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厄咲く箱庭 ― 花巫女と災いの神(4) 弐.二律背反

創作長編『厄咲く箱庭 ― 花巫女と災いの神』の第二幕部分になります。
フィクションです。実在する人物、土地、出来事とは関係ありません。

概要

弐.唯我独尊

居場所


 それは理解していた事実だったが、先程の会話の中で感じ取った、逆に彼の何かが自身と共鳴し、救いを求めているような……そんな自惚れと勘違いしそうな予感があった。
 それが、どうしようもなくアマリを駆り立てていたのだ。それが何という感情なのか、動力なのかも……わからないまま。

「貴女様のその心持ちは美徳ではございますが、場合によっては、ご自身を窮地に陥れる要因にもなり兼ねません」
「……ありがとうございます。すみません。こんな事……」

 暫し、気まずい空気が流れたが、改まるように、アマリは願い出る。

「カグヤさん」
「はい」
「あの……早速ですが、明日……少し、ご一緒くださいますか?」

 翌日の昼過ぎ。アマリはカグヤと共に、以前に窓から見た池囲いの庭園を訪れた。暫く外の空気に触れていなかった彼女を案じ、カグヤは了承してくれた。
 離れから少し歩いた先にある、辺りを池が囲い、向こう側は茂みと木々が埋めている場所だった。外敵を避ける為か、囚人が逃げ出せないようにする仕様なのか、規模の大きな池だ。だが……

「花が……無いのですね。一つも……」
「あまり華やかに見立てるのは、陰の身である長様の一族の都合上故……でございます」
「そう……ですか……」

 この屋敷や彼の事情をよく知らないアマリには、カグヤの説明が半分も理解できない。

「アマリ様は、花をでられる御趣味があるのですか?」
「……あ、はい。そうです……」

 嘘ではないが、内心慌てた。花能はなぢからの事だけは、知られていない状況なので安堵していたのだ。あれだけは、ばれてしまってはまずい……
 話を逸らすように視線を庭に向ける。石造りを基調にした敷地は、凛として厳かな空間だ。尚且なおかつ、どこか哀愁が漂う庭園を、アマリはぼんやりと眺めた。
 あの冷徹な厄神らしいとは思うが、どこか寂しげで殺風景にさえ見える。せめて、もう少し緑が増えたら良いのに……と余計な世話だが思わずにいられない。

「私は少し離れた場所におります。どうぞごゆっくり御観覧下さいませ」
「あ、ありがとうございます」

 久しぶりの外の景色に夢中になっているアマリに気を利かせてくれたのか、カグヤはそっ、とさりげなく一人にしてくれた。
 彼女の姿が茂みの向こうに見えなくなった頃、ぽつり、と呟く。

「濁りがあまり無い…… 水が綺麗なのね……」

 実家の池に咲いていたはすや睡蓮を思い出す。水底の泥までも吸い上げかてにし、それでも美しい花を魅せる。そんな生態が奇妙だと言う者もいたが、そんなたくましい生きざまに、アマリは憧れていた。

 そんな中、覚えのある強い視線を感じた。何かを予感しながら首を向けると、少し離れた松の木の陰から、二つの紅珊瑚が見え隠れている。

「……また、貴方ね…… 来て?」

 宙を扇ぐように、ふらり、と片腕を差し出す。すると、バサッ、と焦げ茶の翼をはためかせ、そのたか――黎玄はアマリの側の石積みの置物に留まった。動物が好きなので、少しばかりだが自然と気が明るくなる。少し離れた所にかがんで、澄んだ瞳を見つめた。

「……は……貴方が長様に知らせてくれたのよね? ――レイゲン。綺麗な響き……どんな漢字を書くのかしら」

 黎玄もだが、厄神であり界の長である荊祟の正式名も、アマリは知らない。微かに苦笑を浮かべ、続ける。

「ずっと私を監視して、あの方に報告していたのでしょう……? 貴方も忠実で、律儀ね」

 主である荊祟としか精神感応テレパシーを行わない、また出来ないように仕込まれているので、黎玄はずっと直立不動のままだ。澄んだ眼差しを向け、何かを観察し、知ろうとしているのはアマリもさとっていた。
 自分が隠している企てや人族の情報なのだろうが、この鷹を見ていると、何とも言えない複雑な思いがわき上がる。あの夜のやり取りの様子だけでも、この鷹が彼に脅されたり、無理矢理従わされている訳ではないのが判るからだ。

