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【中編小説】兄弟と遊弋書庫2/4

(これまでのあらすじ)草原の王子ダームダルクは、押しかけ弟子として南の島のツァフ博士のもとへ行った。
 期待に反して、博士は秘密主義で人殺しもする魔法使いであった。博士はダームダルクを軟禁して、片手間に発明した滑空機械の実験台という役割を押しつける。対するダームダルクは、博士の魔法を盗んで脱出する機会を伺いつつ、実験台の身分に甘んじていた。
 博士が人形をして小作人の子どもをためらいなく殺させたある日、とうとうダームダルクは滑空機械で島から脱出した。博士の使い魔である黒猫ハトラが協力者になった。使い魔でさえ、博士に愛想を尽かしていたからだ。ところが、突風が滑空機械を半壊させた。

#1 #2 #3 #4 #梗概

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主要登場人物
(別ウインドウで開いたり、スクショを取ったりしてご活用ください)
ダームダルク・博士の弟子
バーキャルク・ダームダルクの弟
ツァフ博士・・島の魔術師
ハトラ・・・・博士の使い魔。刺青
ハルムト・・・博士の小作人。子供
船長・・・・・遊弋書庫の乗員
庭師・・・・・同上

夕方、漂流する四人

 もはや母は、うわ言をつぶやくことすらやめて、朽ちはてるのを待つ野ざらしの屍のように横たわっていた。罰当たりだ。と、おもったけれども、臥せっていてくれるほうがありがたかった。矢ぶすまにされて船とともに燃やされた父の幻をおいかけ、不安定な筏の上をうろつかれるのは迷惑だった。
「仇はとってやる。海神の娘たちにかけて」女の人がいった。頬に向こう傷があって、眼光の鋭い人だ。
「舟のも」その妹だという人もいった。一瞬だけ母のほうを見て「親父さんの分もな」
 ぼくは、なんとなくうなずくだけだった。
 二人とも、ぼくたちとおなじ丸腰で、ぼくよりも小柄なのに、目つきに迫力がある。漁で鍛えたと称して力こぶを見せつけてまわる、故郷の大人たちだって震えあがるにちがいない。海賊だって、この女の人たちには手を出さなかった。
 海賊がぼくをさらわなかったのは、きまぐれだろう。たとえ干魚の切れっぱし、ひれ一枚でも、食い扶持がへるのが嫌だったのかもしれない。
 日没が迫っていた。北と西のどこをみても陸地はない。南は見るだけ無駄だった。詩人が語る海獣すらあらわれない。
 東をながめたとき、ぼくは血の気が引いた。
「鮫か?」「怪我してるとかじゃないよな?」女の人たちにも不安がうつったらしい。
「か、か、帰らずの…島っ!」
 母がひきつけを起こしたように立ちあがって東を指さしている。恐怖が母の全身をわななかせていた。叫び声といっしょに最後の気力も飛びだしたらしい。母は音をたてて倒れた。
「捕まって!」
 筏が揺れる。どうせなら海に落ちてくれればと、いう心の声を、海神がききつけたにちがいない。声を奥深くにおしこんで、悔い改めます、許してくださいと誓ったけれども、手おくれだった。
 どうにかこうにかして持ちなおしたあと、ぼくだけがずぶ濡れだった。許してもらえたからこのくらいですんだのだろうか。
「帰らずの島ってさ、ツァフ博士の島のこと?」お姉さんのほうが、髪をまとめていた手拭をぼくに差しだした。
 ツァフと、いう名前が出たとたん、妹のほうがなにかいった。ぼくの知らない言葉だったけれど、悪態なのはわかった。二人とも身ぶるいしたが、水しぶきのせいではなさそうだった。
「たぶん。でも、ツァフ博士って?」
 女の人たちは顔を見合わせて、無言のうちに相談しあっているようだった。どうやら、帰らずの島は、漁師町だけの迷信ではなかったらしい。
 星々と、南から北にかけて連なる島影が、母のいったとおり、帰らずの島に近づきすぎていると教えてくれた。
 日は暮れていた。夜の女神の外套が、僕たちを島の眼から隠してくれるように願ったけれども、その宵闇がどうしようもなく空腹を抱えているのだという気がした。
 東から、地響きのような音がきこえてきた。心臓を押しつぶすような響きだ。音の源がどこなのか、これからどうするのか、誰もいわなかったが、みな分かっていた。
 お姉さんたちは素手で水をかきはじめていた。悪あがきだとおもったけれども、ぼくもおなじようにした。
 振りかえると、帰らずの島の端に、もう一つあたらしく島ができたようだった。見間違いかとおもったが、あるはずのない島はたしかにあって、しかもどんどん大きくなって、いや、近づいてきていた。大波を先導にして。
「なんだありゃあ」
「知るかっ」
 女の人たちは死にものぐるいで手をうごかしていた。ぼくはあっけにとられて、手がとまっていた。
 漆黒の大うねりが迫りきて、筏をひっくりかえした。
 海に投げだされる瞬間、三本の手がぼくに伸びてきた。お姉さんたちと、母さんだった。誰の手をとればいいのかと迷ったかどうか一瞬に、海がぼくをとった。

