をむけていた。
 島の輪郭が変わりつつあった。
 絶壁をもつ孤島といった雰囲気はみるみるうちに消え失せて、島は左右にぐんぐんと伸びていく。鳥が翼を広げるようだ。
 岩の帯は船尾から両舷へのびていく。
 やがて壁は船首方向へたどり着く。
 重厚な音を立てて両端が合わさった。輪は閉じた。
 昼間の光のもとで岩壁を観察すると、天然の岩というよりは城壁に近い作りだ。壁の高さは甲板よりも高い。胸壁は風雨にやられたように、ところどころ欠けている。
 遠くから見れば、自然の島の輪郭のようにも見えただろう。壁へと变化さえしなければ、岩がちな島であったろう。
 そんな岩の壁が、巻き網のようにして船を取り囲んでいる。
 船が、けたたましく唸りをあげて、足元の床も震えた。やがて船足がゆるみはじめ、まもなく唸りもおさまり、動きが止まった。

軍議

 ダームダルクは庭師に引きずられるようにして、詰め所の三階にきた。全部で八人。話しあうには手狭な空間を、壁が窓越しに圧していた。
 乗員たちはダームダルクを見て体をこわばらせたが、庭師が片手をあげると場は収まった。船長だけが、苦々しげな咳払いをした。
「では…、評定をはじめるとしよう。航海長」
 呼びつけられた乗員が、説明をはじめた。
「巻き網と呼ぶことにしたあの壁は、実際に存在するものです。幻覚や投影のたぐいではありません。観察した結果から、そういえます。具体的には、巻き網の上辺に鳥が止まっていることと、壁際で波が砕けることです。まき網は狭まってきていまして、このことは…」
「あれは石だろ?石の輪っかが狭まったら、短くなったぶんはどこに行く?」庭師が口をはさんだ。船長がまたしても咳払いをしたが、気にする様子もない。
「ご指摘ありがとうございます。短くなっただけ、壁の厚みが増しているようです。一等航海士の観測も、この推測を裏付けます。円の内側にとまる海鳥と、外側にとまる海鳥の見た目上の大きさが、変化しているのです。時間とともに、内側の鳥は大きく、外側のは小さくなります。いまは男の肩幅と同じくらいでしょう。あれほど大きな構造物にしては薄いですが、それでも実際に存在しているわけです」
 正真正銘の魔法の船を、同じく魔法の壁が包囲しているのだった。
「いまはまだ、巻き網との交渉をもてていない」船長が言うと、乗員が二人うなずいた。
「話し合いの時間は終わりってことだ」庭師がいうと、三人の乗員がうなずいた。ダームダルクも、心のなかでうなずいた。
「機関長、なぜそう好戦的になる?」船長がいった。
「巻き網とやらが舷側につけてこないからだよ。長話してる場合じゃないが、もしも変わった船同士なかよくしようって気があるなら、囲んだりせずに横付けするだろう。普通の船同士がやるみたいに。巻き網は海の上を好きに動けるみたいだ。やろうと思えば舷側につけて挨拶だってできるだろう。でも、やらない。代わりにあたしらを囲んだ。だから、敵意ありとみる」
 船長はあごに手をあてて話をきいていて、反論はしなかった。
「待ち構えて迎撃しましょう」乗員の一人が口を開いた。「これまでも、それでうまくいっていました。なにせ勝手知ったる自分たちの船ですし、機関の加護…」乗員は、しまったというように言葉を区切って船長を見た。
「続けてくれ、水夫長」
「加護もありますし、もし敵が小船でも出して切り込んでくるなら、弩砲で迎撃できます。本船は舷側に穴があいていますから、寄手の道筋も予想できます。以上のことからして、守勢に回るのが妥当でしょう」
「ごくろう、水夫長。他にも意見があれば聞かせてほしい」船長はあたりを見回した。
「ビビってないで切り込もう」庭師がいった。
「海兵隊長は殉職なされた」水夫長が否定した。
「あたしがやるよ。待ってるうちに巻き網が狭まって、あたしらを絞め殺すかもしれない。だから切り込んで、なんとかして網を開かせる」
「反対だ」船長もいった。「いまさら役職のことはいわない。だが…、切り込んだあと、どうにかして壁を開かせる能力が、我々にあるだろうか?乗員は損耗しつづけている。一方で…、再生までの間隔は長くなるばかりだ。機関は老いている、加護がどこまで及ぶか分からない」
 重苦しい沈黙が流れた。
「わしもいいかな?」ダームダルクがいうと、いっせいに注目が集まった。
「何かな?」
「船長に賛成だ。城壁の幅は人ひとり分だそうだが、そんなところによじ登って切りこんでどうなる?たとえ数で勝っていても、有利にはなるまい」
「あのぉ」航海長が手を上げていた。「城壁の内部のことは未だ不明でして…」
「楽観論だ」まだ発言していなかった者が、口をはさんだ。おかげで議論が紛糾しかけた。
 絶好の機会だった。手をうんと高くあげると、船長がダームダルクを指名した。
「わしらを斥候にしろ。空飛ぶからくりで、壁の仕掛けを暴いてやる」
 詰め所が静まりかえった。
「からくりとやらは、どこにあるのかな?」船長は窓の外と、ダームダルクとを交互に見た。
「どこにあるか?そんなことは問題ではない。かんたんだ。絹布と竹でいい。竹に布を張って、たわんだ形の翼にする。下面で空気を受けとめて、上面では受けながすような翼だ。背負って、風上にむけて走って踏みきれば、トンビのように飛べる」
 青銅の螺子のことは誰も気づかなかった。
「そんな仕掛けが本当にあるのですか?」航海長がいった。
「あるとも。正式名称を滑空機械という。お主の部下が梟の目を持っていれば、昨日の夕暮れに羽を持った戦士が、この遊弋書庫を救うべく降りたったさまを見ることができたはずだが、報告は受けていないのかな?」
「ええと…」
「戻るあてはあんのかい?」庭師が肩をつかんできた。
「わし『ら』といっただろう」胴着をはだけると、ハトラが最寄りの卓へ足をおろした。いつもよりゆっくりとした動きだった。
「大将、まさかとおもうが…」
 猫がしゃべりだすと、乗員たちのあいだにどよめきが広がった。静かにさせる役目は、またしても庭師だった。
「安心しろ、二人とも壁に降りるんだ」
「それで?」ハトラが不安げに見上げてくる。
「うまくいけば万々歳、もし駄目だったら、おぬしだけでも逃げろ。どんな仕組みで壁を動かすのか、どれだけ敵がいるのか、斥候として伝えるべきことを持ちかえれ」
「泳ぐくらいなら死ぬ」
「死ぬとはかぎらんだろう。この船の連中がうまくやれば、おぬしは船の猫としてなんとかなるだろう」
 ハトラは声にならないような声を上げると、入れ墨にもどった。
「君『たち』の合意は形成されたと見ていいのかな?」船長がいった。
「大丈夫。わしが囚われ人になっても自害しなかったように、こいつも水が嫌いだからってだけで黙って敵を待つようなタマじゃない」
 船長はゆっくりと、深くうなずいた。
「よし、成功の暁には金貨で…」
「解放だ。わしらを自由にしろ」
 船長は腕をくんで窓の外を見つめた。次の言葉が出るまで、しばらく時間がかかった。
「今すぐにでも自由にするとも。対価さえ払ってくれれば」
「何が望みだ?」
「滑空機械の場所だ」船長は、顔のない顔を、まっすぐに向けてきた。
 機械が失われたことを白状して、新しく機械を作るよう進言して、螺子だったところを紐でなんとかする、これでうまくいくだろうか。修理ならなんとかできそうだったが、博士抜きで新造できるだろうか。
「あたしの部屋にある」庭師が一歩前に出た。船長も驚いたが、ダームダルクもだった。
『やっぱりね』ハトラがいった。