「貴方のご主人様は……本当に不思議な方ね……」

 少なくとも一人の従者……そして、物言わぬ利口な動物にまで、相棒とはいえこんなにも慕われ、信頼されている。そんな厄神への不可思議さや違和感が拭えないまま、彼の判断を待つしかない……
 いつまでこんな日々が続くのだろうという不透明感、不安定さが少しずつ、再びアマリを追い詰め始めていた。

 翌日の夕刻前。『本日、長様がいらっしゃいます』と朝にカグヤから聞いていたアマリは、以前とは違った意味で身構え、同じ身仕度、離れの部屋で、厄神――荊祟ケイスイと再び対面していた。
 自分の処遇について、今度こそ何か言われるかもしれないという不安。そして、彼と話がまた出来る機会に対し、期待めいたものが何故か入り交じる……という矛盾した思いが交差する。

「この屋敷に、だいぶ慣れたようだな」
「は、はい」
「庭園はどうだった。見たのだろう?」

 やはり……という複雑な思いがわき、俯く。予想通りだが、改めて面と向かって直視すると、無表情ながらも澄んだ琥珀のが、とっくに全て見抜いているのではないか……という錯覚を起こす。

「お前の考える通り、黎玄を介し監視していた」

 そんなアマリの心情を代弁するように、荊祟は続ける。
「お前の処遇についてだが…… 未だ家臣と揉めている。亡き者にしても生かしても、何も変化が起こらないと人族が知れば、いずれ我らに仕掛けて来るだろうからな」
 何と答えたら良いか判らず、きつく唇を結ぶ。いずれにしろ、自分に決定権は無い…… 彼の判断を受けるしかないと、梅鼠うめねずの羽織の裾を握り締めた。

「――お前の異能は、何だ」

 思わず顔を上げた。彼の立場上、いつかは問われる……と予測していたが、いきなり核心部を突かれ、息が詰まる。

えて、わざわざ此処ここに送り込む。我らに加担するはずも無い。何かの先攻術では……と、それなりに色々と推測したのだがな……」

 絶対に言えない。言ってはいけない、とアマリは気を引き締める。だが、このまま黙っていたら、さすがに拷問されて吐かされるかもしれない…… 口内が渇き、額に冷や汗が滲む。
 そんな彼女を、眼前の厄神はあごに掌をあて探るように、尚且なおかつ興味深そうに観察していた。
 どくどくどく、と心臓が痛い位に暴れている。この危機をどうやり過ごすべきか判らず、アマリは沈黙していたが、やがて、ずっと聞きたかった疑問……違和感を口にした。

「貴方様、こそ…… 何故、人族の地を荒らすのですか……?」
「……災厄でも起こさねば、人族の者共は次第に図に乗るだろう? 自分達が世で最も高尚で、選ばれた生物だとおごり、界の富を好き勝手に使い始める」

 自問を逸らされた事など、荊祟ケイスイは何でもない事のようにかわし、言い放つ。

「それを戒めるには、自然の脅威や恐ろしさを見せつけるしかなかろう? それでも時が経てば忘却し、再び似たような事を始め出すが」

 学んだ歴々の知識しかなかったが、彼が言いたい事、主張は理解出来なくはなかった。だが、一人の尊巫女として見てきた現実が、アマリにもある。

「……だからと言って、その為に何も罪の無い方々の命が苦しみ、理不尽に奪われても良いとは……思えません」
「……そうだな。出来るなら俺も、そんな者達は殺したくはない。だが……」

 腰元の日本刀のつばをチン、と鳴らし、さやに左手をかけたと思った瞬間、俊敏な手さばきで、アマリの首筋に鋭利な切っ先を当てた。鈍く光る危険な殺気、鋼の冷たさが、柔い素肌にひやり、と主張する。