夜、海上

『水浴び、気持ちいいかい?』胸にこもったまま、ハトラがいった。
 やけどした足に塩水がしみて、楽しむどころではなかった。ツァフ博士のもとでの修行、いや、虜囚生活では眺めるだけだった海にいまや存分に浸かっているとは皮肉だ。
 燃える船からの臭いに顔をしかめつつ息を吸いこむと、ダームダルクは潜水した。私掠船からの報復をかわすなら、いっそ二隻まとめて船底くぐりをするのが一番だが、無茶がすぎる。
 どれほど箱船の喫水は深いのか。三本檣の帆船を手こぎ舟にみせるほどの船だ。想像さえできない。星明かりをたよりに箱船にそって泳いでいく。息継ぎにあがったときでもまだ、箱船は動いていないようだった。
 物音に振り返ると、私掠船の最期だった。燃えさかる船体が風に煽られ、箱船に衝突したらしい。あらゆるものが海の藻屑となり、炎は海面に行きあたり、死に絶えていった。
 箱船への延焼は皆無だ。箱船の甲板から、いくつもの人影が落ちていた。殺されて投げおとされたのだろう。生きていても帰る場所があるまい。
 ひたすら前に泳いだ。潜水をやめて、抜き手を切る。しばらくのあいだ、ハトラは皮肉めいて喉をならしていたが、やがてその音もやんだ。
 前方に錨鎖が垂れている。大振りの帆船がみなそうであるように、鎖は錨鎖穴へと続いている。
 ようやく箱船の端、右舷船首のあたりにたどり着いたらしい。
『早く上がろうぜ、乾いた床が恋しいよ』
「待て」ダームダルクは立ち泳ぎになった。「こいつは魔法の船だ。あれだけの炎に煽られても無事なんだぞ。密航者よけの呪いがかけてあっても不思議じゃない」
『水難よけもかかってるかな』
 ダームダルクは腰帯から短刀を二本抜いた。鎖ではなく船体側板をにらみ、振りかぶって船体に突きこむ。
 鋼同士がぶつかる音がした。
 思わず短刀を取りおとした。拾う間もなく、得物が夜の海に消える。
 船体は鋼でできている。恐怖と好奇心がないまぜになって、体を突き動かした。背伸びして手探りすると、鋼の板を重ねあわせて鋲でとめてあるとわかった。聞いたこともない造船法だが、手触りはたしかだった。
 立ち泳ぎで波にあらがいながら、一本だけになった短刀を腰帯にしまう。落としたり腹を切ったりしないように手を動かしたが、内心では箱船が気になってうずうずしていた。
 両手を空にすると、ダームダルクはありったけのおまじない、験担ぎ、祈り、その手のものを唱えて、錨鎖をつかんだ。
 あとは拍子抜けするほど簡単だった。船体相応の図体をした鎖であるほかは普通だ。首を突っ込むまえに、錨鎖穴を観察してはみたが、見張り番の気配もない。