機械

 庭師の部屋は遠くにあるらしく、階段を何度も降りた。ハトラは、急勾配の階段が気に入ったらしく、先を行く二人が一番下についたところで一気に階段を駆けおりると、いう遊びに興じていた。
 そんなふうにして船の中を下へ下へと進むうちに、舷窓がなくなった。明かりは外からの日差しではなく、揺らめく超自然のものに切り替わった。
「お姉さん、おれたちゃいったい、今どこにいるんだい?」ハトラがしっぽをピンと立てて問うた。
「第ナン層の第ウンジュウ番通路、なんて答えが君のお望みとは思えないんだけど」
「山の麓とか、家の玄関とか、そういうやつで」
「そういうやつなら、あたしの工房のそば、喫水より下ってとこ」
 喫水より下と聞いたとたん、ハトラは跳びあがって刺青にもどった。
 ある角を曲がるなり、
「あの扉だ」庭師は走りはじめたが、突然に、
「待て」と、ダームダルクを手で制した。突き当りの前方に扉があって、手前に火の玉が浮かんでいる。
「なんで写字精が?」庭師がつぶやいた。
「写字精?」
『火の玉のこと、船長の話、聞いてなかったな』戸惑っていると、ハトラが教えをたれてきた。
 立体五目並べをしていない火の玉を珍しいとおもったのは、庭師も同じらしい。実のところ、浮かんでいるというより、立ちはだかっているというようでもあった。
 庭師は、一人で歩いていき、写字精となんらかの意思疎通をはじめた。
『あの写字精は、昔のおれたちみたいなものかね』ハトラがいった。
「なら、時宜を待つべきだ」
『いまがその時期じゃないの?』
 どうやら、庭師の命令ないし説得が功を奏したらしく、火の玉は宙をただよい、ダームダルクのそばを通りすぎて、角を曲がってきえた。人間らしくいうなら、無感動な、仕事にうんざりしている水夫のようだった。
「さあさあ、入った入った」庭師が扉を押しあけながら、呼ばわった。ダームダルクは包囲が狭まっていることをおもいだし、いそいで駆けこんだ。
 部屋は広く、翼を広げた滑空機械を余裕をもって置けるほどだった。
「ちょっと試してみな」
 道すがら聞いたとおり、機械は修理されており、竹の構造材も絹の翼も傷一つなく、青銅の螺子は鏡のように磨きあげてあった。翼の折り畳みを試してみると、きしむ音一つなく動いた。
 庭師は、滑空機械をみて何度もうなずいている。
 修理されただけではなく、支柱のひとつにミミズのようなお守りが取りつけてあった。
「疑似餌か?」ダームダルクは眉をひそめていった。
「木の根だよ」
 言われてみれば、ミミズにしてはざらついているし、毛のような根もついていた。
「本物のお守りだよ。きっと役に立つ」
「海から拾いあげたのか?」
「そうだけど?」
「安全飛行のお守りとしては心もとない」
 庭師は額をピシャリと打ち、
「細かいことは気にすんな」背負い袋をおしつけてきた。機械と一緒に回収していたらしい。
 言ったそばから庭師は部屋を出ていた。ダームダルクもあとを追ったが、急勾配の階段を、滑空機械を背負ってのぼるのは大仕事だった。
『さあ、反撃の時間だぁ』ハトラは、胸の中で丸くなって、ごろごろと喉をならしている。
 汗みどろになって階段を踏みしめ、そろそろ露天の甲板に出るのかと期待をはじめたとき、ひと悶着おきた。
 かどを曲がった先から、悲鳴が聞こえたかとおもうと、乗員が一人、仰向きに倒れこむようにして姿をあらわした。片方の腕は肘から先が無い。もう片方で斧を振りまわして、相手を近づけまいとしている。
 相手は、二体の写字精であった。酔漢のように揺れつつ、色を目まぐるしく変化させて瞬く。見ているうちに目が痛くなって、吐き気がしてきた。
「来るな、来るな。助けてっ」
 庭師が駆けつけ、乗員から斧をさらいとり、走り込んだ勢いのまま写字精を横薙ぎにし、返す刀でもう一撃。それでもなお、写字精は健在だった。
「怪我人は任せた」言われるがままに、ダームダルクは倒れている乗員を引きずって戦いから遠ざけた。