「もし、お前が今、俺に殺されなければ…… そうだな……例えば、大火を起こすと言ったら、お前の同族はどう出るかな」
「それ、は……」

 首筋に感じる感触と同じ、ヒリヒリする痛切な問いが、アマリの言葉と息を止めた。

悪者


 彼は、過去にそんな事をしたのだろうか。何と答えるのが正しいのか、この厄神相手に、何と言うべきなのか…… 様々な思慮、考えが脳内を駆けめぐる。

「……私の、命と引き換えにされるでしょうし、犠牲と思ってはならないと、考えます。ですから……貴方に差し出します」
「そうだな。奴らはそう言うだろう。だが、お前は、それで良いのか」

 今までの信条と教え、無難な答えをそのまま口にするアマリに、厄神は更に詰める。

「……それが、私の務めですから」
「そんな模範解答は愚行だ。甘過ぎる」

 渾身の決意を、ばっさり切り捨てる厄神にアマリは唖然とした。

「まず、そんな卑劣な事を言って来る奴は、大抵、約束など反古ほごにする。当初の目的……厄介なお前を人族公認で殺した後、本当に大災を起こすか、起こさずとも更に何か詰めるか……どちらかだろう」
「……!! 貴方も……そう、されるのですか?」
「今、聞いているのは俺の出方ではない。お前がどうするか、だ。己の意思は無いのか」

 返す言葉がなかった。鋭く、身も蓋もない見解だが、『その通りだ』という気が起こり、感服したのだ。自身の中にもどこかで感じていた事実。だが、認めたくなくて、ずっと見ない振りをしていた……
 自身の在り方や生き方を否定する事にもなる真理。そんな刃を真正面から突き付けられ、思考が固まってしまった。

「何故、そんなに自己を軽んじる? 役目? 義務? 解らんではないが、無意味にしかならない犠牲は不毛だろう。大体、人族というのは自分本位な割に、浅はかで他力本願な者が多すぎる」
「!!」
「お前もだ。もっと自分で自身を守れ。知恵をつけ、考えろ。でないと、あらゆる者に狙われ、しかばねになるまで喰い尽くされ、用済みになればてられるだけだぞ」

 反論したかった。が、出来ない。事実、自分はそうして、この地に来たのだから。だが、ずっと行き場のなかった憤り、哀しみの火種が、少しずつ怒りに変換され、アマリの胸奥でふつふつ、と煮え始めた。どこに対するものかも、分からないまま。

「……貴方は、本当に……全て、が解るのですか?」

 低く、重い掠れた声が、荒れた桃色の唇からこぼれ落ちる。彼の腰元の刀が目に入ったが、気にならなかった。

「……私が放棄したら、多くの方が心のる場を失うのです。混乱が起こり、治安は崩れ、まだ幼い妹に全てのしわ寄せがいく。だから、きっと姉様も……私を守って、下さった……」
「だが、結局、お前も贄に出されたではないか。しかも、俺のような者に……死ぬとわかっていて、だろう?」
「……そうなる原因を生み出すのは、災厄、疫病、戦ではないですか。誰だって脅威なる存在は恐ろしいですし、命惜しいもの。そもそも、その一つを起こすのは……貴方様なのでしょう!?」

 怒りを買って、拷問されるかもしれない覚悟で、アマリは言い放った。ずっと無表情だった荊祟の眉間が潜み、口角がひきつる。

「……確かに、俺だ。だが、人族の所業が良いとは思えん。お前のような女の存在が、その証ではないのか」
「……!!」

 不意を突かれ、アマリは厄神を凝視した。尊巫女という存在に対する、彼個人の考えが垣間見え、心の一番深い場所に隠していたものに、一瞬だけ触れられた気がした。しかし、を許し、全てをさらすのは危険だと、再び隠す。

「……今日、話したかったのはそれだけだ。お前の考えはよくわかった。検討し、後日、また知らせに来る」

 微動だにしないアマリを一瞥いちべつし、忍びやかな身のこなしで荊祟は部屋から去っていった。彼の姿が離れから消えた後、そっ、とカグヤが心配して近づく。

「アマリ様。大丈夫ですか」
「……カグヤさん……すみません。暫く、一人にして、頂けますか?」
「……わかりました。隣の部屋におりますので、何かありましたら伺います」