船内

 錨鎖庫にはいりこんだ。船体に打ちよせる波の音が遠ざかり、かわりに低くて周期のある唸り声のようなものがきこえてきた。例の木偶人形らしき足音はなかった。
 部屋には得体のしれない明かりがある。蛍火のような光が、天井や壁にぽつぽつと灯っていて、手を近づけても熱くない。
 天井は高い。なんなく背伸びができるし、ダームダルクはそうした。
 床は鉄張りで、継続する振動が伝わってきた。内壁もまた鉄で、床と同じように震えている。うねりによる揺れとは別の得体のしれないものではあったが、痛いとか熱いとかではないのだから、歓迎すべきだった。
 巻揚機は見当たらない。鎖が伸びていく上の甲板にあるのだろう。振動をのぞけば、部屋の中でも外でも、物音ひとつしなかった。
 密航者らしく錨鎖の山の陰にかくれ、ぐしょ濡れの服を脱ぐ。短剣を差しこんだ腰帯と下着だけになると、ため息がでた。
 部屋の出入り口は一つきりだ。鉄だけでつくった扉で、びくともしない。かんぬきも無い。
『舵輪みたいなのがあるぜ、この扉』
 たしかに、扉の中央に輪っかがある。まわすと、何かが緩んだ。
 耳をあてる。音はしない。
 扉を押すと、今度はあいた。
 さきは通路で、人が二人並べる程度の幅だ。明かりも同じようなものだ。道は、ところどころで折れ曲がったり十字路になったりしていて、ときには扉もみかけた。ありふれた木戸で、輪っかはない。反対側からは音も明かりも漏れてこない。
 ときには扉なしで、いきなり通路から部屋へと開けることもあった。
 そんな部屋の一つに踏みこむ。雑然とした物置のような部屋で、中には船らしい備品あるいはがらくたが無数に転がっていた。帆布、樽、綱、索留栓などだ。
 部屋の反対側にも、同じく扉のない出入り口がある。
『見張りならヤダよ。さっきからおれはタダ働きだもん』
 仕方がない。樽板を数枚引っぱりだして、戸口の前に積みあげた。うっかり屋には通じるだろう鳴子だ。
「静かすぎないか?」
 勝利の宴に興じている気配もないし、船らしい生活のにおいもない。
『幽霊船かも』
 ダームダルクも、ハトラの見解になびきかけていた、助けてやった恩を売りつける前に、取引相手のことを知る必要がある。
 部屋をあさりつづけるうちに、松材の大箱を見つけた。蓋の代わりに帆布をかけてある。
 布をとりのけると、ほこりが舞いあがって中身があらわになった。油つぼ、角灯と灯芯、黄ばんだ包帯、折りたたみの釣り竿と釣り針、上質な絹糸や年季の入った鍵開け道具一式などなど、探検道具だ。カビこそ生えているが、堅パンもある。
 興味深いのは、箱の中身が整理整頓されていることだ。この物置部屋の主と、箱の主がおなじとは思えない。覆いにつもっていたほこりからして、最後に箱が使われた随分と昔のことなのは明らかだった。
 反対側の戸口から部屋を出ると、十字路に行き当たった。正面はしばらく進んだところで柵が立っている。左右は真っ直ぐな通路で、先の方で折れ曲がっているようだ。
 ひょい、とハトラが胸から飛びだし、正面へかけていった。
「おい」と呼びかけても停まってはくれない。
「大将、舞踏会だぜ」猫は尾っぽをふっている。
 ダームダルクは左右を見渡し、十字路を横切った。ハトラの後ろに立ち、柵の向こうを見下ろす。
 向こう側は劇場のように広大な吹き抜けだった。ハトラが舞踏会と言い表したものは、火の玉あるいは人魂による仮装大会、演目は立体五目並べと算盤の組合せとでもいったものだった。もっとも、石あるいは珠の数は五どころか無数であった。
 火の玉は透明感のある色をしている。一番多いのは黄緑色で、次が橙で、赤も目立った。常に同じ色のままでいるのもあれば、はげしく明滅するものもあったり、色をかえるものもあった。
 とりわけ目立つのは赤だ。それまで黄緑や橙だったものが、突如赤くなったかと思うと、風前の灯のようにゆらめいて消えてしまう。すると、桟敷席から吹き抜けめがけ、新たな火の玉が飛びこんでくる。
 新参者は、迷うことなく空間の一点を占め、やがて上下左右に動き、止まり、また動きと、繰りかえした。初めから赤い玉というのは、みあたらなかった。
 動く珠もあれば、一箇所にずっと留まるのもある。動きは全てが直角であり、格子にそった動きだった。でたらめとはおもえなかったが、容易に規則を見いだせる動きでもなかった。観察すればするほど、人魂たちが何らかの公式に従っているようにおもえてきた。
『おしゃべりもせず黙々と働いて、楽しいのかね』
 ハトラは見物をやめて、胸に舞いもどった。
 ダームダルクが十字路まで引きかえすと、右手から物音がした。小さく、遠い音だ。
「あっちなのか?」右手にいる何者かがいった。答える声はないが、足音がした。一人より多い。
 ダームダルクはとっさに短剣を抜き、通路の左手に放りなげた。落ちるより早く通路を引きかえし、振りかえって伏せた。
 遠くで金属がぶつかる音がすると、
「あっちだ」と、追手が駆けつけてくる。同じ声だ。
 十字路を二つの影が走り抜けたとき、全身の毛が逆立った。
 最初は犬のような存在だった。綱を編みあげて犬の形にした、とでもいった姿であり、曳き綱はつけていない。見えたのは一瞬。すぐ左手に消える。
 続いてきたのは、角灯をさげた者で、箱船の甲板にいた乗員らしき姿だった。ただ前と違うのは顔がみえた、いや、見えなかったことだ。黄色い灯火が照らし上げる顔は、覆面ではなく、のっぺらぼうだった。目鼻もなければ口もないが、紛れもなく声を発している。
「逃げても無駄だ」
 人らしきものと、犬らしきものからなる追手たりは、音だけを追って左手へ消えていった。やがて足音がやみ、つづいて何やらぶつぶついう声がしたが、ふたたび動き出した。足音はするが、遠ざかる方向であり、とうとう何も聞こえなくなった。
 片目だけを角からのぞかせてみたが、見えるのは通路の蛍火だけだった。
 いつ追手が無駄足に気づくか分からない。ダームダルクは震えをこらえ、右手の通路へ駆けこんだ。