「おさえたほうがいいのか」と、傷口をさしてたずねると、相手は首をふった。弱々しい動きだった。
「船長に、報告を…。写字精をおかしくされた。あの壁には、悪意ある文字列がある」
『火の玉野郎は文字という名のキノコが大好き。で、今回は悪いキノコに当たったってこと』
 とりあえずうなずいておくほかなかった。
 すぐに庭師がもどってきた。敵を始末したらしく、怪我もないらしい。
「ちょっとごめんよ」と、乗員を助けおこし、肩をかす。
「あんたは予定通り飛べ。あたしはこいつを連れてく。あの階段だ、いいな」
 ダームダルクは走った。

飛翔

 階段をのぼるにつれ、戦いの喧騒が聞こえてきた。まもなく、詰め所ちかく、甲板が海にむけて張りだしているところにでた。
 甲板の上は乱戦で、走って離陸しようという目論見は叶いそうにない。ダームダルクは飛びかう火の玉と、白刃をふるう乗員たちの隙間をぬって駆け、詰め所に飛びこんだ。三階まで駆けあがると、屋上へつづくのだろう梯子があった。
 詰め所の中にまで戦火が及びつつある気配を感じとりつつ、一段一段のぼっていき、ついに外へでた。すぐそばに、帆のない鉄の檣が立っている。細引きが二本張ってあることからして、帆柱ではなく旗竿のようだ。
 ダームダルクは檣ないし竿にとりつき、頂点を目指した。滑空機械で離陸するために必要な速度を、水平方向ではなく垂直方向で稼ぐことも不可能ではないはずだ。
 一気呵成に、もうこれ以上は登れないというところまで登りつめたところで、体を柱にくっつける。
 息を吸い、吐きだすと同時に肘をのばして宙に身を投げだす。両足を振りあげ、頭の後ろから海に落ちる。目に映るのは空だけ、直感だけで水面までの距離を読み、体を半分ひねって、翼をひらく。
 背筋をつかうと、絹布が風をはらんでふくらんだ。竹材がきしみ、肝を冷やすような悲鳴をあげたが、折れはしなかった。庭師はいい仕事をしてくれたらしい。手遅れにならないうちに落下から上昇にうつり、失速しないうちに水平にもどした。
 胸の中でハトラがほっと一息つくのを感じながら、気流をさぐり少しずつ高度をあげる。目指すは前方、いまや船を一周ぐるりとかこむ、まき網のごとき城壁だ。
 高度を城壁のてっぺんと同じ高さにしたかどうかというころ、右翼の下を太矢が通過した。後ろから、船からだ。
 左に旋回しつつ首をひねって、船のほうを見ると、張り出しに据えてある弩砲についている人影が見えた。弟のバーキャルクだ。
 密航者の身で休戦破りをして何の得がある?
 右に旋回すると、こんどは左翼の下を矢がとおった。
 一つの可能性が頭をよぎった。もしも、壁をあやつるのがツァフ博士ならば、辻褄は合う。弟は博士に出資したという。ダームダルクが壁に討ち入り、もしかすると中にいるのかもしれない博士を殺そうものなら、弟の投資は台無しだ。となれば、バーキャルクはなんとかして兄を撃ち落とす必要がある。出資したくらいだから、弟は壁のことも小耳にはさんでいたかもしれない。
 ダームダルクは皮肉な笑いを浮かべずにはいられなかった。弟は板挟みだ。兄を殺せば、滑空機械の研究は飛行士を失うことで遅れる。かといって兄を生かしておけば、投資先そのものが潰れる。潰れるよりは、遅れるほうがましという打算をしたのだろう。
 城壁に近づくと、壁面に三人の死体がぶら下がっていた。どれも見おぼえのある顔だ。博士の島にいた小作人である。人足として否応なく城壁に連れ込まれ、歯向かった者が見せしめに殺されたのだろう。
 第三の太矢、あるいは壁からの迎撃を警戒して、ジグザグに飛ぶ。が、攻撃はない。振りかえると、弟は消えていた。前に向きなおる。城壁をかたちづくる石材一つ一つに文字列が刻みこまれていた。石工が目印として刻む印を、壁一面に広げたようなものだ。
 ダームダルクも読める文字だが、内容はといえば支離滅裂で、みているうちに頭が痛くなってきた。文字が写字精を狂わせるという話がなんとなく飲み込めたが、より切実な問題が迫りつつあった。
 高度が足りない。