 一人になったアマリは、茫然自失状態になっていた。今までは彼の事が理解出来ず混乱していたが、先程の会話で自身の事すら分からなくなってしまったのだ。
 暫く朦朧もうろうとした状態で座り込んでいた時――

「失礼致します。尊巫女様。少々よろしいですかな? カグヤには了解を得ております」

 襖の向こうから、落ち着きあるしわがれた声が聞こえた。カグヤでも荊祟でも無い者の来訪は初めてだ。少し警戒したが、隣の部屋に護衛がいる状況なので、了承した。

「……どうぞ」

 襖から入って来た年長者の貫禄ある男は、自分は荊祟の側近だと名乗った。

「貴女の事は、おさ様から色々と聞いております。最近は毎晩、その話題ばかりで」

 彼の物言いに、少し嫌みめいたものを感じたアマリは身構えた。やはり、自分はここでも厄介者なのだと実感する。

「先程、長様が参られたでしょう? 貴女の異能がどんなものか存じませんが…… おそらく、我らに悪影響が出るのでしょうな」
「……」
「あの方は、主としては有能でさとい方ですが、いささか冷酷になりきれないところがあります。人族の血が混じる異種者故でしょうかねぇ」

 何と答えたら良いかわからず、アマリは沈黙していたが、彼も色々あるのだ……と思った。

「……厄界の長として、尊巫女に手をかけられない。我々家臣が亡き者にしても、贄を出したにもかかわらず、いつまでも変わらない状況に人族が怒り、最悪、戦になりましょう……」

 心臓がひきつり、縮まった。確かにその可能性がある事に、アマリは気づく。血の気が一気に引いた。

「……では、どうしたら……こうして生きていても、同じですよね……?」
「貴女様ご自身が、どうにかご自身で……でございます」

 側近が出て行った暫し後、『吐き気がするのでかわやに行きたい』と隣の部屋まで来たアマリと共に、カグヤは離れの外にある厠に訪れた。
 恥ずかしいから、という事で、いつもより少し距離をとって待機していたが、いつまで経っても戻って来ない。嫌な予感がしたカグヤは厠を覗いた。

「アマリ様? 大丈夫……」

 もぬけの殻だった。厠に窓は無いが、鍵も無い仕様だ。急いで離れの部屋に戻ったが……アマリの姿はなかった。

「長様! お取り込み中、申し訳ございません!」

 荊祟がいそうな部屋を回り、ようやく奥座敷で数人の家臣といるのを見つけたカグヤは、血相を変えて飛び込み、頭を下げ正座した。

「なんだカグヤ。無礼であるぞ」
「良い。申してみろ」

 カグヤの珍しくただならぬ様子に、荊祟は緊急性を察し、許可する。

「アマリ様がおられないのです! 離れの部屋にもかわやにも、どこにも……!」
「……それは、まことか?」
「脱走……まさか逃げ延びて、人族と組んで、今度こそ長様に奇襲を企てるつもりでは……!?」
「お待ち下さい! それは杞憂きゆうと存じます」
「お前ごときが、我らに口答えするのか!?」

 カグヤの発言に激昂した従者達に、すっ、と手を差し出し、荊祟は『待て』とばかりに彼らを制した。

「続けろ。カグヤ」
「……あの方には逃げ場も、頼れる者もございません。武器も攻術もお持ちで無いようです。長様への奇襲は……あり得ないかと」
「まさか、あの女」

 重い声色で、最悪の事態を想定した荊祟に対し、真っ青な顔でカグヤは頷く。そのまま首部こうべを深く垂れ、素早く土下座した。

「荊祟様!! そしてご家臣の方々!! どうかアマリ様をお助け下さい!!」

 雇うようになってから、初めてここまで物申した忠実な部下。荊祟だけでなく側近達までが狼狽うろたえ、怪訝な眼差しを彼女に向けた。動揺を抑え、静かに荊祟は問う。

「……何故、そこまで?」
「あの方は……以前の私です」
「!?」
「生まれも育ちも立場も……種族すら異なる方ですが、似た苦しみを抱えておられます」

 整った美しい顔立ちを歪め、悲痛な面持ちで乞う、くノ一が語るアマリへの考えには、思うところがあった。今日、自分に発した彼女の幾つもの言葉、在り方が、荊祟の一番深い場所に刺さっていたのだ。