甲板

 上りの梯子を二度、下り階段を一度。心の中で舌打ちをするうちに、ようやく上り階段だ。
 音を立てないようにのぼっていくと、かすかだが潮騒の音がした。
 さらにすすむと、短剣が転がっていたので間にあわせの武器とした。錆びてはいるが、剣は剣だ。歩調を早めてのぼっていく。音はますます強くなり、月明かりもさしてきた。
『大将、妙じゃないか』
「そんなに海が嫌いか。甲板に出たって、落ちるわけじゃないぞ」
『おれが嫌いなのは濡れることだよ。シケてさえいなけりゃ、甲板はおれの庭だ』
「じゃあいいじゃないか」とはいったものの、ダームダルクは足をとめて、ハトラの話に耳をかたむけた。
 猫がいいたいのは、こういうことだった。
 錨鎖庫の高さから二階のぼったら、天井のあるところだった。次に一階おりた。もう一階のぼったら、天井があるところに出るはずだ。いきなり甲板に出るのはおかしい。
「長さが違うんだろうな。この階段は、これまでのより長い気がする」
『そんな階段をつくる、つくらせる奴の頭の中を考えてみろよ』
「ああ、用心するさ」だからこそ、ダームダルクは上りをいそいだ。真っ直ぐな階段で、見張りにはちあわせしたくなかったからだ。
 とうとう外に出ると、潮風の気持ちのいい三日月の夜だった。見張りの気配はどこにもなかった。甲板はすっかり片付いていて死体は見つからない。血の跡こそ残っているが、怯えるほどのことではなかった。追手を恐れて船内を逃げ回っていたのが、嘘のようだった。
 半裸の体を堂々と、乗組員らしく背筋をのばし、広々とした甲板を見渡す。不時着した場所の見当は容易についた。三階建てらしい詰め所と、その上にそびえる帆桁もどきと塔のおかげだ。
 もはや驚くこともない鉄張りの甲板を踏みしめて、落ちた場所まで向かう。
 やはり、不時着したのは花壇だった。もともとは幾何学的な配列に植えてあったらしい花を、ことごとく駄目にしてしまったようだ。どの花も茎が折れたり、つぶれたりしていた。
 ひょいとハトラが飛びだし、花壇で砂浴びをはじめた。
「いいねえ、ここ、いいねえ、いい。すごくいい」
 砂は流木で囲いを作ったなかに収めてある。木枠の角は、見事な細工で隙間なく継ぎ合わせてあった。
「ふざけてる場合か?」
「他にどうしろと?」
 滑空機械と、背負い袋はどこにもなかった。