壁のなか

『溺死、衝突死、どっちが猫らしい死に方?』
 答えなど持ちあわせていない。
 視界のうちで壁の占める割合が刻一刻とましてくるなか、妙に息苦しく感じるのは、自身の緊張のせいか、それともハトラが足で心臓を押さえつけてでもいるのか。
 頭から突っこむくらいなら。衝突寸前に機体を引き起こした刹那、支柱にぶら下がっていた木の根のお守りが閃光を放った。まぶしさのあまり目をつむる。
 激突ではなく、着地していた。堅固な床の上に立っている。薄暗い空間だった。深緑色で熱のないあかりが床と天井に規則正しくならんでいる。
 左右を見わたすと、光源は弧を描くようにならんでいた。曲線を描く通路のような場所にいるのだ。背後を手探りすると空洞だった。気のせいかと振り向いてみたら、壁には大穴が開いていて、空と海と、船とが見えた。
 お守りのおかげなのだろう。木の根が時として岩をも穿つようにして、壁のなかに入り込んだのだ。滑空機械も、からだも傷一つない。
 通路の幅は大人が四人ならんで通れるほどだ。いたずらに軍議に時間を費やしたり、機械を取りにいったり、弟に殺されかけたりしているうちに、壁は分厚くなったようだ。
 もしかして、と歩いていった先の壁を引っ掻いたり、押したりしてはみたが、何もおこらない。壁を打ち砕くどころか、指くらいの穴さえあけられなかった。このまま網の外へ逃げてしまえと、いうアテは外れた。お守りのご利益は一回きりらしい。
 ため息が出る。滑空機械を壊さないように静かにたたんだ。右か左か、どちらに踏み出すべきか。
 そのとき、侵入者に感づいたかのように、床が傾いた。頭の後ろから転びそうになるのを、身を捻って腕から先におちる。腕にあざをこしらえたかもしれないが、頭と滑空機械は無事だ。
 床が反対に傾いて、またすぐもとの側に傾いた。なんとか身体の平衡を保ってたちあがったところで、揺れの方向が変わった、さきほどが横波なら、今度は真正面からの大うねりだ。
 もはや立つことはあきらめた。両手両足を広げてうつ伏せになり、床にへばりつく。
『ヒトデだ〜』
 ようやく揺れが収まった。うつ伏せから四つん這いになって、このまま立ち上がるかと迷っていると、ハトラが飛び出して前方に歩きでた。
「こりゃ船みたいなもんだね。きっとまた…」と、示しあわせたかのように横揺れがきたが、猫は平然としている。
「大将も猫になってみないかい?」
「獅子や虎にたとえてはくれんのか」ダームダルクは四つん這いでハトラを追いかけた。
「子猫だね。生まれたての」
 四つ足生活の長い猫にかなうはずもなく、しばしばハトラは立ち止まってダームダルクがついてきているか振りかえり、そのたびにせかせかと手足をうごかすという絵面が続くこととなった。
 不意に揺れが襲いかかるたびに、頭をぶつけかけたり、突き指をしそうになったりした。
「ぎにゃあっ」もう何度目かも分からない揺れのなか、猫が悲鳴を上げた。
「どうした」駆けつけようとしたが、動揺がひどくてままならない。
「爪がもげたあぁ」
 悲鳴は通路にこだました。聞いているほうまで痛くなってくる。ダームダルクは、自分でも気づかないうちに、床に爪を立てるような形にしていた手を、ヤモリみたいに大きくひらいた。
 城壁は身をくねらせ、侵入者たちに揺さぶりをかけつづけた。
「鳥になりたい。猫に食われるかもしれないけど、鳥になりたい」
 ハトラは、壁と通路の交わるところから、もう一方の交わるところまで、お手玉にされていた。
 ひときわ強い、大三角波のごとき動揺がきた。ハトラは爪をもう一本折り、ダームダルクは背中の機械をかばうために打ち身をつくった。長い揺れが続くかと思ったが、急に揺れが止まった。一瞬だけ、はずみで体が宙に浮く。が、さらなる怪我はせずにすんだ。
 いつ揺れが始まってもいいよう、用心しつつ立ちあがる。平行な地面というのが、これほどありがたいと思ったのは初めてだ。
「鳥より蜘蛛になるほうがよかったかなあ」ハトラは足先を舐めている。
「手当はいらなそうだな」
「要るよ」猫は言いかえした。
「足でもくじいたか」
「採れたての魚五匹」
 ダームダルクは猫を無視して駆け足になったが、すぐにハトラが追いつき、追い越した。
 やがて、一枚の扉の前にたどり着いた。磨き上げた花崗岩のようなもので、表面のあちこちに赤、緑、青の四角い光が浮かんでは消えていた。しらべてはみたが、蝶番も取手も見つからない。
 屈みこんでいるダームダルクの前に、ハトラがやってきた。扉のにおいを嗅いだかとおもうと、
「総員突撃」と、胸に飛びこんだ。
 ダームダルクは、ため息をぐっとこらえて扉を押す。重厚な戸が向こう側へとうごいた。

