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『資本主義と闘った男』−―伝説の経済学者・宇沢弘文の真相に迫る

経済学者として世界的名声を得た人

宇沢弘文さんのことを知ったのは、社会人になってからだ。最初に読んだ本は、経済学者であり社会学者でもあったソースティン・ヴェブレンについて書かれた本であった。当時、経営学では野中郁次郎さんらの「知識創造経営」という概念が提唱され、その源流を探っていてヴェブレンに興味が湧いたのだと思う。その後、宇沢さんの『自動車の社会的費用』『社会的共通資本』などを読み、その思想と視野の広さに魅了されたが、正直ケインズ経済学を齧った程度の人間にとっては、経済学者としての宇沢氏の位置付けがわからなかった。

伝説のような話が多い人だ。ローマ法皇の参謀役を務めたとか、ノーベル経済学賞に最も近かった日本人とも言われる。さらには、自動車を使うことをことごとき嫌ったとか、ジョギングが趣味でジョギング姿で新幹線にも乗っていたなど、エピソードに枚挙は尽きない。

このような伝説の真偽を含め、宇沢弘文氏の生涯における思索の歩みが詳細に描かれたのが、本書『資本主義と闘った男』である。

1928年(昭和3年)生まれの宇沢氏は、数学者として研究者の道を歩み始めるが関心は社会に向き、マルクス経済学を学ぶ。しかし、どうも自分なりに納得した咀嚼ができない。そんな折、のちにノーベル経済学賞を受賞するケネス・アローの論文を読んだ。記述的なマルクス経済学に馴染めなかった宇沢氏も数学で記述されたアローの論文はすっと頭に入ったようだ。同時に、アローの論文に数学的な誤りも発見し、それを修正した論文をアロー本人に送ると、アローから即座に「アメリカで研究しないか」と誘いの返事が舞い込んだ。1956年のことである。

ここから経済学者としての快進撃が始まる。スタンフォード大学でアローと一緒に研究を始めた宇沢氏は、数理経済学の最先端を走り始める。論文の数々は主要ジャーナルに掲載され、数理経済学者として宇沢氏の名前は全米に轟かせることになる。その後、36歳で経済学の総本山とも言われるシカゴ大学の教授に迎え入れられる。ここでは全米の若手経済学者を集めたワークショップを毎夏開催し、ここからジョージ・アカロフやジョセフ・スティグリッツなどのノーベル賞学者が排出された。

まさに経済学の本場、アメリカの中心で存在感を見せつけた経済学者だったのだが、1968年に帰国し東京大学へと移る。第一線の経済学者としてのキャリアを放棄したかの動きだったのだ。その真相は、入念に取材をした著者もわからなかったようだ。

帰国後の宇沢氏は水俣病などの公害問題や成田空港建設問題などの市民運動などにも関与するようになり、理論家ではなく実践者の一面を強めていく。晩年は地球環境問題やTPP問題にも積極的に関わった。

学者の枠に収まりきらなかった人

とにかくスケールの大きな人である。経済学の中でも数理経済学者として頂点を極めたが、新古典派経済学、マルクス経済学、ケインズ経済学という従来の枠に収まらない。関心は経済を超え、社会問題へと広がる。それが「社会的共通資本」という独自の概念を生み出すことに行き着く。学者という枠も超え、思想家としてそして実践者として社会問題に向き合う。もはやその生き様に既存の枠組みは見当たらず、「宇沢弘文」として生きた人である。

活動の広さは付き合った人の広さに現れる。本書に登場する宇沢さんと関わりのあった人を並べてみたも、先のアローやスティグリッツのほかにも、ミルトン・フリードマンやロバート・ソロー、日本では森嶋通夫氏、都留重人氏、青木昌彦氏、吉川洋氏など早々たる面々が顔を出す。政治家でも宮沢喜一氏や後藤田正晴氏、不破哲三氏など。長野県知事を務めた田中康夫氏も、宇沢氏と仕事を共にしている。その他にも丸山真男氏や東畑耕一氏などの当時の言論の中心人物らとも交流する。

宇沢氏の足跡から、本田宗一郎氏や盛田昭夫氏など昭和の経営者を思い出す。その思いに突き動かされた破天荒な振る舞い、そして技術者や経営者を超えて、日本を代表して世界に発信した人たちだ。

経済学の中心地シカゴで正統派から認められながら東京という「僻地」に一人で移転。その後は、公害などマイノリティの側に立った活動に重点を置くことになる。従来の学問分野で見るとその歩みはちぐはぐかもしれないが、宇沢さんの問題意識は一貫していたのではないか。それは「市場経済が社会の問題をどこまで解決できるのか」という一点だったと思われる。経済の中心は、巨額のお金が動くウォール街でもなければ、学派の中心であるシカゴでもない。経済成長の理論も先進国しか対象としないモデルを嫌い、途上国の課題を同時に考えた人だ。

宇沢氏が問い続けたものは何か

本書で描かれている時代背景が興味深い。1928年生まれの宇沢氏はまさに戦中世代。疎開も経験し、何もなかった戦後に学生時代を過ごし学生運動も経験する。その後、1956年から1968年までアメリカで研究生活を送るが、時代はまさにベトナム戦争一色。繁栄を続ける米国経済の豊かさと同時にベトナム戦争による影と正対する。そして12年ぶりに戻ってきた東京で宇沢氏が見たものは、高度経済成長で生まれ変わった近代都市の姿であり、同時に破壊された自然の姿だった。右肩成長の世界の真っ只中で、宇沢さんは絶えず、持続的かを問い、見逃されがちなものを注視する。

経済学者としての宇沢弘文氏について僕は評価できる前提を持ち合わせていないが、市場経済の可能性と限界を常に問い続けた人ではないか。そして多様性と持続可能性を念頭に社会を見た思想家であり実践家であった。

宇沢氏は2011年の春に倒れ、3年半にわたる闘病生活の後、2014年9月に生涯を閉じる。時代は、今やSNSのソーシャルなつながりを超え、ブロックチェーンなどによる個々の新しいつながりが生まれ、市場か国家かという枠組みを超えた経済圏の誕生が期待されている。一方でSDGsやESG投資の考えも広まりつつある。あたかも宇沢氏の思想の細胞のような活動が動き出していることに、生前の宇沢氏の貢献は無縁ではないだろう。

華麗な交友関係とは裏腹に、宇沢氏は孤高の人でもあった。アローとの関係が良好だったにも関わらず、シカゴ大学に移転。シカゴでも経済学界の中心に鎮座しながら一人東京へと離れる。帰国後は、さまざまな活動に同志とともに精力的に関わっていくが、「宇沢軍団」や「宇沢組」といった徒党を組むことは決してなかった。事実、宇沢氏は師匠や弟子という言葉も嫌い「研究者は独立したひとりの人間だ」と言ったという。オープンな性格で人付き合いもよく、ビールを飲みながら語り合うことをこよなく愛した宇沢氏だが、決して群れる人ではなかった。孤独を愛する寂しがり屋であったのか。

科学者に聞くと、ゼロから未知なるものを生み出す研究の大元は、一人でやるものだという。誰もが分析できなかった市場と社会との関係を解き明かそうとした宇沢氏はその意味で、やはり研究者だったのではないか。そして、宇沢氏が問い続けた種は、いま社会のいたるところで芽をつけ出そうとしている。


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