隠れ家のひとつ

 噂にきいていた飛ぶように進む小船はいまだに見つからない。噂を語った野郎をなんとののしってくれようか、どう落としまえをつけてやろうかと、夢中になって考えていたのがいけなかった。
 不意に船室の扉を開けられた。
 入ってきた野郎の姿には、もっと驚かされた。
「兄者。…っ、どうした、その、…っ、まるで、…っ、裸じゃないか…ッハッハッハッハッハッ…ハーハッハッハ」
 あとはもう、笑い転げるしかなかった。とっさに棍棒をつかんだのも馬鹿らしい。棒きれは部屋のすみに放りだして、ひたすらに笑った。
 入ってきた兄のダームダルクは、野盗のように短刀を構えてこそいたが、身につけているのはほとんど肌着だけだ。
 俺の笑いがおさまると、
「久しぶりだな、バーキャルク」兄は挨拶をよこし、
「武器を捨てたうえに笑い転げるとは、新手の命乞いだな」と、面白くなさそうな顔で短刀を鞘に収めた。
「扉も閉めてくれよ、果し合いであれ話し合いであれ、邪魔が入るのはごめんだ」
 兄はすなおに従った。その胸には、前につるんでいたときにはない、黒猫の刺青があった。
「兄者よ、食うか?」枕元の袋から干した魚を二枚だし、寝台の端にほおり投げると、一瞬だけ刺青が動いたような気がした。気のせいにちがいないが、気に入らない。
「わしは、いらん」兄はどこか苦々しげな顔で、魚をにらんでいた。
「毒なんてないぞ」
 兄は無言だった。
「まあ、楽にしてくれよ。兄者は天から落っこちてきた英雄だからな、殺すなんてもったいない。甲板に突っこんだ滑空機械は、兄者のだろう?あの機械の発展可能性を見せてもらって、ありがたいかぎりだよ」
「この覗き屋め」罵り言葉で隠してこそいるが、滑空機械ときいて、兄はおどろいたようすだった。
「用心深い密航者は観察を欠かさないのさ」
「おぬしは何を知っている?」
「兄者には運がなかったことを」
「実力がある」兄は鼻をならした。
「運はなかった。知ってるか?この遊弋書庫は、幽霊船、化け物どもの船とよんだっていいが、速いんだぞ。四本檣が帆を一杯にしたって追いつけないんだ。もし、動いてればな」
「わしが滑空機械を御したほうが速いさ」兄は笑った。
「だからだよ」俺も笑い返した。「動いてるこの船を、真後ろから追いかけるようにしていれば、あんな無様にはならなかったろうよ」
「いま、おぬしは無知を露呈したぞ」
「なに?」
「滑空機械は、向かい風に真正面から着地するものだが、船というのは向かい風にむけてまっすぐは…」と、兄は眉根を寄せた。
「この船は風や海流に逆らって動けるんだ。さっきみたいに襲われたときは、ふつうなら風上にむけて全力で突っ走る。するとやはり、停まっている書庫に降りる羽目になった兄者は、運がなかったことになる」
「おぬしもまた運がなかったな。その書庫とやらで兄弟水入らずとは。取り巻きどもはどうした?」
 兄は視線をはずすことなく部屋のすみにいった。受けとれとでもいうかのように、棍棒をけってよこしてくる。
「その書庫だよ。兄者が俺を殺せない理由はそこにある」棍棒は無視した。「この書庫に惹かれて来るやつは多いが、生きて出るやつはまずいない。だが、俺には生きて出るための知恵がある」
「なら、知恵とやらを吐かせてから始末する」兄は短刀に手を近づけた。
「始末できるか?」袋に手を突っこんでみせると、兄は動きをとめた。実のところ袋のなかに武器などない。
 俺は指を三本立てた。
「水とメシの隠し場所、厠にうってつけの穴への行き方、それに乗客名簿は俺が持っている。どの船室に誰がいるか、知りたくはないか?」
 乗客名簿といったとき、兄の顔がぴくりと動いた。
「そうだ、名簿があれば、会いたいやつに会える。聞きたい話が聞ける。知りたいことを知れる」
 兄の素振りを見れば、乗客に興味を持っているのは明らかだった。
「おぬしが寝たすきに盗むことだってできる」
「待て、兄者。持っていると言うのは嘘だ。本当は隠している。見つけられるようなところじゃない。水とメシとて侮れないぞ。この船に煮炊きの香りがないことは気づいているだろう?」
 兄はうなずいた。
「まともな船で、陸に上がらず何日も海で過ごす船なら、一つくらいは厨房があって、温かい飯で水夫たちの機嫌をなだめるようになっているものだ。だが、この船は違う。分かるよな?」