扉の向こう側

 腰の短剣を抜きながら踏みこみ、扉を背にしてあたりを探る。
「誰だ!」
「あいつだ。博士の手先だ」
「どうする」
「武器を持ってるぞ」
 いくつもの声が響いた。
 ダームダルクの死角から飛びだした者が二人。
 二人が走りよったさきには椅子がある。
 男たちは誰が座っているかを、隠そうとしたらしいが、ダームダルクの目のほうが早かった。
 武器を捨てて、部屋の男たちに呼びかける。
「こちらは丸腰だ。武器はない。事情を聞かせてほしい。丸腰なんだ」
 扉からはなれて奥へ進むと、反対側にも同じような扉があった。
 部屋の壁は、これまで通ってきた道のものとはちがう。からくり仕掛けのような壁だ。梃子みたいな棒を突きだしていたり、握り手の付いた輪っかを生やしたりしている。
 男たちはダームダルクに敵意ある視線を注いでくる。それでいて、誰も行く手を遮ろうとはしなかった。無理もなかった。全員が、博士の島の小作人だった。ダームダルクが博士の下にいたことを知っている者たちだ。
「事故だったんだ。わざとじゃない」ある男が叫ぶと、他の者達も味方した。「そうだ」「本当なんだ」「揺れのせいなんだ」
 椅子に腰掛けているのはツァフ博士だ。頭から血を流して、ぴくりとも動かない。椅子には布の帯がついている。座っている人間の体を椅子にとどめておくためのものらしい。椅子そのものも、床に鎖で固定してあった。
 博士の足元には小作人が一人倒れていて、やはり頭から血を流していた。
 生き残っているのは六人で、全員がダームダルクの一挙手一投足を注視している。
「そのジジイが」汚い言葉を使ってみたが、誰も表情をやわらげなかった。「揺れを起こした。そのさなかに、二人の頭がぶつかった。二人とも死んだ。こういうことか?」
 向こうは一斉にうなずいた。
 ダームダルクは、まだ武器を床に転がしたままにしておいた。
「教えてくれ。何人いるんだ?」
「六人」
「他にいないのか?」
「六人」
「かばわなくていい。外は船を待たせてあるんだ」
 詭弁だとわかっていたが、動き回る壁のなかで袋叩きにされてサメの餌にされるのは、願い下げだった。
「もう六人しかいないんだよ」
 一人の男が、一歩前に出た。
 たしかハルディドという名だが、他の小作人たちには、ハンマの夫と呼ばせていた。男が名乗りをかえたのは、妻が博士の館に請願にいき、戻らなかった日からだ。男は手首に、女物の手巾を結んでいた。
「その船が、博士の船ではないと、どのように証明する?お前が、あのジジイの野心を受け継いでいないと、私たちを騙してふたたび島に閉じこめないと、どうして信じられる?」
「ハンマの夫よ」と、呼びかけたが、相手に遮られた。
「ハンマの夫にしてハルムトの父だ。息子から、お前のことは聞いている」
 ハルムトと、聞いてダームダルクは言葉を失った。目の前の男は、一週間足らずのうちに妻と子を失ったのだ。
「私は息子を信じているから、お前を生かしておくべきだとは思う。だが、お前は魔術師の手先だろう」周りの男たちがうなずいた。「血が足りない、そう考える者も多い」
「見ろ」別の男が、ダームダルクに指を突きつけた。五本の指のうち、もとの長さを保っているのは二本しかない。「あいつ、背中のからくりで逃げるつもりだ。俺たちを奴隷船にでも売り渡して、自分だけトンズラする気だ」
 薄暗い部屋に怒気が広がった刹那、地響きがした。
 小作人たちが不安そうな顔になり、互いに顔を見合わせていた。なかにはダームダルクの顔を見るものもいる。疑い、恐怖、驚き、困惑、さまざまな感情がうずまき、消化しきれていないようだ。
 もしかすると、ダームダルクの顔にも、この揺れに対する驚きが現れていたのかもしれない。」
 また地響きだ。転びそうになる揺れではないが、ぞっとする音だ。どのようなときに、この腹の底まで響くような音がするのか、ダームダルクは知っている。
 攻城戦で城壁が崩れるときの感触だ。
「逃げるんだ、早く!」小作人たちは動かない。罠を疑っているような目だ。
「聞いてくれ。ここにいたら、生き埋めか溺れ死にだ。外に出れば、泳いでなんとかできる」
 男たちが互いに顔を見合わせるなか、ハンマの夫、ハルムトの父が静かに片手を上げた。
「一列になって、あの入口から出る。走るな、だが早く歩け。順番は」と、ダームダルクが入ってきたほうとは反対側の戸口をさししめすと、次々に名前を呼んでいった。
 呼ばれた者たちは、不安が和らいだような表情をして、列をつくって順番に出ていく。誰一人として押しあったりもしないし、我先にと駆けだすものもいない。
「そっちで合ってるのか?」
「大丈夫だ」家族を失った男は言った。「螺旋階段がある。なんどか、使わされたんだよ」男は、倒れている博士に一瞥をくれた。
 どこか悲しげな声だった。もしかすると、壁に吊るされていた仲間のことかもしれない。博士なら、殺した手下の始末を、生きている手下にやらせるだろう。
 男はダームダルクを一瞥すると、出入り口へ向かった。
 ダームダルクも後を追った。もはや小作人たちの視線はなかったが、血を流して倒れている小作人の体を、歯を食いしばり両手で抱えあげた。もっとも、博士の手から柘榴石の指輪を抜き取って胴着にすべりこませておくことも、忘れはしなかった。