唯我独尊


「あの方は、決して死なせてはなりません! に生かされた、が申すのは、大変可笑しな見解でございますが、どんな形でも、どんな場所でも、生きて頂くべき方だとお見受けします」

 終始、血気迫る勢いのカグヤに呆然としていたが、一族の長としてではない『荊祟ケイスイ』が、共鳴する。

「しかし……居場所がわからん。黎玄に探させたとしても、間に合うか……」
「心当たりはあります」

 カグヤは確信していた。おそらく、彼処あそこだと――


 ぼたん雪が降り出した、夜更けの庭園。眼前に広がる、宵闇に染まった湖のように広々した池が、アマリには見えていた。薄氷が張り出している、凍てついた静寂に包まれた空間。
 着の身着の上に羽織を着込んだだけの格好だったが、寒さを気にする感覚も、気にする必要も、もう、無い――

「何をしている」

 重圧を抑えた、覚えのある静かな低音の問いが、背後からした。一瞬びくついた後、力なくアマリは振り向く。初めて出会った夜と同じ姿、出で立ちの荊祟が、少し離れた場所にいた。軽く息を切らし、首巻きがずれて顔下がさらけ出されている事以外は……
 今にも霞み消えてしまいそうな彼女の幽玄な姿は、隔世かくりよに旅立つ魂のように見えた。白い手に儚く浮かぶ、更に真白い小さな花が、彼女のに映る。

「……その花は、何だ」

 待雪草スノードロップ花能はなぢからは、花の種類と術者の意図によっては、恐ろしい裏能うらぢからを発動させる異能でもあった。
 待雪草は――『あなたの死を望む』。自分の姿を思い浮かべながら、アマリはこの可憐な花を自身に吸収させるつもりだった。

「死、なせてください……貴方が殺せないなら、自分で…… 私が勝手にした事にしたらご迷惑はかけないでしょう……!?」

 どんな異能を持つ尊巫女にも最大の禁忌であり、自身にも罰として多大な反動が返ってくる術。『生ける命を故意に殺す事』――それをアマリは行おうとしていたのだ。……自分自身に対して。

「……帰る場所もない、贄にもなれない、殺してももらえない。生きていたら人族と争いになるかもしれない…… どうしたら良いのですか……!?」

 掌に純白に輝く花を浮かべながら、そんな事を切に訴えてくる彼女の姿は、痛々しい位に苛烈で――『清廉』だった。何とも言えない衝撃が、荊祟の全身を駆け抜ける。

「お、前……」
「もう……疲れました。つかれたんです……つかれ、た……」

 嗚呼ああ、そうか。自分は疲れていたのだ――と、アマリは気づく。彼女の力無げな渾身の叫びに、荊祟は絶句した。そして、この尊巫女の異能がどんなものなのかをさとる。
 花能はなぢからの存在、効力は知らないが、彼女がこの方法で自害するつもりでいるのは、明らかだった。

「……そんな力があるなら、何故、我らに襲撃しなかった? 何故、奴らに復讐しない!?」
「……あの界にいるのは、だけではないからです。あそこに不幸があると困る方も、力無き方も、沢山おられる……」
「お前には恨む、憎むという類いの念は無いのか」

 理解できない、と言った呆れ半分の思慮が、彼の言葉には滲んでいた。アマリは、そんな厄神の問いに自嘲気味に返す。そのに生気は無い。虚無の域に入っていた。

「そのような情は、もう……とっくにてました。……『憎む』というのは、私にとっては重すぎる、苦しいものになってしまったんです……」

 尊巫女として依頼者と対峙する中、憎しみや怨恨という負の激情に呑まれ、我を失っている者を時々、目の当たりにした。彼らはそれらが自らを蝕んでいる現状に気づかず、時にはそんな自身に酔い、憎き相手を呪い生きる事を望んでいる。
 そんな状態は、彼らを泥沼に追い込んでいるようにも感じた。そんな怨念にされ、てられて続けていたアマリにとって、少しでもそんな念を抱く事自体が恐ろしかったのだ。
 尊巫女として聖人君子でいたいという考えもあったが、それ以上に、そんな底無しの闇を抱くことで精神こころが壊れてしまう事が、怖かったのだ。その位途方もない邪が、既に自身の内に巣食っている事に気づいていたから――