「続けろ」
「乗客から魔法の知恵を聞きだしたところで抜け出せずに、飢えと渇きで死んではしょうがないだろう」
 どうやら兄は話し合いをする気になったらしい。
「船のことを教えるから命は見逃せ、と?」
「手短に言えばな。見廻りの目を盗んでものを貯めこんじゃ隠し、でもって他の密航者からも守ってのける。大仕事だぜ」
 兄はあごで続きをうながしてきた。
「この船じゃ、綱だの板切れだのは、湧いてきたみたいに転がってるが、水とメシだけは見つからない。真水は雨のときに集めるほかないし、食料も釣りだけでは心細い。都合よく漂流してくることなんてめったにないから、あとはほかの密航者が持ち込んだものを盗むか、殺して奪うか。飢えに苛まれた奴らが何をしでかすか…。ぜんぶ覚悟のうえで来たんだろう?」
「手を組めと?」
「そのとおり」
 兄は不承不承といったようにうなずいた。そこで俺は、約束した三つのうち二つまで教えた。水とメシ、それと厠への道だ。
 教えたのは、ちゃんと目的地にたどりつく回り道だ。曲がるべき角、上がるべき階段、開けるべき扉、その手のことが二つか三つ、多くなるような道だ。念を入れて、同じことを二回も教えてやった。
 それでも、三つ目の約束を忘れさせることはできなかったらしい。
「名簿のことはどうなった?」
「いきなり三つも親切にされたら、かえって不安にならないか?」
「まあいい。だがな、おぬしがわしを殺さない理由をまだ聞いていない。命を助けてやった貸しを作ろうというなら…」話しながらも、手は短刀のすぐそばだ。
「俺はな、ツァフの爺さんに貸しがあるんだ。そいつを返してもらうためには、兄者に生きていてもらったほうが都合がいい」
 案の定、ツァフの名前は役に立った。
「どういう関係だ?」
「滑空機械計画に出資したのさ。銀山と銅山の利権を譲ってやった。兄者みたいに、墜落しても死ななかった奴の話を、あの爺さんは絶対に聞きたがる。改良に役立てたり、売り込み文句につかったり。落ちても安心とかなんとか言ってな」
「ずいぶん詳しいじゃないか」
「出資者の役得さ。配当を渋ると、金も集まらない。そういう道理を爺さんは分かってる」
「味方の味方は味方、か」
「そういうことさ」
「わしにはケチなジジイに見えたがな」兄は舌打ちをした。
「やっぱりな。爺さんが弟子をとったという噂をきいた。あれは兄者だろ」
 兄はうなずいた。
「でもって、こんなとこまで、つかいに出された。賭けてもいいがな、無事に帰ったところで、あの爺さんは労いの言葉なんてよこさない。つぎの用事をいいつけるだけだぜ。そうやって兄者が丁稚奉公してるうちに、俺は傭兵隊をつくって国盗りをして、兄者は島で報せをきいて歯噛みするのさ。」
「おぬし、滑空機械でなにをする気だ?」
「いろいろさ。精鋭を城塞に降下させて一瞬のうちに占拠させたり、檣楼からでも見えない水平線の先にいる敵艦隊を探させたり、敵陣の上に飛ばして毒蛇の雨を降らせたりしてもいいな。そのうち、将軍でも提督でもない、空飛ぶ兵隊を専らにする官職だってできるはずさ」
「俗だな。わしなら軍隊などという面倒は人にまかせて、秘境へ魔法をあさりにいくぞ。どんな船乗りもこえられない船殺しの渦潮をこえたり、どうやって引き上げたのか説明のつかない巨石たちの高嶺に行ったり…」
「わかったわかった。俺たちは王子、どうせ目的は同じなんだ。手段の違いくらいは尊重しようじゃないか」
 酒瓶をすすめると、兄はうけとった。ぐいと、いや、ぐいぐいと飲み、満足そうな吐息をもらす。あいかわらず水のように酒をのむ。兄者は魔法だ秘境だというが、酒の毒を雲散霧消させる兄者の肝こそ、奇跡にひとしい魔法にして前人未到の秘境だろう。いつになればそのことに気づくのか。
「青狼印か」兄は手ばなすのが惜しそうに、瓶をかえしてきた。
「もっと飲みたきゃ、生きて出るこった」
 兄は肩をすくめると、くれてやった干物をとって、部屋を出た。
 見おくってすぐ、俺は部屋を引きはらう準備をはじめた。約束したのは、互いが互いを殺さないということだ。密告の禁止は約束してない。いずれにせよ、いつかはツァフの爺さんが兄の口を封じるだろう。
 水とメシに、邪魔にならない程度の道具一式を持って部屋を出た。名簿なんて噂にすぎない。