壁の上

 巻き網と呼んではいたが、胸壁に出てみるとやはり、城壁という感がある。いまやとぎれとぎれの輪っかになっていて、ダームダルクたちがいる場所が崩れさるのは、時間の問題だった。
 船の上では、いまだ戦いがつづいていた。写字精たちが不利になってきているようだが、まだ甲板上には戦う者たちの姿がある。
 小作人たちもまた船のほうを見ていたが、ダームダルクがやってくるなり視線の向きをかえた。男たちは汗みどろになったダームダルクの顔をみた。
 ついで、両手で抱えている仲間の亡骸をみた。
 ダームダルクは精一杯の力を振りしぼり、遺体をそっとおろした。
「あれがお前の船か?」小作人の一人が、まき網の内側の海にうかぶ灰色の箱船をさしていった。
「そうだといって信じるのか?」
「あっちの仲間を引っぱりあげたら、お前を信じてやる」別の男がいった。
 投げ槍が届くくらい先のところに、三人の男が吊るされていた。吊るされた男たちとダームダルクたちのあいだで、城壁は途切れている。切れ間の幅は、跳べなくはないといったところだ。昨日も今日も、満足に食べられずにいる体には厳しそうだが、ほかに方法はない。
「分かった」
 踏み切ったとたん、遠くで石材が崩れ落ち、海になだれ込む音がした。
 反対側が迫る。着地点は崩れなかった。
 跳びうつった勢いを膝でころす。男たちを吊るしている綱には、用心しながら近づいた。
 一つの綱だけでなく、三つ全てに注意を払う。どれもひとりでに動くような気配はない。普通の綱なのだろうか。
 小作人たちの視線を背中で感じる。ダームダルクは、すばやく屈んで片手で綱を鷲づかみにした。大丈夫そうだ。両手で力を込めて、だが遺体を揺らさないように、引き上げる。すでに腐敗しかけているが、顔には出さないようにして、綱をほどきにかかった。
 どの亡骸もやせ衰えていて、穏やかな死に方をしたとは思えない表情だ。
 仲間の元へ連れもどさねばならない。幅跳びは無茶だが、三本の綱と小作人たちの手を借りればなんとかなるかもしれない。
 綱を輪っかにして腕に通したあと、遺体を持ちあげて切れ目のそばまで運んだ。同じことを後二回繰り返した。
 すると、反対側にいたハンマの夫、ハルムトの父が、切れ目めがけて走りだした。
 こちらへ跳んできて、降り立った。
 続く五人も、同じようにした。
 最後の一人だけ、一歩足りなかった。
 空中で振り回される手を、なんとかしてダームダルクはとらえた。
 手を貸してくれと、頼むよりまえに、他の小作人たちがかけつける。
 一丸となって、引っ張り上げた。
 助け上げたあとには、みなが笑顔だった。
「落ちたらどうするつもりだった」
「落ちないさ、お前が助けるから」ハンマの夫、ハルムトの父が答えた。
「なぜ助けると思った?」
「お前は行動で信頼を勝ち取った。私たちは、信頼を行動で伝えた」
 ダームダルクは苦笑いして、ため息をついた。目が船のほうに動いたことを、隠し通せたかはわからない。
「とりあえず、縄の点検を手伝ってくれ」
 胸壁から海面までの落差が、よけいな説明をする手間を省いてくれた。全員が綱にとりつき、ほつれがないか真剣な眼差しで確かめにかかる。ダームダルクも同じようにしたが、まき網の内と外を眺めずにはいられなかった。
 内側には箱船がある。小作人たちでも泳ぎつけるくらい近くにある。
 輪の外側には、一隻の船もない。
 背中には滑空機械がある。
 縄の点検という名目で時間をかせぐには限度があるし、遠くでは石材が次々に海へと崩れ去っていく。ダームダルクたちのいる場所も、ときおり音を立てて揺れ、切れ目の端から石塊が墜落していき、水柱を上げた。ときには強風が水しぶきを巻き上げ、七人に降り注がせることさえあった。