 アマリの言葉の重みに圧倒され、荊祟は息を呑む。この尊巫女――人族の女が抱えていたものは……

「お前の命はどうなる? お前だって人族だろうが」
「以前、貴方は言いました。『どんなに疎まれても自分は神族だから、無意味な殺生はしない』と」

 自嘲的に発した信条を彼女が覚えていた事に、荊祟は不意を突かれ、少しばかりたじろぐ。

「私も同じです。どんなに滑稽でも、利用されているだけだとしても、私は『尊巫女』なんです。そうして生まれて、そうやって生きて来ました。そのすべしか、知らないのです……」

 厄神の鋭く真摯な眼差しを受けながら、アマリはしかりと言い放った。

「それに『私の死』は、ではありません。元々望まれていた事ですし、誰も困らないで済みます。それは、貴方が一番ご存知でしょう?」
「!! 勘違いするな。お前が死んだところで人族の世も、この界も、何も変わらん!!」

 一転、醒めたように、荊祟は黄金こがねの眼光を放ち、激昂した。

「お前がどんな力を持っていようと、それが無くなれば、奴等は何年もかけて、再び代わりになり得るものを血眼で探す。そして同じように利用する。それが繰り返されるだけの事」
「!!」
「偽りではない。そういう生き物だ。俺は、幾度も、幾度も見てきた。無駄死ににしかならんぞ……!!」

 脳天を砕かれ、意識が飛ばされた気がした。眩暈と吐き気がこみ上げ、口元を片手で覆う。眼前の視界に映るもの、何もかもが――見えない。

「……なら、私は……どうしたら、よいのですか……」

 掠れ声で嘆くように呟く。彼の語る事は、アマリには全ては理解できなかった。どこまでも自分は惨めな存在だという事、『絶望』とはどんなものなのか、は、改めて実感したが……底無しの沼だ。終わり、が無い。

「取り敢えず……勝手に死ぬのは、俺が許さん」
「それが真実なら尚更……そんな、酷な虚しい界で……生きたく、ありません……」
「生きたらいい」

 不可解と言いたげな眼差しを向けるアマリに、まじないか、もしくは力を注ぐように厄界の長は説き、えた。

「憎めないのなら……せめて――怒れ。泣いて叫びながら、生きろ!! その位の権利は、お前にだってある!!」

「……ある、のです、か? 私にも……」

 声が震えた。何が正しいのか不明瞭で、混沌とした頭と心。痛みを伴う刺々しい彼の言葉のどこかに、ほのかな温もりを感じる。

「ある。こうして生きているのだからな。此処ここでやれば良い。手助けする。人族の誇りとやらは知らんが」
「です、が……」
「『お前の死』に意味があるか無いか、俺が決める。――いや、今決めた」

 眼に痛みを感じ、アマリの視界が揺らぐ。熱い水の膜が浮かんでいた。同時に、掌の純白の花に霞みがかかっていく。

「たとえ意味があったとしても、お前が存在する事で、それ以上の意味が生まれる。その位は見透せる」
「お、さ……様……」
「死ぬのはいつでも出来る。どうせならその前に、お前という命が燃え、活きた痕を、界の何処どこかに刻みつけろ」

 刹那、アマリはむせぶように涙を流し、生まれて初めて声をあげ――泣いた。みっともない顔をしているだろう……と俯いたが直ぐ様、天を見上げた。えるように。
 忌まわしいとわれる厄神の言葉は、救いの声にも、邪へいざなあやかしの囁きにも聞こえる。至極、苦味ある叱咤激励だったが、『亜麻璃アマリ』という一人の命を救い、息を吹き返させた、柔く巻き付くイバラでもあった。
 実際には、猫が弱々しく鳴く位の声量で泣き声をあげるアマリの掌から、白き花は離れ、薄れゆく。消滅する間際、ひらり、と舞い、淡く煌めきながら、彼女の胸元に染み、還っていった。本来の花能……『希望』『慰め』と共に。

 しくも、あの新月の夜とは真逆、十六夜いざよいの出来事――


↓次話


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