哲学者たち

 ダームダルクは弟と間にあわせの休戦を結ぶと、船内探索にもどった。
 弟の誤解を解く気はなかった。ダームダルクが博士の命令に甘んじていると思いこんでいるなら、そのままにしておくほうが愉快だ。
 教えられた部屋までの道筋では、なんども見廻りたちを見かけたが、実力と運の両方が味方についてくれた。
 水と食料の隠し場所は、弟の部屋からみてひとつ下の階層にあるようだったが、確信は持てなかった。場所によって梯子と階段の長さがちがうのは、この船では当然のことらしい。
 高さよりもわからないのは、平面で見たときの現在位置だった。ダームダルクは何度も頭のなかで見取り図をかき、そのたびに前に書いたものと食いちがう地図が完成した。
 弟が書庫とよんだこの船は、城や宮殿のようなものだ。その手のところに入りこんだときに必要なのは、どの通路がどの部屋につながるのか、といった事実確認の積み重ねだ。星や月をみて方角を見出す力ではない。故郷である北の大草原でも、イムリャの大雪嶺を越えたさきの南方でも役立ってきた技術は、船のなかでは出番がなかった。
 どのみち、これまで通ってきた廊下や部屋に窓はなく、夜空をみることはかなわなかった。
 目的の部屋にたどりつけたのは、弟がいったとおりの道順をたどったおかげだった。業腹ではあるが、反論の余地は見いだせない。
 木の扉に教わった通りの刻み目がある。横棒四つに、等間隔で交差する縦棒二本。まちがいない。中からは何の物音も、明かりも漏れてこない。
 ただの物置、というのは間違いだった。扉を開けながらはいりこむと、人影が二つみえた。ダームダルクは己の不用心を呪ったが、二人はなにもしなかった。声すらあがらない。
 上等な二人部屋だ。通路とおなじ蛍火で照らされていて、外が見える玻璃窓もある。
 中の二人は、どちらも男のようだ。片方は老年で、もう片方は青年らしい。左右に二つある寝台に分かれてこしかけている。武器はみあたらない。
 ダームダルクが後ろ手で戸を閉めると、老人が語りはじめた。
「知識の伝播が文明に腐敗と崩壊をもたらすことについての小論」と、いう前置きから始めて、聞き手のようすも見ずに語っている。
 老人と若者の顔は瓜二つだ。親子どころではない。もしも歳の離れた双子というのがあるなら、きっとそれだ。あるいは、故郷の僧が語る化身とか転輪というものかもしれない。
「島の外でもじーさんの話かよ」ハトラが胸から顔を出し、扉をあけろとせがんだ。
 まったく、ハトラの言うとおりだったし、一人のほうが質問もしやすい。
「ネズミでもとってこいよ」と、木戸をあけてやるなり、
「甲板で会おうぜ」黒猫は矢のように飛びだしていった。
 一瞬だけ垣間見えた通路に、生き物の気配はなかった。
「一つ訊ねたいことがあるんだが…」ダームダルクが切りだしたとき、老人は傷を清浄にするべく作られた火酒が、勤勉な農民や職人たちを廃人にさせたことについて、滔々と述べていた。
「おふくろを、いや、女の人をみなかったか。白い服をきていて、歳はわりと若いほうで、どことなく不思議な感じの…」
 老人は何ら反応をしめさなかった。
 もしも、ここが幽霊船なのだとしたら、母がいるのかどうかたしかめたかった。乗客名簿が手に入らないなら、乗客にきけばいい。
 だが、老人はダームダルクの質問にかまわず、ただひたすらに持論を展開している。
 もう一度おなじことを、ゆっくりと話してみたが、駄目だった。
「…と、いうようにあらゆる知識はあらゆる文明にとって害毒だと結論づけられる」老人が話を締めくくると、船がこれまでとちがう唸りをあげて揺れた。出航したらしい。
「知識の伝播が文明に拡大と発展をもたらすことについての試論」
 こんどは若者だった。主張は老人とは正反対だ。知識を遠い土地、遥かな未来につたえることで、人間はよりよい存在になれる、という話を音読のようにかたる。
 老人は反論しない。だまってこしかけたまま、微動だにしない。
「息子か?」ときいても反応はなく「父親か?」ときいてもおなじだった。
「あー、たとえば、だ」ダームダルクは若者の話にかまわず話しはじめた。「人をのせて空を飛ぶ機械があったとする。鳥みたいに羽ばたいてな。仕組みさえわかれば、知識があれば誰もが作れるものだ。そんな物があったら、やはり世の中は良くなるだろうか?」
 若者は、ダームダルクの話を意に介さず、自分の主張を述べ、ときには論敵の主張を引用しては反駁し、また持論にもどって、と相変わらずの調子だった。
 まるで話が噛み合わない。諦めて部屋をあさると、寝台の下から食料の包みと、水の入った壺、古びているがシラミのない衣服がみつかった。
 話を聞きながしながら堅パンを口にほうりこむ。塩の味だけのものを、水でふやかしながらかじりとる。腹をこわしそうな味の水が、おなじようなものなら何度も飲んできていた。満足にはほどとおいが、倒れるまでの時間は引きのばせた。
 最後のひとかけを飲みくだすときには、若者の話もおわっていた。感想も意見も求められなかった。
「よい船旅を」ダームダルクは二人に別れをつげて部屋を出た。扉は、わざと開けっ放しにした。
 人の気配がない通路を歩いていく。あとにしてきた方角から「知識の伝播が文明に腐敗と崩壊をもたらすことについての小論」という老人の声が聞こえてきた。扉の閉まる音は聞こえなかった。