§

 不幸中の幸いというべきなのか、どの縄も丈夫な、一級品だった。
「なあ、あれは船なのか」とうとう、小作人の一人が言った。
「ああ、バカでかいけど、船なんだ。今はわけあって止まってる」
「止まってる?じゃあ、あのちっこいのは?動いてる」
 写字精や乗員のことをどう説明すればいいのかと、悩みながら小作人のしめしたほうを見ると、見たこともないものが動いていた。
 航跡を残しながら、こちらに近づいてくることからして、船といってもいいようではある。十人こぎ程度のガレー船の船首を鏃のように尖らせて、帆柱も櫂も取りはらったような見た目だ。つまりは、灰色の箱船と同じように、ひとりでに動く船ということだ。
 船体の中ほどに、男が一人、弓をかまえて立っていた。
 バーキャルクだ。矢は番えてある。
「やあ兄者。俺の船はどうだ?書庫にこれがあると、知ってたか」
 弟が甲板を踏み鳴らすと、船をぐるりと円を描いてみせた。海は淡青と純白の航跡に彩られた。
「この嘘つきめ」
「俺の投資先は無事か?」
「次はもっと堅いところにしろ」
 ダームダルクは柘榴石の指輪をかかげるとすぐ、横ざまに倒れこんだ。
 さきほどまで頭があったところを、矢が通過した。
「大金だったんだ。空飛ぶ軍団を、どうしてくれる」
「いずれ他のやつが、もっといいのを作ってくれるさ」
「そのころには俺がジジイだ」
「ならおぬしがつくれ」
 小作人たちは、恐れをなしたように固まっている。彼らの足元から、石が三つ四つと崩れおちた。
「弟よ、差し迫った話がある」
「黙れ」立て続けに二矢が飛来した。伏せたままでなければ、やられていた。
「この男たちを見ろ!」
 弟からの返事は無かったが、射撃もなかった。
 小作人たちは、いずれも痩せてはいるが健康であり、水夫の仕事なら難なくつとまりそうな体つきだ。船酔いはするだろうが、いずれ慣れてくれるだろう。
 小作人たちは互いにささやきかわしながら、ダームダルクと弟をかわるがわる見くらべた。
「なあ、聞いてくれ。あの船に乗ってるのは、わしの弟だ。とにかく、あいつの話を聞いてくれないか。撃ってこないということは、あいつも話をする気があるということだ」
 小作人たちは、疑わしい目線をダームダルクに向けた。
「男たちよ」下の方から、弟の声がした。「海賊稼業をやらないか」
 小作人たちの返事がないのを見ると、ふたたび弟は叫んだ。
「お前たちの家まで、連れ戻すこともできる」
 今度は反応があった。小作人たちはどよめき、期待と不安の表情を浮かべて互いに小声で話し合っている。
「あの人の話を信じて大丈夫なのか」一人がダームダルクに尋ねた。
「安心しろ、いざとなれば六対一だ」
 こんどは小作人のほうが呼びかけをはじめた。ツァフ博士に買われ、本来の住民がいなくなった島まで連れてこられてからの顛末をかたり「お前が博士の仲間なら、ただじゃおかない」と啖呵まで切った。
「投資、という言葉の意味くらい分かってるぞ」小作人は弟に指を突きつけて叫びたてた。
「仲間じゃない。むしろ被害者だ。空飛ぶ機械を作りたいというから金を恵んでやったのに、そんな石細工にうつつを抜かしていたんだからな。俺はな、あのジジイが『どんな僻地にも名薬師の調合した薬が届くようになってほしい、そのためには空を飛んで物を運べるようになるのが一番だ』と、いうから金を出したんだ」
 弟の詭弁は、小作人たちをうなずかせていた。
「本当に家族のところに連れ戻してくれるのか?」
「天に誓って、本当だとも。たしかに俺は海賊稼業だってやる。だが、いずれは草原の大王になる男だ。誓いを裏切る、なんていう悪名を広めて何の得がある?」
 真実と願望の混ざった言葉が、男たちの心を虜にしたらしい。弟がたのむのは鋼鉄と筋肉、自らの頭脳であって魔法ではないが、弟の演説はまさしく魔術的魅力をたたえていた。
 嘘つきめと、ダームダルクは太矢のことで舌打ちをしたが、小作人たちは気づきもしなかった。
「よし、そちらの船に乗せてくれ。ツァフの島には、まだ人がいて、男手が必要なんだ」ハンマの夫、ハルムトの父が代表してこたえた。
 あとは兄弟そろって、縄使いになるだけだった。綱の片方をダームダルクがつかみ、もう片方をバーキャルクがつかんだ。宙に張られた綱をにぎりしめ、雲梯のようにして男たちは降りていった。念のため二本つかった綱は、六人分の移動に耐えてくれた。
 降りていったさきで、小作人たちは弟にむけて口々に何事かをうったえたり、胸壁に残るダームダルクを指差したりしていた。
 胸壁に身をかくしながら様子をうかがったが、ふたたび矢が飛んでくる心配はなさそうだった。命の恩人を殺すなとでも言ってくれたのだろうか。どこかひとつ歯車が狂ったら、ダームダルクは奴隷商人になりさがったというのに。
 まもなく話がまとまったらしい。
「兄者、例の名簿をくれてやる」弟が呼びかけてきた。
「いらん。おぬしに貸しはつくらん」
「いいから受け取れよ」
 断りたかったが、足場の揺れは強くなるばかりだ。
 無言を肯定とうけとったのか、弟はニヤリと笑うと、さっそく綱に名簿をくくりつけた。
「ほうれ、濡らさずに引きあげろよ」
「分かってるとも」読んではおきたかったんだ、その名簿とやらを。
 弟の狙いは読めていた。乗客名簿というのは、書庫に入りこむ密航者たちにとっては垂涎の的なのだろうと想像はつく。世の中には、密航してでも箱船の乗客から話を聞きたいやつがいるのだ。
 だから、弟は名簿をダームダルクがもっていると触れまわるにちがいない。そうすれば、あちこちから刺客や盗賊がよってたかって、ダームダルクを殺しにかかるというわけだ。
 それでも、母の名前が名簿にあるのかどうかは知りたかった。

離昇

 真向かいの石材、というより壁そのものが、雪崩をうって海に落ちた。大波が生じて、しばらくしたのちに、弟の船を木の葉のようにゆさぶった。ほかの六人は悲鳴を上げたが、だれも落ちずにすんだ。
 壁の崩壊は、いよいよ終局に入ったらしい。建材が海へと崩れおちる音が絶えまなくつづき、鼓膜を打ち破らんとする。はじめは円環を描いていた城壁は、いまや破線と化していた。北東からの風が耳や鼻、手にぶつかってくる。足の裏から膝へ、崩落の振動が伝わってくる。
『早く飛べ』ハトラがせっつく。
 逃げ出したいのは山々だが、羽を広げたとたんに太矢で穴をあけられるのは願い下げだ。
 弟はもちろんのこと、書庫の乗員たちが約束を守るとはかぎらない。
 乗りこむときにやったように羽を広げずに飛びおりて、城壁を遮蔽にしたところで羽を広げるのも良い手かもしれないが、構造材に二回も悲鳴をあげさせたくはない。
 いまだ動けないらしい書庫を観察したところ、船体の張り出しにある弩砲に取りつくものはおらず、甲板に出ているのは庭師だけだ。片手を高く掲げて振っていたが、戦友との別れを惜しむというより、厄介な仕事が去ってくれてありがたいと言っているようにも見えた。どのみち表情はわからない。
 弟と解放された小作人たちはといえば、針路を北西にとって去っていくところだった。末広がりの航跡を、大海原に取り残された連中に見せつけるようにして、遠ざかっていく。目を凝らすと、弟が歯を見せつけるような笑みで手を振っていた。ほかの男たちまで同じようにしていて、中には泣いているものまでいた。
『早く、早く』ハトラの訴えと、ひときわ大きな揺れがきた。
 ダームダルクは翼を広げた。
 飛ぶ。向かい風に向かって。
 自由だ。さらば鋼の箱よ。海鳥の動きを目印に、上昇気流を見つけてのる。一刻もはやく弩砲の射程から逃げるため、旋回するかわりにジグザグに飛びつつ気流をとらえる。
 緩降下して速度をあげると、あとにしてきた方角から腹の底まで響く音がやってきた。振りむくと、もはや城壁はなかった。蒼海は沸きたち、淡青緑と白の帯が生じていた。思わず笑みをこぼして見とれていると、箱船の詰め所にそびえる鉄檣に、旗が上がるのが見えた。
 旗は全部で三枚、白地の布に赤や青をほどこしたものである。何の意味があるのかはわからないが、だまし討ちには遅すぎる。別れの挨拶として受けとっておこう。
 布地がひらめくのをみて、弟からの贈り物を思いだした。乗客名簿だ。翼を揺らさないように体を動かし、懐に押し込んでいた名簿を取りだす。
 風に注意しつつそっと開く。
 開いた頁はまったくの白紙だった。思っていたより乗客も船室も少ないのかと、前のほうへとめくるが、おなじく白紙である。めくる方向を間違えたのかと、逆のほうをさぐるが、一文字さえかいてない。
 かすれて消えたのでもなく、ページを破りさったわけでもない。ただただ無地の頁だけがある。苦いものがこみ上げてくるのを感じつつ、あちこちめくると、ようやくインクの色が目に飛び込んできた。書いてあるのは文字ではない。らくがきだ。
 あっかんべえ。
 偽名簿を手ばなして、落ちるにまかせる。本物の名簿はあいつがもっているのか、そもそも初めからハッタリだったのか。再会したときに問いつめる事柄がまた増えた。
 ありったけの悪態をぶちまけるが、すべて向かい風がかき消す。胸の中でハトラが喉をごろごろと鳴らした。

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