なお船内探索

 甲板で会おうと、勝手に決めたハトラへ会いにいくのは一仕事だった。上り階段をみつけるよりさきに、見廻りから逃げるため下り階段をつかう羽目にあったのが運の尽き。
 道に迷ったのだ。
 いくつもの通路をとおり、部屋をのぞきこんでいく。何度となく、こちらにかまわず話しかけてくる乗客に出くわしたが、ダームダルクに傾聴する余裕はなかった。さきほどの部屋を出たあと、一度も水と食料の隠された部屋に出くわさない。飢えと渇きにつきまとわれる密航生活になるのは、間違いなかった。
 問題はそのまま、なんとかして甲板へつづく階段をみつけることができた。耳をすませながら忍び足でいき、顔半分だけを甲板にだす。潮風が額をなでた。
 途端に、ハトラが一陣の風のごとく胸に飛びこんできた。
『見張りだ!』
 慌てて頭をひっこめたが、足音はしない。
「ふざけてる場合か」
『ちがうちがう。詰め所みたいなところあんだろ。そこの、入口くぐってすぐのとこに、歩哨がいるんだ』
「何人だ?」
『一人。もっといるかも。奥の方とかに』
 ひとまず階段を降り、空き部屋に隠れた。水の入った壺と干魚をおいてやると、ハトラは喜々とした様子で胸からとびだした。水は、手を皿代わりにして舐められるようにしている。
「…んがとよ」魚にがぶりと噛みつきながら、猫が言った。
「滑空機械は?」
「見つからない」
「荷物もか?」
「ないってば」
 メシの邪魔だといわんばかり、ハトラはそっぽをむいて咀嚼をはじめた。やけに時間をかけていて、ようやく飲みくだしたかとおもうと、
「水」と、注文がくる。
「ああ、すまない」また水を汲みだす。
「手垢くせえな」
 文句をたれつつ、手のあらゆるところに、やすりのような舌を押しつけて、最後のひとしずくまで舐めとった。時間のかかる食事だが、責める気にはなれなかった。最後のひとしずくが、本当に最後となる日は、案外近そうだったから。
「わしも見てくる」
「やばいって。見つかったら、ぜったい面倒だよ。あいつら、形は人間だけど、においが違う。マジで。とにかくやばいって」
 ダームダルクは、夕陽を浴びながら剪定鋏を振るっていた女性の姿を思いだした。
「じっとしていてもな…」立ち上がろうとすると、ハトラが手に顔をおしつけてくる。魚と唾液のいりまじったにおいが、頭のなかにある何かをくすぐった。
「おぬし、何か隠してるな」答えはない。ほおっておいて、甲板に出た。
 さきのように堂々と星空の下をゆく。どこにも歩哨らしき姿はなく、いるとしたらば、ハトラのいうとおり右舷中央の巨大な上構、詰め所のような構造物のなかだろう。最上階は水面から相当に離れたところにある。
 船尾方向に足をすすめたとき、ハトラが何を隠していたかわかった。
 島だ。島影だ。
 水平線近くに、黒黒とした影が小山のように突きでている。船は島から遠ざかるようにうごいている。距離があるせいか、船がゆっくり進んでいるせいか、島の大きさはそう変わらないが、近づいていることはありえない。
「なぜ言わなかった」部屋に戻ってすぐ、ハトラを問いつめた。
「泳ぐ、とか言いだすだろ」
「わしを馬鹿にしてるのか?海流がある」
「筏を組んで逃げるとか」
 それくらいは言っただろう。もっと早くにきづいてさえいれば。
「おれは、濡れたくない。水に近づきたくない。とにかく、離れていたい」緑柱石の双眸が、ダームダルクに狙いをさだめた。こうなったハトラは、てこでも動かない。
 そんなに水がいやなら、望みどおりはなしてやるまでだ。
「よし、望みを叶えてやる。夜明けを楽しみにしてろ」ニヤリとわらいかけると、
「とにかく、おれはもう休む」ハトラは帆布のすきまにもぐりこんだ。
 ダームダルクもまた、部屋の隅で丸くなった。

朝、詰め所入口

 翌朝、胸にハトラをしまいこむと、ダームダルクはできるかぎりのおめかしをした。水なしでこそぎ落とせるだけのフケと垢をおとし、髪に手ぐしをかけた。短剣のサビもこすっておとした。やたらと抜くつもりはなかったが、見えないところまでめかしこんだ。
『なあ、密航者から商人に鞍替えすんのか?ちがうよな?』
「何を怯えてるんだ。売れるものといったら、わしの体くらいしかないだろうに」
『とぼけんなよ。おれをネズミ捕り名人として売りつけるとか、そうやって乗組員に取り入るって手があるだろ』
「その手があったか」というと、心臓に妙な力がかかった。「落ちつけ。冗談だ。もっとマシな考えがある」
『本当だろうなあ』
 不安がるハトラを胸にいれたまま、ダームダルクは甲板でのびをして、日差しをあびた。風の強い朝だった。
 あいかわらず見張りはいない。詰め所の窓にいくつかの人影があったが、みな忙しそうにしている。甲板の変化に気づいたものはいないようだ。
 ダームダルクは行進するようにして詰め所の戸口をくぐった。
「何者だ」緊迫した声だ。相手は数歩先の角にたっている。のっぺらぼうで、一人きりだ。
「船長に伝えてくれ。海賊退治の英雄が来たと」


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